第6話

 それから数日して、変化朝顔の花がまたひとつ、蕾をつけた。


 咲ききらずとも花の色はわかる。華やかな瑠璃だ。もともと、双葉の頃になれば花色は予測することができる。こうした瑠璃の花を咲かせる朝顔の双葉は、軸が黒い。桃色や薄紅色の花色の場合、双葉の茎にもその色が現れる。大抵は双葉の茎で判別ができるといえた。


 この葉は捻じれて細く、龍の爪のように見えるので、〈縮緬ちりめん立田たつたあまりょう〉という。


 地は正常な色合いであるけれど、それに斑の白い模様が入った斑入ふいりだ。なので、この葉を正式に書き記すと、〈青〉――これは葉の色を示す。そこに〈斑入〉――斑が入る。


 よって、この鉢の葉を表すだけで〈青斑入あおふいり縮緬ちりめん立田たつたあまりょう〉という長い名になる。


 そこに花が咲いてみると、さらに名は長くなる。

 咲いてみないことには成功したとも言えないものであるけれど、この株は〈だいざき〉、ひとつの花の中からもうひとつ花が飛び出したような、二段の花が咲くように掛け合わせたつもりだ。

 形は〈とりかぶと〉と呼ばれる筒状の花をつけると東吾は考えている。


 葉が捩れているように、蔓も捩れていて、そのせいで朝顔だというのに蔓の巻きつく力が弱い。鉢に組んである竹ひごの支えにふわりと頼りなくかかっている。


「うぅむ、青葉がなぁ――」


 葉の色を黄色に変えてみたいところだが、この系統は青くなりやすい。また地道に咲かせ続けるしかないだろう。

 多くの変化朝顔は不稔ふねん――種を残さない。その場限りである。珍しい変化であればあるほど、そうした傾向にある。

 それを咲かせるためにまた労力を傾ける。狂気の沙汰といえる執念深さが要るのだ。


 東吾なりに楽しんではいるけれど、傍目にはあまりに辛気臭かったのだろう。

 清江が庭から上がってこない東吾を心配そうに見ていた。


「あの、そろそろ昼餉を」


 熱中しすぎて忘れていた。腹が減ったというより、せっかく用意してくれた清江に悪いと思った。


「すまん、今食べる」


 きっと、東吾が食べなければ清江も食べられない。今後、もう少し気を遣わねば。

 こうした時、舟は遠慮なく東吾に声をかけた。気づくまで待ったりはしなかった。ついその癖が抜けず、呼ばれるまで没頭してしまう。


 東吾がこうした性質であるから、正治郎も度々顔を出すのだ。放っておいたら飯も食わずに朝顔を眺めていそうだと思うらしい。しかし、さすがの東吾も日が暮れれば、一日没頭していたのだと、それくらいはわかるつもりである。

 清江は軽くかぶりを振った。


「申し訳ございません。お邪魔をしてしまって」


 声をかけてよかったのかどうか迷ったのだろう。困って見えた。


「いや、声をかけてもらって助かった。いつもこうなのだ。つい周りが見えなくなってしまうので、何かあったら遠慮なく呼んでくれ」


 そう言うと、清江は幾分ほっとしたようだった。

 遠慮がちなのは立場のせいで仕方がないのだろう。けれど、そればかりでなく、もともと控えめに躾けられている気がした。



    ■



 その晩のこと、東吾は蚊帳の中で眠っていた。蒸し暑く、寝苦しい夜で、やっと眠りについたのは夜も更けた頃であった。

 それでも、眠りは浅かったのかもしれない。カタ、カタ、という音を耳が拾った。


 こう寝苦しい夜なのだ、清江が起きて水でも飲んでいるのかと思った。最初は気にしなかったものの、それにしては音が荒い。清江があんな音を立てるだろうか。

 東吾は夜具の上で起き上がる。すると、障子の向こうにほのかな灯りが見えた。


 はぁ、とひとつ嘆息すると、東吾は枕元にある刀を手に取った。この刀は水心子すいしんし正秀まさひでの流れを汲む刀工の手による。元服の折に久遠の父より授かって以来、手入れを欠かしていない。刀の手入れは武士のたしなみ、などと思ってのことではない。そもそも東吾は今の自分を武士だと名乗れるとは考えていない。


 そんなことではなく、残念なことに、これが役に立つ時がままあるのだ。

 東吾は寝間着の浴衣の前を軽く直し、静かに蚊帳から抜け出す。庭先に続く方の障子戸を開くと、月明かりが部屋の中に差し込んだ。


 それから足音がする障子の前で息を整え、気持ちを落ち着ける。障子に手をかけ、瞬時にパァンと音を立てて開いた。その正面にいたのは、提灯を手にした見知らぬ男であった。男はヒッと声を上げる。


 盗人の方が驚くというのもおかしなものだ。盗人は三十ほどの年の男だった。普段から掏摸すりで日銭を稼いでいるのではないかと思うような小狡い顔つきである。

 東吾は慌てず、脇構えから抜きつける。その抜刀を目で追えなかったらしく、盗人は躱す素振りも見せなかった。その袂が容易く切れてぶら下がる。


「次は腕だ。随分と手癖の悪い腕のようだから、構わぬだろう?」


 こういう手合いは少々脅してやった方がいい。散々脅すと、もう来なくなる。

 この屋敷へ盗人が入ったのは今日が初めてではないのだ。何度目かと数えたことはないけれど、時折こうしたことがある。


 朝顔を育てている酔狂な隠居が一人で暮らしている――そんな噂を聞きつけてくるのだろう。隠居と聞くとまず、老体を思い浮かべる。独居老人が金を蓄えているのだから、そこに盗みに入ることなど造作もないと思うのだろう。


 しかし、生憎と東吾は若い。それに一度は家を継ぐべくして剣術にも身を入れていた。寝込みを襲われるという不意打ちであろうと、竹刀しないもまともに握ったことがないような男たちに後れを取ったことはない。


「お、お助けを――」


 ガタガタと震え、男は首を振った。それに合わせて提灯の灯りが揺れる。

 人のものをかすめ取り、汗して働くこともない男だ。死を間近に感じた時にまで肝が据わっているわけではない。斬るのも面倒だ。


「生かしてやってもよいが、それならば二度とここへは近づくな」


 そう言うと、盗人は噛み合わない歯をカチカチと鳴らしながらうなずいた。こうなると憐れなものだが、悪事を働き続けているのだから、気の毒だなどと思ってやる必要もなかった。


「それから、ここに限らず、盗みはやめろ。ろくな死に方をせぬぞ」


 説教などしたくはないが、ここでしくじったからと仕切り直しに他所へ押し込まれても寝覚めが悪い。

 盗人はしつこいほど、何度も何度もうなずく。


 そろそろ逃がしてやろうかと思った頃、別の物音がした。

 そして――悲鳴が聞こえた。


 他の誰かではない。清江のものだ。

 盗人は一人ではなく、二人いた。手分けして家探しをしていたらしい。


 東吾は軽く舌打ちし、目の前の盗人が動けぬように腹を刀の柄頭で強かに打つと、清江が寝間に使っている部屋に向かった。襖で仕切られた部屋は、開くまでもなく隙間ができていた。その襖の向こうに、蚊帳の角でへたり込んでいる清江と、蚊帳をたくし上げていた男とが見えた。いかにも盗人らしくほっかむりをしている。


 自分一人であったら感じないような焦りというのか、心の臓がつかまれたようにギュッと縮んだ。

 東吾は抜身の刀を手にしていた。躊躇いなく、蚊帳を一太刀で切り、男と清江の間に割って入る。男は驚いて蚊帳を放したが、東吾はさらに蚊帳を切った。静かな部屋の中、東吾の振るった刀が生ぬるい風を起こす。東吾はそのまま男に切っ先を突きつけた。


「二度とここへ踏み入るな。すぐさま立ち去れ」


 鋭く言い放ち、刀の刃を切り返して見せる。すると、男は返事もせぬまま背を向けて転がるように四つん這いで逃げ出した。

 その足音だけが虚しく響く。


 この時になってようやく、強張った体から力が抜けた。冷や汗らしきものが滲む。とにかく、清江が無事でよかった。

 一応預かっている身としては、危険にさらしたくない。


 東吾は嘆息しながら刀を鞘に納めようとしたが、腰に鞘はなく、部屋に放ってきてしまったことに気づいた。そして、ズタズタになった蚊帳がかろうじて引っかかっており、その中にいる清江に目を向けると、ひどく気まずい思いをした。


「すまん。女子おなごの寝間に踏み入るつもりはなかったのだが、ことがことなだけに――」


 清江は身ひとつでここへきたのだ。着替えもなく、着たきり雀である。暑くとも寝乱れてもおらず、行儀のよいものであったが、それでも時刻を思うと顔を合わせるのも気まずい。

 けれど、清江は胸元に手を当てながらかぶりを振った。


「いえ、お助け頂き、ありがとう存じます」


 いつまでもこの部屋にいるのもいけない。東吾は短く、うむ、とだけ答えて部屋を後にした。

 舟は通いであったから、夜間にこうした目に遭ったことはない。前に盗人が来た時も東吾だけであったので、脅して放り出したのだが、清江には怖い思いをさせてしまった。


 家に置くのは構わないなどと、そう軽く考えてはいけなかったのかもしれない。

 そのまま部屋に戻って夜具に潜っても、東吾はなかなか寝つけなかった。それは、この蒸し暑さのせいだと思いたかった。それでも、まぶたの裏に頼りなげな姿が浮かび、それを追いやるようにして硬く目を閉じた。

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