第5話 迷える子羊の帰還
自分の呼吸音が聞こえた。
酒に酔った時の、ぜえぜえと胸と喉でする、あの息だった。
そうか、飲みすぎたんだ。
富雄はそう思った。
明日の朝、ちゃんと美代子の世話をしなければいけないんだから、こんな体たらくではいけない。
起きなければ。
そう思ったが瞼はどうしようもなく重い。
まあ、もう少し寝ていようか。
酔いが覚めるまではこのままでいいかもしれない。
のんびりとそう考える思考があって、富雄の瞼は一層開かない。
ふと、遠くから微かに何かの音が聞こえた気がした。
――美代子の、声。
一気に意識が冷めた。
それはもう半年近く聞いたことがなかった声。
けれども、絶対に聞き間違えることのない声。
唸り声だった。
苦しそうに、うー、うー、と、何かを求めて、弱った体に残されたあらゆる力を振り絞って、生を渇望する声だ。
富雄は目を開けた。
全身が灼熱の痛みを放っていた。
喉が痛い。
痛いなんていうものではない。
呼吸することすら辛い。
それでも富雄は前に進む。
火で包まれた壁を、天井を見上げて、残された体力で床を這う。
どうにか縁側のドアを開けて、ベッドの上で富雄を見つめるようにして僅かに片手を上げる美代子の姿が炎の中に浮かび上がった。
こちらを見つめる顔は苦悶に満ち、目は赤く充血していた。
うー、うー、と必死に訴えかけていた。
彼女にとって、喋ることが首を動かすことの何倍も疲れる動作だと富雄は知っている。
余程のことがあって初めて彼女は声をあげるのだ。
富雄は美代子のもとへ必死に這い寄った。
医療用ベッドの柵に頼って、なんとか立ち上がった。
富雄にももう口を開く元気はない。
息を吸うだけで汚らしい濁音が鳴るのだ。
視線で訴えかけて、美代子が一層強く、うー、と声を上げる。
それが恨みの声か、感謝の声か、富雄には分からない。
富雄は縋るようにして差し出された手を握る。
腕を引く。
美代子を何とかしておぶさる。
一歩、一歩と進み始めた。
痛みと、苦痛とで、全身がちぎれそうだった。
それでもここで止まってはいけないのだ。
美代子を連れ出さなければいけないのだ。
明確な思考をとる頭もなかったが、富雄は本能にも近いその衝動だけで、一歩一歩と歩いていた。
美代子はもう喋らない。
富雄はなんとか廊下を歩く。煙と自身の出血とで意識は朦朧としていた。
一歩踏み出そうとして、足がずるりと滑る。倒れ込みそうになるのを壁に手をついて踏ん張る。熱さで手に激痛が走った。
人は、生きようとするものらしい。
ベッドの上で過ごすだけ、一切の刺激のない日常を過ごしながら、それでも。
仕事を失い、生きる目的も失っても。
寝たきりの妻を世話するだけの生活の中でも。
胸に大きな穴が開いても。
息子も、妻も全てを失いかけても。
そんなになりながら、なぜ、人は生きようとする?
――もはや、何も生み出すものはないというのに。
玄関が見えた。富雄はそこに微かな希望を見た。
それなのに。
足が滑った。
※
深夜三時を回っていた。
慎司は白い息を吐きながら、棄てたはずの実家を目指して歩いていた。
和解のためなどでは、断じてない。
その考えが頭にちらつくたび、慎司は意味もなく、死ね、と悪態をついた。
――もう一度、今度はありとあらゆる金目の物を奪い取るのだ。
もはや、金などはどうでもよかった。
どうせろくな金になるものはもう残ってはいない。
それでもあのくそ親父を困らせることはできる。
俺のように、どうしようもない絶望感に浸らせることはできる。
自分にはもう何もない。
だから、あのくそ親父からも全てを奪ってやる。
覚悟を決めるために、慎司はバッグの中に一振りの包丁を忍ばせていた。
もし、万が一父親が夜更かしをしていて侵入がばれたら、脅すために使う予定だった。
――もし、本当に親父と遭遇したら。口論がもつれたら。お前は殺すのか?
心の片隅から、そんな問いが聞こえた。
――殺せるかもしれない。
奇妙に心が震えた。
あんな老いぼれどもにもはや価値などない。
母親にしても、何もできず、無様にベッドの上に転がってるだけじゃないか。
死んでいるも同然だ。
一思いに殺してやった方が、楽に違いない。
そして、自分も――。
ふと、暗闇の中に炎を見た。
慎司の手から、バッグが滑り落ちた。
(おわり)
迷える子羊の帰還 あるけみ @dittena774
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