第3話

 舟は朝一番に、顔を合わせるなり言った。

 夫がぎっくり腰になり、歩くこともままならない、と。


 舟の夫は元番方の御家人である。今は隠居の身であり、それなりに高齢だ。仕方のないことではある。


「くしゃみをした拍子にギクリとやってしまいました。急なことでございますから、今日はこれを――」


 と、舟は握り飯らしき竹皮の包みを東吾に手渡した。朝と、それから昼くらいはこれで間に合いそうだ。


「ありがたい、頂こう。しかし、それは大変だな。仕方がないのでしばらくの間、また口入れに誰か頼むとしよう」


 ぎっくり腰はどれくらいで治るものなのだろう。短期で明日から来てくれる人材を探しに行かねばならない。

 そう言った東吾に、舟は渋い顔をした。


「此度は夫でしたが、私もういい年でございますから、そろそろ潮時やもしれません。長く働ける方をお探し頂いた方がよろしいかと――」


 東吾としては舟が相手だと気が楽であったので、惜しいと思う。けれど、毎日ここへ通うのも楽ではない。あまり無理をさせたくはなかった。ここは折れるしかなさそうだ。


「わかった。舟がそう申すのなら、次を探すとしよう」

「勝手を申し上げます。そうですね、実は来てくれそうな方に心当たりがございまして、東吾様さえよろしければ今日にでもお願いして参りますが」

「それは助かる」


 舟が見込んだのならば、そうおかしな相手でもないだろう。実際のところ、急なことで困ってはいるのだ。もし気に入らない相手だったとしても、そうしたらその時に次を考えればいい。軽い気持ちで返事をした。

 それでも、舟はほっとした様子でうなずいた。急に暇乞いをしたことを舟なりに気にしていたのだろう。


「では、お話を通しておきます」

「うむ」


 去ってゆく舟の背を眺めつつ、東吾はひとつ嘆息した。

 何もかもが順調に行くわけがない。そんなことはずっと前から知っている。今さら落胆することでもなかった。


「まあ、それも仕方がない」


 すべて仕方のないこと。

 それで東吾の中では片がつく。なんとも便利な言葉だ。


 気楽な立場だからこそ言えることではある。それでも、時に諦観が己を救う。家だ忠義だと、守るべきものの多い武士に、東吾は向いていないのだとつくづく思う。


 しかし、こんな変わり者のところに奉公に来たがる女人も少ないだろう。舟が見繕ってくれた相手でなんとかなるといい。舟のように詮索せず、淡々とした女人が来てくれることを祈った。



 ――夕刻。


 舟が寄越したとされる女子と東吾は顔を合わせた。最初、舟の身内かと思ったが、似ていない。木綿の着物はくたびれ、働かねばならない身の上だとは知れる。


 ただ、娘自身は妙齢で凛とした美しさであった。切れ長の目と、通った鼻筋をしている。滑らかな肌に、癖もなく整った顔立ちと言えよう。


 武家娘であるようだが、そう身分のある家ではない。この屋敷のある下谷は、御徒町と名がつくほど下士が多い。御目見え以下の御家人の娘だろう。舟たちもそうした身分である。知己ならば同じほどと考えてよいかもしれない。


 眉を残し、白歯であることから、妻女ではなく娘である。しかし、そろそろ嫁入りが近い頃合いだ。

 娘はまっすぐな目を東吾に向ける。まるで挑むようだと思えた。


「舟さんが、ここへ行けば雇ってくださると申されましたので参りました」

「うん?」


 間違いなく、この娘が舟の寄越した後釜である。

 しかし、何か裏がありそうだと、東吾は玄関先に座り込んだまま苦笑した。


「雇うというのは、下働きにということだが」


 娘はそれでも手をグッと握り締め、うなずいた。


「はい、そのつもりで申しております」

「ここには俺しかおらぬのでな、若い娘が出入りするのでは外聞が悪かろう」


 舟にしては配慮が欠けている。嫁入り前の娘を男の身の回りの世話に行かせるなど、周りがどう思うことか。

 それなのに、娘は率直に言った。


「出入りではなく、しばらくここに置いて頂きたく存じます」


 澄んだ声音で淡々と娘は言うけれど、東吾の方が絶句してしまった。

 男の一人住まいに若い娘が出入りしては、あらぬ噂を立てられる。嫁入りに差し障ろうと東吾が遠慮しても、娘の方がまるで気にしていない口ぶりである。


「あの、だな――」

「わたしは家を出て参った身でございます。外聞が悪いとお気になさるのでしたら、無理にとは申せませんが、わたしのことでしたらお気遣いなくお願い致します」


 気にしていないのではない。気にしていられぬのだ。

 家を出た、と。


 よく見ると、手には小さな風呂敷包みを持っている。あれがこの娘の持ち物のすべてだというのだろうか。それにしては少ない。


 随分と容易く言ってくれるが、何やら事情はあるのだろう。よほどのことがない限り、家を出るなどということはしないはずだ。


「俺が断った場合、行くあてはあるのか?」

「ございません」


 きっぱりと物を言う。そうして、娘は三和土たたきの上に座し、そこで三つ指を突いて頭を下げた。


「どうぞよろしゅうお頼み申し上げます」


 舟がこの娘をここへ寄越したのだ。少なくとも、舟は東吾がこの娘に悪さをせぬと信じてくれているからではあるだろう。女手がなく、東吾が困っているからという理由だけで娘を寄越したとは考えづらい。何かあると直感が働いた。

 また明日にでも舟のところへ出向き、事情を聞いてみるとしよう。


「――名はなんと申すのだ」

清江きよえと申します」


 凛としたこの娘によく似合う、涼やかな名であった。東吾は嘆息する。


「では、清江殿、行くあてがないと申すのなら、今日はここに留まってもよいが、明日、口入れに行くつもりをしておったのでな、そちらによい者がおればそちらを雇うかもしれぬ」


 とっさにそんなことを言ったのは、今日のうちにはっきりとした返事をするのを避けたかったからだ。

 清江にどのような事情があるのかは知らないが、東吾が女を囲ったと久遠と安曇野の家に思われたくはない。退いた身とはいえ、醜聞の種になってはさすがに申し訳ないのだから。


 すると、清江はなんとも複雑な面持ちになった。落胆とも違う、それがどこか苦しげに見えた。


「ええ、それは当然のことでございます。いかに舟さんの名を出そうとも、急にこんなわけのわからぬ娘がやってきて、さぞお困りのことでしょう。ですが、ご迷惑を承知で、それでもおすがりするよりなく――」


 どちらかといえば熱の籠らない、落ち着いた娘であった。それが、この時ばかりは声を震わせてうつむいた。

 東吾自身は情に脆いつもりもないが、その実、ほだされやすい面も持ち合わせていたのかもしれない。


「何やら事情があるようだが、それはかぬ方がよいのか?」

「――はい。申し訳ございません。できることならば」


 結局、断ることはできなかった。東吾は清江を家に上げた。

 清江は安堵したのか、ようやく微かに笑みを浮かべた。強張った笑みが緊張のあかしではある。男の家に上がるのが平気というわけでもなさそうだ。


「すぐに夕餉の支度を致します」


 静かに東吾の隣をすり抜けた清江の背を、東吾は頬を掻きながら眺めた。



 よくわからない状況ではあるが、気にしていても仕方がない。東吾はいつもと変わりなく、陽が暮れる前に朝顔の鉢を丹念に調べ、ひとつずつ特徴を記し、忙しくしていた。

 その間にも台所の方からは物音がしたけれど、徐々に東吾も気にならなくなった。


 清江が来てから一時(約二時間)ほど経った頃合いだろうか。季節柄、日が落ちるのが遅く、明るく感じられたが、すでに夜になっていた。

 東吾は庭からふと、部屋の障子の裏に気配があることに気づいた。そこからか細い声がかかる。


「夕餉の支度が整いました」

「ああ、すまぬな」


 庭先にいた東吾は、桶に汲み置いた水で手を洗うと、縁側を越えて部屋に戻った。すると、静江が腰高障子を開き、手を突いてから膳を持って中に入ってきた。

 座した東吾の前に膳を置くと、また丁寧に頭を垂れてから下がる。それなりに厳しく躾けられていたのだとわかる仕草だった。


 膳の上には白米、干瓢かんぴょうの味噌汁、焼き茄子、胡瓜の酢の物、いんげんの胡麻よごし(和え物)といった品が並んでいる。買い出しに行かず、ありあわせで作ったこともあり、特別変わった料理ではないが、勝手の違う他所の台所では作りにくかっただろう。

 東吾はそれらに箸をつけながら清江に言う。


「夜具はあるので、好きな部屋を使えばいい。しかし、蚊帳かやがないな」


 夜具は正治郎が持ち込んだものがある。時折泊まって行くことがあるのだ。正治郎は東吾の部屋の蚊帳に入ればよかったが、清江まで同じ扱いをするわけにはいかない。

 けれど、清江は緩くかぶりを振った。


「お気遣い、痛み入ります。蚊帳など不要にございます。どうぞお気になさらず」


 不要とは言うが、蚊に刺されて痕でも残っては気の毒だ。しかし、東吾が己の使う蚊帳を貸し与えると、清江はかえって恐縮してしまいそうにも思う。今日一日のことではあるから、一日くらいならば我慢してもらうべきだろうか。


 清江の作った料理は、どこか優しい味がした。

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