第3話 邂逅

 翌朝、富雄が窓を開けると、雪はもう止んでいた。

 代わりに今年一番ではないかと思われる冷気が、富雄の肌を刺した。


 富雄はこの時間が好きだった。

 息を思い切り吸い込むと、体の中のぐにゃりとしたものが全て冷気に流されて、まるで生まれ変わったように感じる。

それから、顔を洗って、妻のための様々な支度にとりかかるのが、ここ数年の彼の日課だった。


 まず、妻が起きているかを確認する。

 たらいにお湯を張る。

 タオルを湿らせる。

 おはようを言って、顔を拭く。

 それから、食パンを十六等分に切り分けてトースターに入れる。

 紅茶を淹れる。

 焼き上がったパンに蜂蜜をかける。

 紅茶を冷ます。

 妻のもとへ持っていく。

 これだけのことはもう習慣になっているから、富雄には苦痛ではない。

 毎日同じ味にならないように、ジャムパンの日やご飯の日も決めてある。


 口元にパンを差し出すと美代子は大人しくそれを食べ始める。

 けれども、食事をするだけでも相当に体力を使うのだろう。

 妻は一生懸命に口を動かすと、歯磨きもそこそこにうつらうつらし始める。

 頑張って妻を励ましながら歯磨きをさせる。

 歯磨きを片付けて部屋に戻ってくると、妻はもう寝息を立てている。


 彼女にとって、生きるとは何なのだろうか。

 スーパーで買ってきた菓子パンを半切れ食べるだけの朝食を済ませながら、富雄は考える。

 彼女は楽しく生きているのだろうか。


 美代子が寝ている時間は長い。

 起きている時間も、テレビをつけていてもそれを観る気配もなく、ぼんやりと宙を見つめている。

 彼女は一日をどのように感じているのだろうか。

 美代子の認知力の低下は、ただ時間が過ぎゆくという苦痛からの防衛なのではないかという気がしている。

 それでも、なお、彼女は必死に生きている。


 ――いや、本当は楽になりたいと思っているのではないだろうか。それを自分が無理やり生き長らえさせているのではないだろうか。


 どれだけ考えても答えの出ない問い。


 けれども、こういう小さな問いを重ねる度に富雄は自分の中の何かが削れる気がする。


 雪は降り止んだとはいえ、地面はすっかり真っ白で、とても自転車に乗れたものではない。

 昨日のうちに雪を見越して買い出しに行っておけばよかった、と後悔しながら、富雄は上着を羽織る。

 富雄の足ではスーパーへ行くだけでもかなりの時間がかかる。

 歩いていくならなおさらだった。

 家の扉をそっと閉めて鍵をかけながら、富雄はまだ考える。

 生きるとは何だろう。

 自分は何のために生きている。

 自分の生には価値があるのか。


 最近、答えが出たような気がしている。


 自分の生に価値はない気がしている。



 

 慎司は数か月ぶりに実家の呼び鈴を鳴らした。


 三回鳴らしたが返事は無かった。


 ドアノブを回したが、鍵がかかっていた。そこで、鍵を取り出して開けた。


 どうして呼び鈴を鳴らしたのかは分からない。

 もしかしたら、父親に会いたかったのかもしれない。

 父親に会って少し話せば気が変わるかもしれない自分にどこか期待していたのかもしれない。

 けれども、家には父親はいなかった。


 慎司の覚悟は決まった。


 それでも、普段物置にしている奥の座敷部屋に向かわず、母親のいるであろう縁側の部屋を覗いた。

 母親は静かだった。

 目をつむっていた。

 一瞬、死んでいるのではと冷やりとしたが、慎司は結局それを確かめることもしなかった。


 座敷部屋の襖を開けると、慎司の記憶通り、そこには様々な小物がしまい込まれていた。

 慎司は一個ずつ手に取る。

 白い陶器の花瓶。

 紙の箱にしまわれた掛け軸のようなもの。

 プラスチックでできた、おもちゃの刀。

 ――小さい頃に、これを畳の部屋で振り回して、障子を突き刺して怒られた刀。


 慎司は、持ってきた大きなショルダーバッグの中に、一つずつしまっていく。

 おもちゃの刀は一瞬しまいそうになったが、やめた。


 けれども、お目当ての日本刀だけは見当たらない。


 ――親父の奴、俺がこういうことをするのを見越してどこかに隠しやがったか。


 慎司は、今度は押入れの中に入っているものを一つずつ、取り出してみる。

 畳の上には、少しずつ、慎司の思い出が詰み上がっていく。

 昔使っていた布団、おもちゃ、父親の大切にしていた小物。


 玄関の扉が開いた音に、慎司は気付かなかった。




 玄関の鍵は開いていた。


 泥棒か、と一瞬ひやりとしながら慎重にドアを開けると、見慣れない靴が一足玄関に脱ぎ捨てられていた。

 じっくりと見つめて、富雄はハッとする。


 富雄は慌てて靴を脱ぐ。

 買い物袋をその場に投げるようにして置いて、急いで妻のいる縁側の部屋に向かう。

 話声が聞こえてこないか、耳をそばだてながら。


 縁側の部屋には、妻一人しかいなかった。

 無遠慮に音を立ててドアを開けてしまったせいで、起こしてしまったらしい。

 僅かに目を開けるようにして宙を見つめていた。


 すまん、とだけ謝って、富雄は耳をそばだてる。

 間違いなく息子の靴だった。

 今、どこにいるのだろう。

 起こしてしまわないように別の部屋で時間を潰しているのだろうか。


 その耳になにやら物音が聞こえてきて、富雄は奥の座敷部屋に向かう。

 どんな言葉をかけてやろうか、と胸を期待にはやらせながら。


 富雄は半開きになっているドアに手をかけた。


「おかえり。寒かっただろう。こんな部屋でなにを――」


 準備していたはずなのに、言葉は途中で迷子になって、霧消した。


「お前、それ――」


 慎司がちょうど、小さなこけしをバッグの中に入れるところだった。

 慎司にとっても、父親の突然の来訪は想定外のことだった。

 思わず縦に一回震えてから、「ただいま」と声を上げる。


「何をしてるんだ」


 父親の声が険しい色を帯びていて、慎司は、自分のやっていることを悟られたのだ、と分かった。


「何って、別に――」

「それを売るつもりか」


 誤魔化そうとしたところを一瞬で出鼻をくじかれて、慎司は黙りこむ。

 申し開きをせねばと思う。

 一方で、もうどうにでもなればいい、という思いも溢れてきて、思考は徒に空転する。


 浮かんできたのは、昨晩の男の言葉だった。


 ――もう、何もない。


 本当にそうだ、と思った。


「金になりそうなものを貰っていくからな。それが嫌なら、金を出せよ」


 結局、そう言った。


 富雄の顔が、さっと赤らんだ。

 くる、と慎司は身構える。

 その顔は、昔から父親の危険信号のサインだった。


「うちには金などない。とった物を置いてさっさと出ていけ!」


 気付けば富雄はそう怒鳴っていた。

 頭ごなしに𠮟るべきではなかったかもしれない。

 言ってしまった後でそう思った。

 慎司だって、苦しんで、頑張って、でも、遂にどうしようもなくなったのだろう。

 こういうことをせざるを得ないほどに追い詰められてしまったのだろう。

 こういう時こそ、親身になって話を聞いて、一緒に解決への道を探す方が生産的だ。

 今なら、まだ、間に合う。


「この、親不孝者!」


 富雄は一喝した。

 これは、訣別の言葉だと分かっていた。

 もう戻れないと分かっていた。


 慎司が跳ねるようにしてとびかかってきた。


 富雄は辛うじて避ける。思わず手が出ていた。


 慎司はその手をはねのける。

 そのまま、両手で富雄を押し倒す。

 四十三の男と、八十の老人では結果は火を見るより明らかだった。


 富雄は、押し倒されただけで動けなくなってしまった。

 慎司もその様子を一瞥しただけで、もうそれ以上何もしようとはしなかった。

 後味の悪さだけが互いをその場に縛り付けていた。


 何かを言わなければならない、と富雄は思う。

 許す、と言えばいい、と思う。

 そうして、もう一回落ち着いてゆっくり話し合おう、と言えばいい。

 自分もできるだけの援助はする。

 だから、お前の状況を話してくれないか、と。


 慎司も、同じことを思う。

 ごめん、と一言謝って、相談するのだ。

 そうすれば、何かが変わるかもしれない。

 辛うじて残った理性がそう叫んでいた。


 二人の視線はそうやってしばしば交錯する。


 最初に口を開いたのは、慎司だった。


「ご先祖様とやらの刀があったよな。あれも貰っていくぞ」


 富雄は何も言わない。


 慎司は、それからしばらくの間、押入れを物色し続けた。

 もう雪も降っていないのに、嫌に静かな時間が流れた。


 日本刀は、押入れの奥底にあった。

 薄紫色の綺麗な風呂敷に丁寧に包まれていた。

 それだけで、その刀がいかに大切に保管されているかがよく分かった。

 慎司も無意識のうちに丁寧に持ち上げる。

 包みを解くと、手垢一つついてない漆の光沢が目に痛かった。


 富雄の視線の先で、慎司は遂に日本刀をバッグの中にしまった。


 慎司は立ち上がった。


「こんな貧乏家にはもうおさらばだ。お前らが死んで生命保険の金でも入るとか、葬式に香典でも集まるとかなら別だけど、そうじゃなきゃ用なんかない。もう二度と帰ってくるものか」


 そう吐き捨てて、慎司はもう富雄には一瞥もくれずに部屋を出て行った。

 程なくして玄関の扉が閉まる音が微かに聞こえた。


 それから、どれだけの時間が過ぎたのか、富雄は分からない。

 ようやく体を起こしたが、胸や腰はまだひどく痛んで、立ち上がる気力は湧いてこなかった。


 本当に、二人は道を違えたのだ。

 もう、慎司がこの家に戻ってくることはないだろう。

 そう考えると一抹の寂しさが胸に吹いた。

 だが、それでいい、と富雄は言葉を重ねる。

 あんな奴はただの犯罪者だ。野垂れ死んでしまえばいい。


 寂しさも怒りも通り過ぎてしまうと、富雄は空っぽになった。

 自分の生に意味はあるのか。

 ふと、そう考えた。


 答えは一層明白だった。


 ――もう、何もない。



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