第9話
本来であれば、夏に朝顔以外のことで頭を悩ませたりはしなかった。八割方が朝顔で、後の二割に久遠の家や舟たち、少々関りのある人のことを考えるくらいだった。ほぼほぼ、どうすればより珍しい朝顔を咲かせることができるのか、そればかりを考えて過ごしていたと言えよう。
東吾は鉢植えを眺めつつ、それから庭の小さな畑に舟が植えてくれた夏野菜を収穫する清江のことも眺めた。
清江は毎日、手が空いた少しの間に東吾が与えた紬を仕立てているらしい。着物を仕立てるのにどれくらいの日数がかかるのか、そんなことまでは東吾もわからない。まだその新しい着物を着ていないところを見ると、出来上がっていないということだ。
もしかすると、根を詰めているのかもしれない。このところ、少しばかり疲れた顔をしているようにも思う。そんなことを気にする程度には、清江のことを見ていた。
ついこの間までは知りもしなかった赤の他人が家にいる。それがどうして不快でないのか、東吾にもよくわからなかった。
――しかし、この日、夕刻になって久遠の家から東吾にとって思いもよらなかった知らせが舞い込む。
「正治郎が?」
東吾のもとへ走ってくれた若党が、青ざめた顔でうなずいた。
正治郎が文を残して消えたのだという。最初は、いつものごとく東吾の屋敷へ顔を出しに行ったのだと思っていたそうだが、文机の上に両親へしたためた文があった。
その文を、久遠の両親は東吾にも見せるようにと告げたのだそうだ。東吾に何か心当たりはないかと訊ねたいのかもしれない。
東吾は玄関先で正治郎の文を開いた。正治郎らしい力強く活力のある文字で記された文は短かった。
――家を出ることに致しました
後のことは兄上にお願いしとうございます
急なことに思えた。
しかし、正治郎なりに悩んで決断したのだろうか。そんな義弟の心のうちを、東吾はどれほど理解していたのかと問われても、何も返せない。目の前がゆらゆらと揺れているような感覚がした。
正治郎は突発的に飛び出したのだと思える。東吾のように前もって下準備をし、土台を固めるような性格ではないのだ。何が正治郎を駆り立てたのか、その責任の一端は間違いなく東吾にある。
「――まずは心当たりを探してこよう」
「どこか思い当たるところがおありなのでしょうか?」
「いや、そうとも言えぬが、まだそれほど遠くへは行っておらぬように思う」
「そうだとよいのですが」
正治郎は久遠の血を引く跡取りだ。気ままな身の東吾とは違う。
それがいなくなったとあっては家の存続に関わる。皆が慌てるのも無理はない。
「おぬしたちもそれぞれに捜してくれ。もし見つけたら屋敷まで送り届けよう」
「はっ。お頼み申し上げます」
若党が去ると、清江がおずおずと顔を覗かせた。話は聞こえていただろう。
「少し出てくる」
断ると、清江はうなずきつつもつぶやいた。
「正治郎様がここへ来られなくなったのは、わたしが参ったせいでしょうか?」
何故そんなふうに思うのだろう。清江には関りのないことだ。
「そうではない。私がもう少し真剣に話を聞いてやるべきだったのだ」
いつもおざなりな言葉でごまかして、まともに向き合ってこなかった。すべて東吾が悪いのだ。
それでも、清江はまだ何かを気にしているふうだった。
そんな清江を残し、東吾は外へ出た。
正治郎はこのまま東吾に二度と会わぬつもりなどないはずだ。それなら、東吾が思いつくところにいる。それはどこなのか。
もし、東吾が正治郎を捜し出せなかったら、正治郎はがっかりして東吾に本気で愛想を尽かすだろうか。
いつも正治郎が東吾のところへ来る道を辿る。夕刻とはいえ、この時季は日も長い。まだまだ行き交う人々も多く、日中とあまり変わりはない。そのすれ違う人々を見遣りながら正治郎が紛れていないかを気にした。
歩くうち、正治郎は
橋の上、欄干に手を添えて東吾を待っている。あの文を運んできた若党は、正治郎の言いつけで東吾のもとへやってきたのかもしれない。元々、正治郎は家出などしていないのだ。
東吾をここまで呼び寄せたかった。あの家ではできない話があると。
「正治郎」
悪ふざけだと怒るつもりはない。正治郎の目が普段よりもつり上がって見えて、何かに思い悩んでいるようには見えたのだ。そして、そんな顔をさせているのは多分、東吾である。
一度唇を強く結ぶと、正治郎は口を開いた。
「兄上、それがしは家を出ます。ですから、兄上はお戻りください」
どうして、いつまでも諦めようとしないのだろう。苛立ちにも似た感情が腹の底にふつりと湧いた。
「久遠の血を引くおぬしが家を継ぐ。それが一番相応しい形だ。正治郎、俺を困らせるようなことばかり申すのはそろそろ終いにしてくれ」
正治郎は何をやっても東吾に敵わない、東吾の方が優れていると言う。
けれど、そんな差は多少のことで、正治郎が東吾を抜く日も来るだろう。その些細な力の差などより、血の方が重い。正治郎はそれを認めたくないのか。
しかし、この時、正治郎はキッと東吾を睨んだ。幼い頃のように泣きだすのではないかと思うような表情に、東吾の方が怯んだ。
「兄上が血にこだわって家を出たと申されるのでしたら、それがしは生まれない方がよかったのです」
「何を――」
「そうでしょう? それがしが生まれなければ、兄上は家を出ることはなく、嫡男として立派に家を継いだはずです。それがしが兄上の居場所を奪ったのですか?」
唇が戦慄き、目が大きく見開かれる。そこに正治郎が抱え込んでいた感情が見えた。
そのことに愕然とするしかない。
東吾自身は正治郎がそのようなことを考え、悩んでいたとは少しも考えなかったのだ。
ずっと子ができなかった夫婦の間にできたのだ。こんなにも望まれて生まれた子はいないと、東吾はそんなふうにしか思ってこなかった。
いつからだろうか。正治郎はいつ、実子の自分が生まれたせいで東吾の肩身が狭くなったと気づいたのだろう。それを幼い胸に抱えながら東吾を慕ってくれていた。
正治郎が正当な跡取りだと東吾が言えば言うほど、その都度正治郎を傷つけていた。そんなことすら東吾は気づいていなかったのだ。
周りが東吾に気兼ねをして、正治郎を跡継ぎにできないのだから、自分が身を引けば丸く収まると決めつけた。正治郎の思いも知らず、自分だけが正しいことを言っているような気分でいたのかもしれない。
誰かを傷つけるつもりなど、どこにもなかった。
ただ、自分が引けばそれで丸く収まる話だと思っていたのだ。
正治郎が欄干に沿える手に力を込める。
「あの娘御を女中として雇ったのも、若い娘と暮らしていると噂になれば家に戻るには外聞が悪いからではないのですか? それを理由にそれがしが諦めるように仕向けたのでしょう?」
「そんなことは考えてもみない。ただ、成り行きで雇っただけだが――」
何を言っても言い訳のようだ。
これは東吾自身が人と向き合わずに逃げ続けているからいけない。
それでも、正治郎は大事な弟だ。血の繋がりがなくとも、弟ではある。その弟を苦しめ続けている自分に愛想が尽きるが、人は急には変われない。
こんな時、どうしたらいいのだろうか。
正治郎は東吾が家に戻ると言うまで納得しないのだろうか。しかし、それでは正治郎はどうなるのだ。家を継がぬのなら他家に婿入りでもするのか。
そこまで考えてはいないだろう。やはり、感情的になっているに過ぎないのだ。
「正治郎、俺は――」
ぽつりと口を開く。そして、一歩前に出た。
正治郎がこんなにも悩んでしまったのは、東吾の言葉が足りないからだ。
心をさらけ出すのが苦手で、つい己だけが納得して終わらせてしまう。人の心の奥まで覗けない。未熟な東吾がいけないのだ。
大事なら、もっと語らなくてはならないのに、なかなかそれができない。だからこそ、正治郎も寂しさを覚えたのか。
「俺は、家を継ぎたいと思ったことがない。おぬしが生まれてくれて、それでもっともらしい言い分でおぬしに家を押しつけられて安堵していた。これが俺の本心だ。情けない兄ですまぬな」
本当は、正当な血など気にしていたわけではない。
重たいしがらみから逃げただけなのだ。逃げてもいい理由がほしかった。
その情けない心を隠して、気取って、それで周りを傷つけている。どうしようもない男だ。
正治郎は幻滅しただろうか。表情は叱られてしょげ返った子犬のように見える。
「どうしてですか? 兄上ならば立派に家を盛り立ててゆけるでしょうに」
「これはきっと生まれ持った性分で、俺には普通の暮らしができぬのだ。こんな言い方では納得できぬか?」
この時、正治郎は静かにかぶりを振った。
「――いいえ、今、兄上が本当のことを語ってくださっているのはわかります。兄上はいつも、兄上の持ち物をすべてそれがしに与えるようなところがおありでした。そうさせてしまうのはそれがしのせいなのかと、ずっと考えていて、どうしたらいいのかわかりませんでした。口で言えば言うほど、兄上の心が離れていくような気がして」
「すまぬな、長く悩ませてしまって」
この時、正治郎は東吾の目を見据えた。まっすぐに。
東吾の方が思わず逸らしてしまいそうになるほど、そこにはしっかりとした芯があった。いつまでも正治郎は子供ではないのだと痛感する。
「では、兄上は家の代わりに何を守ってゆかれますか?」
正治郎の問いかけに、とっさには何も答えられなかった。それでも、正治郎はさらに言い募る。
ただしそれは問い詰めるのではない。東吾を案じてのことだと思えた。
「朝顔だけと向き合い、兄上はそれでよいとお思いになりますか? それが悪いと申すのではございません。けれど――」
正治郎はそこで言葉を切った。きっと、正治郎自身がどう言えばいいのかわからなかったのだ。あまりにまっすぐな言葉では東吾を傷つけると、それがわかるほど大人になっていた。
東吾もまた、ここでどう答えていいのかわからないのである。
何を守って生きてゆくのか。
己だけを守って、殻に閉じ籠って、そうして腐ってゆく。
それでは悲しいと、きっと正治郎は思うのだ。
「守るべきものが今後見つかるかどうかはわからぬが、おぬしに迷惑をかけるようなことだけはせぬように気をつけよう」
こんな言い方では正二郎は少しも楽にならない。それなのに、上手く言えない。
正治郎は笑わなかったし、東吾も胸のつかえが取れることはなかった。
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