第7話

 朝、だるさの残る体で起き上がり、東吾は井戸水で顔を洗った。手ぬぐいで顔を拭きながら庭を眺める。

 夏の日差しが降り注ぐ中、東吾が手塩にかけて育てている朝顔たちは元気だった。盗人たちがこの朝顔に目をつけ、盗んでいかなかったことは幸いである。素人目には値打ちがわからないのだろう。


 東吾はそのことに安堵しつつ、手前にあった〈けいそくやなぎ〉に変化した葉を撫でた。本当に緑色をした鶏の足のようで面白い。


 近いうちには咲くだろうと思える鉢がいくつかある。思うような花をつけてくれるかが楽しみだ。

 そのまま朝顔に目を向けている東吾の背に、清江の控えめな声がかかった。


「おはようございます、東吾様」


 振り返ると、清江は朝餉の膳を横に置き、三つ指を突いて頭を下げていた。


「昨晩はお助け頂き、改めて御礼申し上げます」

「――あれは我が家に入った盗人だ。時折、ああしたことがある。清江殿には怖い思いをさせてすまなかった」


 清江はおずおずと顔を上げた。しかし、まっすぐに東吾を見ず、また視線を下げて畳の上に落とす。


「初めてのことではなかったのですね。どうりで落ち着いていらしたわけです」


 落ち着いて見えたのだろうか。清江がいた分、今までで一番慌てていたつもりなのだが。

 一人であれば、もっと気が楽だった。極端な話、何かを盗られたとしても仕方がないとは思う。どういう変化を見せるのか楽しみに待っている朝顔の鉢を盗られるよりは、金目のものを盗られた方がましだとも考えている。


 けれど、清江は物ではないから、もっとわけが悪い。

 朝顔の鉢を盗られるより、駄目にされるより、困るのだ。人である、それも年若い娘に何かあってはいけない。清江が無事でよかったと心底思う。


「後でまた蚊帳を買ってこよう。あれでは使いものにならんのでな」


 ハハ、と東吾は笑ってごまかした。

 慌てていたから、蚊帳を切り裂いてしまった。蚊どころか、あれでは熊でさえ出入りできてしまう。

 そこでようやく、清江はほんのりと頬を染め、表情を和らげた。


「また買って頂くなんて、とんでもございません。針と糸とをお貸し頂けましたら、縫い合わせますので」

「直せそうか?」

「はい、繕い物は得意にございます」


 ようやく肩の力が抜けたような笑みが見られた。東吾もほっとして庭から座敷に上がる。そんな東吾を眺めつつ、清江はつぶやいた。


「それにしても、東吾様はお強いのですね」

「いや、あの盗人共は武術の心得すらないような者だから、俺でもどうにかなるのだ」


 東吾よりも真面目に剣術に打ち込み、目録を取った者もたくさんいる。東吾の技は所詮、どっちつかずの小手先だけのものに過ぎない。正治郎もあれで筋がよく、いずれは抜かれるだろうと思っている。

 それでも、清江にはそう映らなかったらしい。


「わたしの兄も熱心に剣術修行に打ち込んでおりましたので、もしお会いする機会があらば東吾様にお手合わせを願うのではという気が致します」


 そんなことを言い、くすりと笑った。それが珍しいと感じられた。

 清江も人の子だ。声を立てて笑うことくらいある。

 それはそうなのだが、珍しいと感じたのは、身内の話をしたからだ。家を出た清江は、今まで家の話を避けていたように思う。それがふと口の端に上った。それが珍しかったのだ。


「清江殿には兄上がおるのだな」


 舟が、清江には兄弟が多いと言っていた。父が隠居したとも。それならば、家を継いだ兄がいてもおかしくはない。いるのだろうとは思っていた。ただ、舟と話したことは内緒なので知らないふりをしたまでだ。


 清江は東吾の問いかけに居心地が悪くなったのか、かすかに悔いたような表情を浮かべた。だからか、東吾もとっさに言ってしまった。


「俺にも兄がおる。とはいえ、物心ついてから一度も会ったことはないのだが」


 そのひと言に、清江は目を瞬かせた。


「兄上様が? ご兄弟は正治郎様だけではなかったのでございますね」

「ああ。俺は久遠家の養子だ。兄というのは、生家の、血の繋がった兄だ」


 清江は口元に手を当て、指の隙間から声を零すようにしてつぶやく。


「では、正治郎様とは義理のご兄弟であらせられるのですね」

「そういうことになる。似ておらんだろう?」


 軽く笑ってみせる。けれど、清江は笑わなかった。この話をして笑う者などいないのだが。

 唯一、舟だけは憐みも気まずさも感じさせず、よくあるお話でございますね、と言ったのみである。そういえば、よくあるのかと東吾も幾分気が楽になったのだ。


「それでも、正治郎様は本当に東吾様をお慕いしておいでです。それは血の繋がりがなくとも確かなことにございます」


 清江が手を膝の上に落とした時、その顔にはいつものこわばりとは違う柔らかさがあった。


「それはありがたいことではあるのだがな、時折うるさくて敵わんと思う時もある」


 そんなことをふと口に出したのは、清江の微笑みのせいかもしれない。この話を引き延ばしてみたいような気になった。


「兄妹とはそうしたものでございますね。かく言う私も、弟たちには口やかましかったかと。今ではうるさいのがいなくなったと思っているかもしれません」


 どちらかといえば物静かな清江である。口やかましくするところを見てみたいものだ。そう思ったら、東吾の口元にもフッと笑みが浮かんだ。


「口やかましいのはその弟御を案じるからだな。正治郎もだ。うるさいと思いつつも、心配のかけ通しになってしまっているのもわかってはいる」

「東吾様はともかく、うちはどうでしょう」


 などと言って清江は苦笑する。その表情には弟たちを案じる心が滲んでいた。だから、微笑ましくて言った、ただそれだけのことであった。


「世話を焼いてくれていた姉上がいなくなり、恋しがっているのではないかな?」


 その途端、はたりと清江は表情をなくした。先ほどまでは、微かなりとも笑みを浮かべていたのに、今度は感情を覚られぬように努めているように見えた。

 清江が家を出たのは、何も望んでのことではない。帰りたい思いはあるだろう。それを無遠慮に、愚かなことを言ってしまった。


 東吾が悔いても、ここで謝ることも憚られた。東吾は清江が家出した理由を知らぬというていでいるのだ。訳知り顔で、すまないことを言ったと詫びることはできない。

 すると、清江はぎこちなく目を細め、笑っているのか泣きそうなのを堪えているのかわからない顔をした。


「そう、ですね」


 やっと言葉を捻り出したといったふうで、東吾は苦々しい心境であった。

 このところ、東吾が相手をしていたのは、正治郎か、舟か、植木屋か、それから朝顔のことしか語らない好事家たち――。


 気の張る付き合いがなかった。気楽なものではあるけれど、それ故にこうした時に気の利いたことが言えない東吾なのであった。


 女子はもしかすると、朝顔よりももっと、ずっと、複雑なのかもしれない。

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