第5話

 東吾は夏の日差しに汗を滲ませて広小路を通り過ぎる。

 ようやく屋敷に戻ると、玄関で騒いでいたのは正治郎だった。


「――だから、そこもとはどこの御家の出かと訊いておるのだ」


 それに対し、清江は雑巾を握り締め、白くなった指先を見つめるようにして無言でうつむいている。東吾は慌てて間に入った。


「待て、正治郎。何を騒いでおる?」


 すると、正治郎は勢いよく振り返った。東吾が家を出ると告げた時と同じくらい、まなじりがつり上がっている。


「何をとは、兄上、水臭いではございませぬか」

「うん?」


 東吾が首を傾げると、それがとぼけて見えたのか、正治郎はさらに言い募った。


「この娘御を嫁にされるおつもりですか? 今の今まで、何もお話しくださらなかったのは何故です」


 何故も何も、清江が来たのは昨日だからだ。それに、女中であって、嫁にするつもりもない。東吾は正治郎の早とちりに嘆息すると言った。


「落ち着け、正治郎。清江殿は舟が暇乞いとまごいをして、己の代わりにと寄越してくれたばかりでな」

「あのばあさんがですかっ」


 口の悪い正治郎を、東吾が目で窘める。


「ご隠居が腰を痛めたそうだ。看病をしたいし、己も年だからそろそろ潮時だという」


 しかし、正治郎は東吾の言葉を鵜呑みにしなかった。目つきがそれを物語っている。


「それならば、この娘御はどうしてそれを申さなかったのでしょう?」

「おぬしが怖い顔をして問い質すからだろう」


 本当は、それだけではない。家の名など、家出をした清江に名乗れたものではないのだ。

 清江はまだ項垂れている。


「怖い顔だなどとは、そんなことはございませぬ。家事をこなす者が必要なのは当然として、それでもこの者では若すぎます。何かと障りがございましょう」


 若い、それも美しい娘と二人きり。いくら朴念仁の兄であっても、ふと魔が差すこともあろうと言いたいのか。目をすがめた東吾に、いつもなら正治郎は慌てるところだが、この時ばかりは何かが違った。


「――兄上が、どうあっても家にお戻りになるつもりがないということはよくわかりました」


 まるで泣き出しそうな、震える唇でそんなことを言う。どうして急にそんな顔をするのかがわからなかった。いつでも東吾は家に帰る気はないと言い続けていたのだ。何を今さら改めて言うのかと。


「正治郎?」


 呼びかけても、正治郎は顔を伏せてそのままきびすを返した。背中が子供の頃のように小さく見える。

 東吾としては、懐いてくれる義弟が可愛くないわけではないが、時折扱いにも困るのだった。


 去り際の様子を気にしながらも、正治郎が帰ってから東吾は清江に向けて苦笑した。


「すまぬな、清江殿」

「いえ。――あの、どうぞ清江とお呼びください。雇い主の東吾様がそのように畏まって呼ばれるのもおかしなことでございますから」


 つぶやきながらも顔は上げなかった。雑巾を握る指先が白くなるほど力を込めている。

 口入れに行くと言って出かけたのだ。もうここには置けないと告げられるのではないかと、この先のことを心配しているのかもしれない。


 東吾はばつが悪くなり、清江のそばに蚊帳を置いた。うつむいた清江の目が蚊帳に留まる。


「これは清江殿が使うといい。あのな、昨日会ったばかりの娘御を呼び捨てなどできんのでな、しばらくは辛抱してくれ」


 清江はハッとして顔を上げた。見開いた目が零れ落ちそうだ。境遇がそう見せるのか、何かにつけて儚い。


「それは、わたしをお雇いくださると――」

「これといってよい者もおらなんだ。そのつもりだ」


 清江の抱える事情を知ったから雇う、とは言わなかった。

 言えば、清江は辞退しそうな気がした。どうにも甘え慣れていない娘だ。

 それでも、清江は東吾の言葉に心底ほっとしたのだろう。


「精一杯働かせて頂きとう存じます」


 丁寧に三つ指突いてそんなことを言う。東吾は、うむ、と苦笑しながらうなずいた。

 そうして思う。


 清江、などと呼び捨てにしては、まるで妻女のようではないか。



    ■



 それから二日が過ぎても、家族が清江を探しに来ることはなかった。


 舟は清江の居場所を知っているが、教える気もないのだろう。しかし、娘を金で譲るほどには貧窮しているのだ。清江の家の暮らし向きを東吾も少々心配してみる。

 だが、そんなことを清江に言えるはずもなかった。


「東吾様、この鉢は菊なのですね。ここにあるのは朝顔ばかりかと思っておりました」


 少しばかり慣れたのか、清江の口数も増えてきた。東吾は清江が庭先で指さす鉢植えを見て思わず笑った。


「いいや、違う」

「けれど、〈菊〉と書かれております。それに、葉の形も――」


 清江は戸惑いつつ、東吾と鉢植えとを交互に見遣る。その鉢植えには東吾が書いた目印の札が差してあり、そこには〈菊〉と入れてある。

 事実、その鉢に生えている葉は春菊に似ているのだ。


「それは〈らんぎくやなぎ〉という葉を持つ朝顔だ。まだ花はついておらんがな」

「これも朝顔でございますか?」

「ここには朝顔しかないぞ」


 それでも、朝顔らしからぬものが多い。清江はきょとんと目を瞬かせた。その様子は幾分幼く見えた。

 もしかすると、落ち着いて見えるだけで思った以上に若いのかもしれない。


「私の知る朝顔とは随分違うものばかりです。これなどは葉が細く針のように尖っておりますが、これも朝顔なのですね?」

「それは〈いとやなぎ〉という名の葉だ。面白いだろう?」


 まだ花をつけていないが、咲けばよい金になる。そうしたら、ひと鉢くらいは清江に渡してもいい。家族から逃げ隠れる暮らしはつらいだろう。

 家族を恨んでいるという様子は見えないけれど、当座の金があれば互いに落ち着いて話し合えるのではないかと思えた。


 しかし、赤の他人である東吾がそのような施しをすれば、かえって清江の家の矜持を傷つけてしまうかもしれない。余計な世話だろうか。そんなことを考えていると、ふと清江は言った。


「東吾様はご立派ですね」

「どこがだ?」


 思わず即座にそう返した。育ててもらっておきながら、家を継ぎもせずに投げ出した東吾の何が立派だというのか、本気でわからなかった。

 すると、清江は朝顔の鉢に目を向けつつ、つぶやく。


「朝顔なら育てている方はたくさんおりました。けれど、こんなにも複雑な朝顔を芽吹かせた方はいらっしゃいませんでした」


 御徒町の御家人たちにとって朝顔の栽培は内職になる。もしかすると、清江の家でも朝顔を育てていたのだろうか。

 東吾は深々とため息をついた。


「本当に立派ならば、こんなふうに花を歪めて金にすることなどなかっただろう」


 自ら育てているくせに、おかしなことを言うと清江は思ったのだろうか。返す言葉に困っているように見えた。東吾は朝顔の葉を指先で確かめながら言う。


「変化朝顔を咲かせることが立派かどうかは別として、結局のところ、俺はこんなことをしているのが似合っておるのだ」


 上辺だけ一人前になったところで、中身は足りない。東吾は己がそんな男だと思う。いつも、何かが欠けている。

 けれど、清江はそんな東吾を見ず、朝顔に目を向けながら零した。


「東吾様ならば何者にもおなりになれたでしょうに。少なくとも、わたしよりは――」


 それを言われてしまうと、東吾は急に恥ずかしくなった。

 清江は貧しい家に生まれ、売られる寸前であった。それを思えば、東吾には自ら選ぶという贅沢が与えられていた。

 しかし、清江は口が過ぎたと思ったのか、急に頭を下げた。


「すみません、ご無礼を申しました。では、後片づけをして参ります」


 やはり、家族に売られそうになったことが、清江の心に深い傷を残す出来事となったのだろう。こうして話していても、どこか己をさらさずに相手を遠ざけようとするところがある。

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