第4話 全てが灰に落ちる日
気が付くと、時計は午後八時を指していた。
居間は、寒々としていた。
それは美代子のために常に暖かくしてある縁側の部屋に慣れすぎてしまったせいかもしれないし、かつては食卓として使っていたテーブルを使わなくなって久しいせいかもしれなかった。
あるいは、蛍光灯の無機質な明かりのせいか。
今ではすっかり物置台と化しているその机の前に、富雄は座っていた。
できることなら美代子のそばにいるように心がけていたが、今日ばかりは、一人になりたかった。
珍しく、富雄は酒を飲んだ。
今は何も思い出したくない。
考えたくない。
一思いに酔っぱらって、早く寝てしまいたかった。
久しぶりに飲むカップ酒は、やはり奇妙に甘い。
飲めば飲むほどに甘さが喉にこびりついて、酒が胃に落ちて行かない。
目元ばかりに酔いがたまっていくようだった。
頭がひどく重くて、目はしょぼついていた。
それだけ酔っているはずなのに、思考だけは極めて鮮明だった。
脳裏では、昼間の一幕が映画のように再生されていた。
何回も、何回も、何回も、何回も。
そのたびに、富雄は考える。
あそこで、許すと言っていればよかったのではないか。
部屋のドアを開ける前に慎司が日本刀を盗みに来ている可能性を考えていればよかったのではないか。
いや、それ以前に、こっちからもっと頻繁にあいつに連絡を入れるか、実家に呼び戻すかして、もっとあいつのそばに寄り添うことができたのではないだろうか。
流れ続ける映像を前に富雄は一時停止を押したい。
もっとゆっくり考えたい。
けれども、止まらない。
富雄が叫ぶ。親不孝者。
慎司が叫ぶ。もう二度と帰ってくるか。
巻き戻る。
富雄は期待に胸を膨らませて奥座敷部屋の扉に手をかける。
富雄の品に手をかけている慎司を見る。
これ以上は見たくないと思う。
映像は流れ続ける。
富雄は叫ぶ。
慎司も叫ぶ。
富雄は扉に手をかける……。
夢を見ている時のようだ、とぼんやりと富雄は思考する。
これが夢でないことは考えるまでもなく分かっている。
机の隅に置かれたチラシを手に取ってみた。
二日前に富雄が机の上に適当に置いて、放置していたものだった。
おせち料理を注文するなら。
そんな太文字が踊っていた。
家族で楽しく新年を迎えられる、豪華絢爛三段重。
何を見ても、何をしても、ただただ、虚しさばかりが募っていく。
何が悪かった。
どこで間違えた。
考えても考えても答えは出ない。
出ないから、余計にやるせない気持ちになる。
この世の不条理は反省すらさせてくれないのだ、と。
静かに、時間だけが過ぎていく。
富雄は遂に微睡み始める。
夢を見る。
訳の分からない理不尽が奇妙に迫ってきて、富雄は焦っている。
何とかしなければならないと思う。
何ともならないうちに、もうどうしようもないというところまで追いつめられる。
そこでふと目が覚める。
夢だったと分かる。
安心する。
周りを見渡す。
そこは寒々とした居間で、目の前には中途半端に酒の入ったカップ酒が置いてある。
虚しい心持で、うつらうつらと、富雄は微睡む。
寒気に目が覚めたのは、午前二時のことだった。
富雄は机に突っ伏していた。
明日の朝しっかりと起きれなければ、美代子の世話ができない。
それではいけない。
しっかりしなければ。
朦朧とする頭で考えて、両手をついてなんとか立ち上がる。
昼間痛めた腰はひどく痛んでいた。
美代子――。
思えば、慎司の会社が倒産した直後はまだ美代子は喋っていた。
富雄が慎司からの電話を美代子に伝えてから、美代子は慎司が立ち直るのを唯一の望みにしていたように思う。
ことあるごとに、美代子は愛息のことを心配していた。
ふらふらと縁側の部屋へ行き、ドアを僅かに開けると、規則正しい寝息が聞こえて来た。
いつもどおり安心して眠っている姿に、唯一、美代子が何も知らずにベッドの上で微睡んでいてくれたことだけが救いだと思った。
けれども、この家はもう終わりなのだ。
美代子の望みが日の目を見ることはもうない。
もう、誰も幸せになれない。
でも、誰も悪くはない。
それならば、これまでの自分の生活は何のために在った。
生きる、とは何だ。
何のために、人は生きる。
幸せになれないのに、楽しさも見いだせないのに。
それなのに、生き続ける意味などあるのか。
――何もないものにしてしまえば、美代子も自分も楽になる。
その言葉は、富雄にとって天啓だった。
――生命保険の金が入るか、葬式の香典でも集まれば。
そんな声が思い出される。
もし、自分たちが死ねば慎司にとっても面倒は無くなるはずだ。
それに、この家が焼けて、かけてある火災保険からなにがしかの保険金でも下りれば、慎司の生活の足しになるかもしれない。
それが慎司が立ち直るきっかけになるかもしれない。
そうなれば、多分、美代子も許してくれるはず――。
富雄は、おぼつかない足で、壁に手をつきながら台所へ向かった。
頭はひどく痛んでいた。
それは奇妙に長い道のりであるような気がした。
流し台へと辿り着き、普段使いしている一振りの包丁を手に取る。
美代子のもとへ向かう道のりは、更に長い。
ベッドの側に寄り、妻の寝顔を眺める。
とても安らかな寝顔だった。
このまま逝かせてやれば、きっと幸せに違いない。
本心から、そう思った。
そっと掛け布団を剥がす。
かつてはふっくらと可愛らしかった頬はすっかり痩けているが、富雄が保湿クリームをしっかりと塗っているおかげで、依然、艶やかだった。
富雄はその頬に手の甲をあてる。
一つ息を吸った。
右手で包丁を握り、左手を添えた。
左胸めがけて、思い切り突き刺した。
鈍い手応えがあって、それでも構わず富雄は右手を押し込む。
ずぶり、ずぶりと右手は沈んでいく。
柔らかな弾力の中、繊維を断ち切っていく感触が奇妙に生々しくて、ああ、夢ではないのだな、とどこか夢でも見ているような気分でそう思った。
富雄は、自分の襟元を見つめていた。
手元を見る勇気も、妻の顔を見る勇気もなかった。
――火をつけるのだ。
富雄は半開きになったドアを見つめる。
そこに視線を固定しておいて、富雄はやがてゆっくりと包丁を抜いた。
板の間に、ぽたり、と何かが滴る音を聞きながら、富雄は玄関に向かう。
ストーブ用の灯油のポリタンクは、普段は両手でも一苦労する重さなのに、空いている左手を一つで簡単に持ち上がった。
引きずるようにして居間へと運ぶ。
灯油を撒き散らした。
豪華絢爛三段重の広告が目に入った。
富雄はそれらを無造作に拾い上げて灯油の海に落とす。
ライターで火を付けた。
みるみるうちに火は燃え広がっていく。
部屋の中に置かれていた雑貨入りの段ボール。
端の方に無造作に積んでいた新聞紙の束。
そして、ついには天井に燃え移って柱も燃え始めるに至った。
ぱちぱちと、その様子はかつて正月によく通った神社の一幕を富雄に思い出させる。
紅白歌合戦が終わらないうちに家族三人で支度をして、家を出る。
そうして近くの神社の初詣の列に並んだものだった。
初詣を終えて境内を出ると、砂利の敷かれた駐車場で焚き火が組まれている。
古い御守りを焼くのだ。
近寄ると火が顔を炙り、けれども一歩引くと冬の冷気が襲ってくる。
だから結局、慎司と一緒に火に背を向けて背中を暖めていた。
もう、この部屋に用は無い。
押し寄せる熱気に耐えきれず背を向けると、それは懐かしい温かさを伴っていた。
父さん、父さんと思い出されるのは無邪気な頃の笑顔ばかりで、思わず頬が涙に濡れた。
手は、さすがに震えていた。
視線の先には自らの左手首があって、初めて直視した包丁は鮮やかな朱色に染まっていた。
富雄は大きく息を吸う。
煙でむせた。
今度は息を止めた。
思い切り、手首を斬りつけた。
覚悟していたほどの痛みは無かった。
じんと痺れるような感触。
これなら美代子も幸せに逝けたに違いないと安心した。
もう躊躇はない。
富雄は包丁両の手で握り直す。
左手がちらりと視界に映った。
真っ赤に染まっている。
力も入らない気がする。
そっと右手を支えるようにして、狙いを定める。
これだけは間違いないようにしたい。
慎重にやりたい。
一方の心臓は早鐘を打っていた。
心は逸っていた。
楽になりたいと叫んでいた。
富雄は包丁の切先を自分の喉元に向けて、思い切り突き刺した。
今度は明確に痛かった。
いや、痛いとは感じていなかったかもしれない。
もうそれはただ純粋な衝撃で、たまらず富雄は叫ぼうとしたように思う。
もう自分が何をしているか、何をしようとしているか、富雄には分からなかった。
一切の思考も途切れた。
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