第8話

 その後、東吾は清江を家に残して出かけた。


 清江は以前、立ち入ってはならない部屋はないかと訊ねてきたが、朝顔の種をしまってある箱と庭の朝顔に触れなければそれでいいと答えてある。種は細かく仕分けてあり、見た目では違いの判別が難しいので、もしひっくり返してしまったら面倒なのだ。まともに咲きそうもない歪んだ種が大事なものであるとは、一見しただけではわからないだろう。


 清江は掃除をしてくれるつもりでそれを訊ねてきたのだ。だから、入ってはならない部屋などない。どの部屋も清めてくれたらありがたい。


 悪戯や盗みを働くような女子ではないから、そこは安心して出かけられる。そもそも、東吾が出かけたのは、清江のためである。


 本当に身ひとつで出てきたのだ。着替えもなく、あれでは不便だろうと思えた。

 しかし、清江は慎み深く、謙虚だ。東吾から物を与えられたとしても、雇われの身で受け取る理由もないと断られる気がした。どうすれば清江は着物を受け取るだろうかと舟に相談することも考えたが、誤解を受けそうな気もして諦めた。

 買ってしまえばどうにかなると考えることにした。



 朝顔に関するものならば、少々遠かろうと買いに歩いた。けれど、それ以外のものを買い求めるのは本当に久しぶりかもしれない。


 日常に必要なものは舟が買い足しておいてくれたり、行商人が来たり、正治郎が持ってきたり、東吾が手配しなくともどうにかなっていた。こんな形で出歩くことになるとは、ひと月前までは夢にも思っていなかった。


 ゆったりと歩いている東吾を、せっかちな江戸っ子たちが追い越してゆく。そんな中、東吾は呉服屋の店構えを見つけて立ち止まった。


 古着では手渡しにくく、かといって新品では高価すぎて受け取ってもらえない気がした。

 あの年頃の武家娘ならまず裁縫を仕込まれている。本人も繕い物は得意だと言った。それなら、反物から着物に仕立てることもできるはずだ。反物を買った方がいいのかもしれない。

 店先を掃いていた小僧が、客と見て頭を下げる。


「いらっしゃいませ。ささ、どうぞ奥へお入りください」


 利発そうな、躾の行き届いた小僧だった。東吾も笑って返す。


「うむ。では邪魔をする」


 暖簾の向こう側、上がり框の先に反物が堆く積まれており、手代や番頭がそれぞれに客あしらいをしている。東吾のところにも前掛けをした手代がやってきた。東吾よりも少しばかり年上かもしれないが、それでも腰は低い。


「いらっしゃいませ。何をお求めでございましょう?」

「うむ、若い娘が平素着られるようなもの探しておる」

「若い娘さんで」

「落ち着いた武家娘なのだが」

「普段着でございましたら、地色も控えめな方がよろしいでしょうね。いくつか見繕って参りますので、しばしお待ちくださいませ」


 毎日の仕事であるから手慣れたもので、手代はそう待たせずに反物を持って戻った。いくつかを畳の上に置き、三反の反物を二尺ばかり広げて見せてくれた。


「小紋やしまもよいのですが、つむぎでしたら独特の風合いもございますので、無地でも合わせやすいかと」


 無地の反物は、花色であった。これがいいと思ったのは、朝顔の花にも通ずる色であったからだ。特に綺麗だと思えた。何より、涼しげなこの色が、水辺を思い浮かべる名を持つ清江になら合うという気になる。


「この無地のものがよいな」

「こちらで?」


 他の反物をシュルリと音を立てて巻き上げ、脇に避けると、手代は花色の紬を東吾の方に差し出す。


「どうぞお確かめください」


 触ってみると、まっさらな紬は少し硬かった。東吾がそう感じたことを察したように、手代はにこやかに言う。


「紬は着ているうちに程よく馴染みます」

「そうか。では、これをもらおう」

「へい、毎度ありがとうございます」


 思った以上にあっさりと決まった。やはり、店者たなものの勧めには間違いがない。反物を小脇に抱え、東吾は満足して呉服屋を出る。


 しかし、ここからが大変なのかもしれなかった。清江は心置きなくこれを受け取り、着物に仕立ててくれるだろうか。大して値の張るものではないのだから気兼ねは要らないと思うのだが、受け取る方は気が重いという理屈もわからなくはなかった。

 それでも、せっかく買った以上は無駄にしたくないものだ。


 そんなことを考えながらぼんやりと歩いていた東吾は、同じように余所見をしながら小走りになっていた男とぶつかった。

 ぶつかったとはいえ、互いに体を斜にずらしたので、それほど強くは当たらなかった。とっさにその動きをするのだから、相手もそれなりに武術の心得があると見た。


「ああ、申し訳ない。急いでおりましたが故に、ご無礼仕りました」


 相手は、東吾とそう年の変わらぬ若侍であった。体躯はややがっしりとしており、激しくぶつかったら、細身の東吾の方がよろめいていたかもしれない。この若侍もまた御徒おかちではないだろうか。旗本の子息などではなく、もっと辛酸を舐めて叩き上げられた逞しさを感じる。


 ぶつかった東吾のことをよく見る前に謝った。人を見て態度を変えたりすることもないのだろう。非を認める潔さがあり、腕が立とうと驕りも見受けられない。好人物だと東吾にも思えた。


「いや、こちらも脇見をしていた。すまぬ」


 すると、若侍は東吾が腰に差した太刀にふと目を留めた。それから、ゆるくかぶりを振ると、


「それでは」


 礼儀正しく頭を下げ、小走りに去った。

 あの若侍が何を考えたのか、東吾にもわかる。

 もし立ち合ったとしたら、勝てるだろうか。――五分だと思った。



    ■



「只今戻った」


 蒸し暑いためか、開け放ってある玄関の戸を潜ると、中から清江が慌てて出てきた。今まで掃除をしていたようで、頭には手ぬぐいを被っている。それをサッと取り払うと、清江は丁寧に手を突いて東吾を迎えた。


「おかえりなさいませ」


 毎回、そこまでしなくともよいのだけれど。

 久遠の家に戻った時の女中たちの丁重さと同じだった。そう思いはしたものの、やはりそれもどこか違う。何が違うかというと、心だろうか。


 清江なりに、ここへ置いてもらっているのだからと東吾に感謝している。その気持ちが些細なことにも滲んでいる。


 東吾は苦笑すると、履物を脱ぐために上がり框に腰を下ろした。膝を突いたままで顔を上げた清江と顔の高さが近くなる。履物を脱ぐよりも先に、東吾は小脇に抱えていた反物を清江に差し出した。


「これを」

「え?」


 突然のことに清江は戸惑い、何度も目を瞬かせた。そうして、恐る恐る反物の両端に手を添える。


「これで何か繕い物を致したらよろしいのでしょうか?」

「うむ。まあ、そうだな」


 歯切れ悪く言い、東吾は頬を掻いた。


「それは清江殿に。自分の着物を仕立てるといい」


 身なりがみすぼらしいとか、そういうことを言っているわけではないのだが、そう受け取られたのだろうか。清江は見る見るうちに顔を曇らせた。


「――このようなものは受け取れません」


 やはり、こうなる。こうした返答が清江らしいのだ。

 自分を憐れんで施そうとする相手に、清江のような娘は甘えない。何か力になれたらと思うけれど、清江は他人に甘えることで自らが余計に苦しくなってしまうのだろう。


 もっと気を楽にしたらよいものを、ともどかしくはある。

 東吾は落ち着いて返した。


「雇い主が渡すものを何故に受け取れぬと申す? 遠慮など要らぬよ」

「ただでさえ御厄介になっている身ですのに、そこまで厚かましくはなれません」


 ゆるゆるとかぶりを振り、反物を東吾の方に向ける。難しく考えずともよいものを、損な性分だ。

 東吾はなるべくにこやかに、ゆとりを持って言った。


「ああ。反物ではいけなかったか。仕立ててから渡すべきだったな? 気が利かずにすまんな」


 それを聞き、清江は慌てた。


「い、いえ、それくらいのことはできます」

「そうか。それはよかった」


 駄目押しに言って押しつけると、清江は戸惑いつつも諦めたようだ。困ったように眉を下げた。けれど、嫌がっているわけではなさそうだ。

 慣れないことに困惑している。そんな表情が少し新鮮ではあった。


「――ありがとう存じます」


 うむ、と言って東吾はうなずいた。清江が反物を手にしているだけでその色が似合うのはよくわかった。

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