第2話 枯れきった老人たちの日々

『――でも、油断はできませんよ。今夜にかけて更に激しくなる見込みですからね。明日にはすっかり積もっているかもしれません。交通機関への影響も心配ですね。会社員の皆様はお早めの帰宅をお勧めいたします――』


 富雄が窓に目を向けると、降り込める白い礫が、だんだんと灯り始めた街灯の下で、ぼんやりと浮かび上がっていた。


「慎司がちゃんと家に帰れているといいな」


 呼びかけるが返事はない。

 けれども、慎司という言葉が聞こえたからか、僅かに身動きをする気配があった。

 視線をやると、背もたれを起こしたベッドの上で、妻の美代子の口が何かを言いたげに動いた気がした。

 富雄は彼女のやや虚ろな瞳を覗き込むようにする。

 それから小さく微笑みかけて、テーブルの上に置いた小さな皿を手に取る。

 魚の煮つけを一口大に切り分けてスプーンに乗せて美代子の口元に運ぶと、彼女はゆっくりと口を開ける。

 富雄はその中に魚を入れてやる。

 そうすると、美代子はゆっくりと咀嚼し始める。


 美代子が寝たきりになったのは五年前。

 脳梗塞で倒れ、後遺症で半身が不随になってしまった。

 以来、夫の富雄が一人で世話をしている。


 寝たきり生活になった直後は、美代子の意識ははっきりしていた。

 けれども、刺激の少ないベッド上での生活がそうさせたのか、次第に美代子の感受は鈍くなっていった。

 今ではもう喋ることも殆どない。

 けれども、富雄は彼女には認知力が十分に残っていると思っている。

 だから、たとえ反応が無くても、なるべく話しかけるようにしていた。


「あいつも早く次の仕事が見つかるといいんだけどなあ」


 相手からの明確な反応がないから、富雄の口調はどうしても愚痴っぽくなる。

 美代子は寝たきりになった直後は事あるごとに「ごめんね」と言っていた。

 富雄の時間を拘束すること。

 働けないこと、ベッドなどの設備を整える費用のこと。

 そのたびに富雄は笑ってきた。

 平気だと言い続けてきた。

 けれども、本当は苦しい。

 過疎化が進んだこの街では長年営んできた雑貨・食料品の小売店を維持することはできなかった。

 七年前に店をたたんでからは、年金と少しの蓄えに頼る生活だった。

 加えて富雄は今年で八十、美代子は七十八になる。

 本当は美代子の世話にヘルパーを雇いたい。

 が、とてもそんな余裕はなく、いよいよ衰えて来た肉体では富雄が一人で世話をすることも限界に近かった。


「働き口が決まったら、きっとまた来てくれるからな。そうしたら俺たちの生活も楽になるさ」


 妻の前では楽しい話だけをしていようと決めていたはずなのに、最近では後ろ向きな話ばかりしていた。

 慎司がもう一度職についてくれれば、少しの援助を受けてヘルパーを雇える。

 ひょっとしたら集配の弁当も頼めるかもしれない。

 それだけで、今の生活はだいぶ変わる。

 時間の余裕もできて、心のゆとりも生まれる。

 そうすれば、妻の介護も苦痛でなくなるはずだ。

 苦痛だと感じる自分に嫌悪感を抱くこともなくなるに違いない。


 ゆっくり、妻が魚を飲み込んだのが分かった。

 富雄は今度はご飯をスプーンに乗せて、その口に運ぶ。


「ゆっくりだからな。ゆっくりだぞ」


 返事はない。

 代わりに、美代子は首を小さく横に振った。


「もういいのか?」


 今度は首を振らない。

 けれども、彼女の口はもう開かない。

 富雄にはそれで十分に伝わる。


「そうか、おいしかったかい? 出来合いのものばかりですまんな。今度は俺が作るから」


 美代子は僅かに目をつぶったように見えた。

 富雄は小さく微笑えむ。

 首を動かすことすら、美代子には大変な作業なのだろう。

 僅かな動作で彼女は意思表示をし、富雄にはそれが分かる。

 ふと、温かな気持ちになる。

 通じ合っているという気持ちになる。

 彼女が自分を愛してくれているのだと感じる。

 自分も彼女を愛しているのだと感じる。


 ――本当に、もう一度あいつが働けるようになれば。


 最後に慎司に会ったのは一か月ほど前。

 金を貸してくれと頼まれた。

 貸せる余裕はなかったが、それでも貸した。

 慎司は就職活動の為だと言ったが、本当かどうかは怪しかった。

 それでも貸したのだ。

 その金で遊んで、少しでも気持ちが晴れて、また、働こうという意欲が湧いてくることを信じて。


 慎司は頑張った。


 苦しい不況の中、一生懸命に職を見つけて一身に働いて、独り身で金に余裕があるから、と言って、仕送りをしてくれていた。

 勤め先が倒産してからも、笑顔だった。

 父さん、俺、すぐにまた仕事見つけるから、と笑っていた。

 そんな子だから、この一年必死に頑張ってきただろうということは容易に想像がつく。

 辛い一年だっただろう。

 面接を受けて、否定されて、また面接を受けて、否定されて。

 そんな中でも、電話をしてくれた。

 自分と妻を気遣ってくれていた。

 俺、また落ちちゃったけど、今度は大丈夫だと思う。

 そう言って笑っていた。

 その笑顔の裏で、自分を少しずつすり減らしながら。


 痛いほどに、慎司の気持ちは分かる。

 親を心配させまいと浮かべる笑顔。

 それは自分が美代子に浮かべる笑顔と同じだから。


 悪い偶然が重なって今がある。

 誰が悪いわけでもない。

 みんな頑張っている。

 美代子も、慎司も、自分も。

 だから、今度は良い偶然がふと起こってくれたら。

 そうしたら、今度は全てがいい方に向かって動き始めるはずだ。


 富雄は食器を片付ける。

 代わりに水を張った小さなコップと歯ブラシを持ってくる。


「美代子。歯磨きして寝るぞ」


 言いながら歯ブラシを口元に近づけると、今度は美代子は口を開ける。

 やはり、彼女は全てちゃんと分かっている。

 その実感をかみしめながら、富雄は考える。

 慎司が来たら、美代子は喜ぶだろう。

 毎日毎日同じことが繰り返される日常に、華やかなアクセントがつくだろう。


 富雄は美代子を寝かしつけ、ふと縁側に出てみる。


 ――今日でも明日でも、この雪の中を歩いてやって来はしないだろうか。


 もうすぐ正月だ。

 別に仕事が決まっていなくてもいい。

 ただ、ふらりと寄って、ちょっとしゃべりに来てくれるだけでもいい。

 就活の愚痴をぶちまけてくれたっていい。

 いくらでも付き合う。


 雪はいよいよ強まっていた。

 けれども、降っても降っても音はしない。

 却って周囲の音を奪って、富雄が見つめる庭は、不気味なほどに静まり返っていた。



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