第4話

 その翌朝、東吾が寝ぼけ眼を擦りながら目覚めた頃には、清江が立てる音が聞こえた。やはり、昨日の出来事は夢ではない。


 東吾は庭に出て井戸へと向かう。顔を洗っていると、水を汲みに来たらしき清江に遭遇した。清江はゆっくりと頭を下げる。


「おはようございます」

「ああ、よく眠れたか?」


 なんとなく口にした。しかし、清江は赤い目をしており、よく眠れたようには見えなかった。それなのに、とても、と答えてうなずいた。


 もしかすると、蚊帳がないがために蚊の羽音が気になったのだろうか。それとも、やはり清江自身の抱える事情が気がかりであったのか。

 東吾がそんなことを考えていると、清江は眉を下げてほんの少し表情をゆるめた。


「もう少しで朝餉が出来上がりますので」

「そうか、ありがたい。清江殿も遠慮せず食うようにな」


 そう言わなければ、米も味噌も人様のものだと気にしてあまり食べないのではないかと思えた。清江は恥ずかしそうにうなずく。


「ありがとう存じます」


 清江は台所に戻り、東吾はひとつ伸びをすると大事な朝顔たちを眺めに行くのだった。

 いくつかの鉢は花開き、緑の中に彩を添えている。咲いているのはほとんどが端正な花であった。高値で売れるような変化は乏しい。

 大した金にはならずとも、ごく平凡な花も東吾は決して嫌いではなかった。これこそが本来の朝顔であるのだから。



 東吾は朝餉を平らげると、清江を残して出かけた。

 口入れに行くと昨日から伝えてあった。清江はというと、そんな東吾を黙って見送る。


 昨日出会ったばかりの娘に留守を預けることを不安には思わなかった。清江は悪事を働けるほど器用な娘ではないのだと、少し接しただけで思えた。もし、仮に何かを盗んで消えたとしても、東吾は咎めることもできない。


 清江が盗みを働くとしたら、そこまで追い詰められているということだ。役に立つものがあるのならば持っていけばいい。

 相手がか弱い女だから甘くなるのかもしれない。それでも、清江は木の上に追い詰められて下りられなくなった猫のように危うく感じられる。



 東吾は口入れに向かう際、植木屋〈吉八きちはち〉の前を通る。この下谷界隈は植木屋が多いのだ。植木屋は、庭師のようなことはしない。植木屋とひと口に言っても、植木うえきあきないと植木職とに分かれる。植木商は植木の苗などを売り、植木職は売り物を作り出す地掘師じぼりし、材料の下入れ屋である。この〈吉八〉は植木商の店だ。


 店先にずらりと並ぶ鉢をなんとなく見遣りながら東吾は通り過ぎようとしたが、店の者が表にいた。印半纏しるしばんてんを着込んだ店の若い衆は、ハッとして運びかけていた鉢植えを下す。


「ああ、朝顔師の旦那。おはようございやす」


 武家の端くれではあるものの、家を出た東吾は最早侍とは言い難い。かといって、町人でも農民でもない。

 そんな東吾を呼ぶに困った人々が、東吾を〈朝顔師〉と称した。朝顔とばかり向き合っている東吾であるから、それも誤りではないと、その肩書を受け入れている。


「少々通りかかっただけなのだ。また用がある時は頼む」

「へい。お待ちしておりやす」


 にこやかに若い衆は頭を下げた。

 途中、青物屋でまくわうりを買い求めた。それを手に、東吾は歩く。

 舟の家は御徒町。組屋敷である。


 庶民の長屋よりはいくらかましとはいえ、狭い土地に人がぎゅうぎゅうに詰め込まれたところだ。暮らし向きにゆとりがある方ではなく、舟の家も嫁が内職をして家計を支えているという。だから、舟も少しばかりの稼ぎになればと東吾のもとへ来たのだ。

 御家人の家には立派な門もなく、もちろん門番もいない。東吾は木戸の前に立ち、訪いを告げた。


「もうし、誰かおられぬか」


 すると、まるで東吾が来ることを予期していたような素早さで舟が出てきた。年を感じさせぬ、流れるような足さばきでやってきたが、そう広い家ではないからすぐそこにいたのだろう。


「あらあら、東吾様。やはりおいでになられましたか」


 ホホホ、と笑っている。この様子ならば東吾が来た用件もわかっているようだと苦々しく思った。


「あばら家ですが、どうぞお上がりくださいませ」


 そう言った舟に手土産の甜瓜を手渡すと、東吾は上がり框に腰を下ろした。


「いや、ご隠居が寝込んでおられるのだろう。ここでよいし、茶も要らぬ」

「お気遣い頂き、痛み入ります」


 舟も甜瓜を膝に載せて座った。嫁が出てこないところを見ると、舅についているのだろう。

 東吾は舟に向け、僅かに眉根を寄せてつぶやいた。


「それで、代わりの者を寄越してくれたのはいいが、随分と訳ありげな娘御だな」

「清江さんは美人でしょうに、ご不満でございますか?」

「そういうことではなくてな」

「東吾様には美人も醜女しこめもあまり差がございませんか。そんな東吾様でございますから、私も安心して清江さんを向かわせることができたのですが」


 褒められているとは言い難いが、ここで話の腰を折っては先に進めない。東吾はため息をつくにとどめた。


「しかし、年若い娘が家を出てきた、行く当てがないと言う。これは尋常ではない。清江殿は武家の娘御だろう?」


 舟は静かにうなずいた。


「清江さんは詳しいことをお話しされていないようですね。まあ、それも当然かと」

「その〈詳しいこと〉をたずねてはいかんのか?」


 すると舟は、そんなことはない、と首を振った。そのわりに表情は晴れない。言いにくい事情であるのも、ぼんやりとはわかる。


「いえ、東吾様は清江さんをお雇いになってくださるのですから、お話し致しましょう」


 まだ雇うと決めてはいない。それでも、舟はそのつもりでいるらしかった。膝の甜瓜を猫の子のように撫でながら、舟は語り出す。


「清江さんはお察しの通り、武家の娘さんです。そうは申しましても、東吾様からすると信じがたい暮らし向きでしょう。お父上はおられますが、昔の怪我が元で勤めをこなせぬと、すでに退かれています。清江さんにはご兄弟も多く、今までも決して楽ではなかったのですが」


 とどのつまりが貧乏だと、そういうことだろう。舟のところもそう裕福ではないが、この口ぶりだとその舟から見ても活計たつきは苦しそうだったということだ。

 細々と暮らしてきたが、その貧乏が苦しくなって家を飛び出したとも考えられる。


 しかし、ことはそう易しくはなかった。舟の口調がしんみりとする。


「あの通り、清江さんはお美しいですから、それがかえっていけなかったのですよ」


 もしや、遊郭に売られそうになり、それで逃げ出したということか。そう考えたら腑に落ちた。憐れではあるが、よくあると言えばよくある話だ。

 しかし、東吾の推測は少しばかり外れていた。


「ご家族も、清江さんを吉原にやるのは避けたいと常々考えておられたようです。そんな時、清江さんをお気に召された旦那がおられまして、清江さんは――言葉は悪いですが、買われるようにしてその旦那のもとへ行くことになってしまったのです」


 武家での婚姻は家柄を重視するが、町人たちは器量望みやくっつき合いと、気ままなものである。


「その旦那というのは町人だろう? 武家の娘を娶るのならば、大事にするのではないか」


 町人は、往々にして士分に憧れを抱く。金に物を言わせて御家人株を買い取ることもあれば、こうして貧しい士分の娘を嫁にもらうこともある。武家娘ならば、ありがたがって大事にしてくれるはずだ。


 武家娘からすれば、町人に落とされて惨めな気持ちになるのかもしれない。嬉しくはないとしても、親が決めたのならば文句も言えないのか。


 特に、貧しくて金が要るのならば断われない。――ところが、清江は逃げたのだ。よほど嫌だったのだろう。

 それもそのはずであった。


「それがですね、お内儀にしてもらえるわけでもなく、二回り以上も年の離れた旦那に妾奉公だというお話です」

「それはまた――」


 ひどい話だ。いくら金を積まれたのかは知らないが、それでも娘の生涯を売り渡していいことにはならない。

 他の家族が飢えて死ぬよりはと、苦渋の決断であったとも考えられる。それでも、清江だけが救われないことには目を瞑ってしまうのか。逃げたのだから、清江はそれを承知していないということになる。

 舟はいつになく細い声で続けた。


「あんまりだとは思うのですが、お父上は遊女になるよりははるかにましだから、これはよい話だと仰っているそうで、清江さんが断ってほしいと頼んでも聞く耳を持たれなかったそうです。私も清江さんのことはお小さい頃から知っていますから、出てゆく前に挨拶に来て、事情をお話ししてくれたのです。ですから、私は東吾様のところをおすすめしたのでございます」


 勝手にすすめられても困るのだが、舟も他に清江を匿えるあてがなかったのだ。いや、それでも得策だとは思わない。何せ、東吾は自他共に認める変わり者だから。


「俺が断った場合、どうするのだ」


 いつまで、と期間が決まっているのならばいい。雇い入れよう。けれど、今の話を聞く限りでは、清江は家を出ていて行く当てもない。娘が一人、家をなくして身を売らずに食っていけるとは思わない。それならば、期限など切れないのではないか。


 一度迎え入れたが最後、嫁入り先を世話してやらない限り、清江はずっと東吾のところに居つく。しかし、嫁入り先を世話することは容易ではない。

 東吾も独り身の若い男である。その男のもとに住み込んでいた娘を嫁に望んでもらえる気がしない。世間は信じるよりも疑うことを優先するのだ。


 そんな東吾の心配を、舟は的外れだと思ったのだろうか。顔は笑っているのに、そこには僅かな苛立ちもあったように思う。


「行く当てのない娘さんが、一人でふらついていてどうなるのかなんて、わざわざ口に出さずともおわかりでしょうに」


 そこを突かれては何も言えない。東吾はグッと唸っただけだ。

 舟は不意に目元を和らげた。


「わかっておりますとも。東吾様には清江さんを助ける義理も何もなくて、ただ私が情に訴えて押しつけたに過ぎません。それでも、清江さんが憐れではございませんか。他におすがりできる伝手つてもございません。勝手は承知の上でございます」


 急に言葉尻が弱々しくなった。強気で押されるよりもかえってこたえる。舟は、そんな東吾の人となりをよくわかった上でやっているような気もした。

 所詮、東吾も舟から見れば若造である。最初から敵うはずがなかった。舟は少しばかり穏やかに笑うと、言った。


「東吾様は、朝顔は人と同じだとよく仰います。真っ当に咲けなかった珍花に値打ちを見出すくせに、真っ当に暮らしてゆけない外れ者に世間は厳しい。人は珍しくなくともよいと。けれど、好んでそうなったわけではないのですから、東吾様にならば清江さんのお気持ちがおわかりになるのではございませんか、と申したら、ご不快でしょうか」


 生まれながらに、東吾自身も珍花と定められたようなものだ。

 とはいえ、真っ当に咲いたふりもできただろう。それをしなかったのは、己だけは騙すことができないからだ。


 清江も、妾奉公とあっては人から後ろ指を指されて生きてゆくことになる。日陰の花となるのは憐れだ。

 それならば、東吾のもとにいた方が少しくらいはましだろうか。どちらにせよ、真っ当に咲けたとは言い難いけれど。


「舟がそこまで肩入れするのなら、もうしばらくは様子を見よう」


 結局、そういうことになるのだ。本当は、ここに来た時点でこうなるとわかっていたのかもしれない。どうしようもないから、清江は東吾のもとに来たのだ。

 ため息をついてみせると、舟はそれでもほっとしたように目尻に皺を寄せて笑った。


「ありがとうございます。清江さんは働き者ですから、きっと東吾様にご不自由はさせないことでしょう」


 そうして、東吾は舟の家を後にする。

 そのまま家に戻るのではなく、ぶらりと通りを歩き、そして口入れの前を通り過ぎ、麻の蚊帳をひとつ買って帰ったのであった。

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