最終話 キャンプファイヤー

 アラカシを伐採した造園業者も、切り倒した木を裁断し、乾燥するための場所を提供した林業関係者も、あすか幼稚園を深く知る者だった。歴史が長いということは、それだけ多くの人々と関係を築いてきたということなのだ。同じ地域で生活を共にしてきた者、園児の父母、祖父母、あるいは園児本人。

皆、アラカシを知っていた。


「わあ! 久しぶり!」

「そっちの小学校はどう?」

「皆背が伸びたねえ」

「三年ぶりだもん」


 夏休みを目前に控えた七月。

あすか幼稚園は毎年この時期に、キャンプ場を併設した宿泊学習施設にて、お泊り保育を行っている。園児たちが家庭から離れ、幼稚園の仲間達と一泊二日の旅を経験するのだ。

 

 しかし今年は、例年とは少し様子が違っている。

 いつもと同じキャンプ場の、いつもキャンプファイヤーを囲むその場所。そこで賑やかな笑い声を立てているのは、在園児達だけではない。小学生以上の少し大きな子供たち、そして大人の姿も多かった。


「すっかり同窓会だね」

「本当。いい機会を作ってくれたと思う」


 紗也佳は息子の同級生の母親達と、この日に至るまでのことを振り返っていた。


 三年前伐採された、樹齢百年のアラカシの大木。長い間人々を見守ってきたアラカシは、切り倒された後、小さく整えられ、乾燥庫の中で三年の眠りについたのだった。

 その間に唯央は幼稚園を卒園し、小学生になった。


 そしてこの日。在園児とその家族、そして卒園生にも声がかけられ、皆でアラカシの木が作るキャンプファイヤーを囲む計画が実行に移されたのだ。


「さあ、皆さん! 火を入れますよー!」


 主任教員の張りのある声が、皆の注目を集めた。彼女のすぐ横に、高く美しく積み上げられた薪の塔ができていた。


 大人達は思わず息を潜めた。見守る顔である。手製トーチの先に炎が生まれ、期待に炙られた子供たちが、興奮気味に歓声を上げた。


「ああ」


 感嘆の音が自我を無視して自然と漏れる経験は、人生の間で滅多にないだろう。紗也佳はそう考えている。直近でそんな声が出たのは、いつだっただろうか。多分唯央が生まれた時だ。


「よく燃えてる。うまく水分が抜けたんだろうな。樫の木の仲間って、長い時間燃えてくれるらしいよ」


 紗也佳の耳元に顔を近づけて、夫が少し大きめの声で言った。周りは笑い声やら話し声で、すっかり賑やかになっていたのだ。


 日没はまだだ。マジックアワーまでもうしばらく時間があるだろう。しかし炎を囲む者の顔は、すっかり橙色に染まっていた。


 炎があっというまに大きくなった。生き物のように踊る火柱には、きっと意思が宿っているに違いない。こんなにも人々の共鳴を起こし、魂を揺さぶるのだから。


「理事長先生にも見てほしかったな」


 卒園生の一人が呟いた。先代の理事長――あすか幼稚園の創立者は、この日を待たずして旅立ったのだ。まだ三ヶ月前、百歳の誕生日を迎えたその日に。まるで予め判っていたかのように、家族に「おやすみ」と告げて。


「クサい決まり文句みたいなこと言うけど、きっと見てると思うよ」


 別の誰かが返事をした。


「だって、そんな気がしない?」

「そうだね、きっとそうだよ」

「薄暗い中にこんだけ人がいるんだもん。紛れてたって、きっと分からないね」


 笑い声がぜる。皆楽しそうだった。


「あ! ギターだ」


 唯央が園長の方を指さした。


「園長先生、弾いてくれるんだ」


 ギターを提げた園長が、弦を掻き鳴らしている。


「歌うよ! ほら踊って! 皆立って、炎を囲んで!」


 揺れる炎を見た時、人は何を思うのだろう。太古の昔から、人々はこうやって炎を中心に据えて踊り、笑ってきたのだろう。煮炊きを知り、命を繋いで、万物と結びつきを作ってきた。時に破壊され、涙さえ燃え尽くされ、絶望を教えられながら。


 炎が起こす風を浴び、紗也佳は目を細めた。高く上がった炎の先端、揺らめく大気が見える。


――祝え 祝え 祝え


「ことほぎを紡げ」


 誰の声だろう。深い音だった。


 ふと隣から腕を引かれた。唯央が首をかしげている。


「今何か言った?」

「何のこと?」


 母親からの質問に、唯央は聞き返した。彼は再び紗也佳の手を引いた。


「俺たちも踊りに行こうよ」

「行こう、さやちゃん。楽しそうだよ」


 反対の手も夫に引っ張られ、紗也佳の身体は炎を囲む輪の一部と同化していった。


 パチパチと木が跳ねる音が近くなる。身体を旋回させる度に新しい風が生まれ、それは紗也佳の意識を優しく酔わせた。


――祝え 祝え 祝え


 ギターだけだったはずの楽器の音。いつの間にか打楽器の音を感じていたが、それは紗也佳自身の鼓動の音であり、皆が地面を踏み鳴らす音だった。


「祝え」


 紗也佳の声は誰かの声と重なり、声の主を突き止めようとする前に、そんなことを忘れて笑い声が生まていた。


 不思議な夜だった。

百年を記録したアラカシの肉体は、燃えてそらへと還っていく。人々の感情、生き様、愚かしい行為の結末を抱きながら。


 やがてそこに残るのは、熱分解によって生み出された、真っ黒な炭素の出がらしだけになるのだろう。その黒い破片を見つけた時、人々から再び違う感情が生まれ、それがまた新しい時を彩っていく。

 こうして時間の地層は重なり続けて歴史となる。絶え間なく、とどまることを知らぬまま。


 肉体は過去を遡れない。意識は? 想いはどうだろう。


 紗也佳はこの夜、アラカシの炎を囲んだ自分の意識が、闇夜の中で時の渦の中へと溶け沈む様を感じていた。踊り、旋回する身体が脳を酔わせた結果に見せた幻覚だろうか。


――それでも構わない。幻覚だろうが思い込みだろうが、さして問題ではないのだから


「祝え」


 重要なのはこの確信だった。この状況、この現場に相応しい「祝え」というこの言葉が生まれたこと。


 百年の昔から届いた祝福ことほぎ


 紗也佳はこの場に居合わせることができて、心から幸福だと思ったのだった。

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アラカシの祝福 松下真奈 @nao_naj1031

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