第四幕:逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに

4-1.君を思っている

 咲き誇るツバキに触れる。思いをこめ、ただひたすら、真鶴まつるは思う。願う。


「花よ、ツバキのお方よ……わたしは木花咲耶姫コノハナサクヤヒメの力を使うもの。どうか、応えて」


 唱えて集中すれば、頭の中でもやのようなものがかかった。雑音のようなものも響く、が、それだけだ。諦めることなく、音を聞き漏らすことがないように集中する。


 もやは晴れることはない。ノイズもまた音声に変わることはなく、静かにまぶたを開けた。


「音が聞こえる気は、するのだけれど」


 屋敷の庭に、自分の嘆息と空に輝く十三夜月じゅうさんやづきだけが大きい。


 しかし、全く何も聞こえなかったときよりかは、何かを掴み取れている気は、する。


「ひいさま、お月見してるのですの?」


 声をかけられ縁側を振り返れば、栗をお膳に盛り付けたツキミがいた。背後には加賀男かがおの姿もある。


「いいえ。力の使い方を少し……お二人は?」

「満月には早いが、月見でもしようと思ってな」

「頑張りすぎですの、ひいさま。お団子も作ったから食べるですの」


 確かに多少、疲労を感じていたところだ。ツキミの言葉に真鶴まつるは素直にうなずいた。


「まるで秋みたいですね」

中秋ちゅうしゅう名月めいげつはもっと美しいだろう。まだ先だが、楽しみにしているといい」

「はい」


 今は暦も変わり、六月だ。中秋ちゅうしゅう名月めいげつが見られるのは三ヶ月後だろう。


「月見団子はあとで食べるですの。ビワを買ってきましたの、はい、どーぞ」

「ありがとう、ツキミさん」


 縁側に三人で並び、真鶴まつるは早速ビワの皮を剥いてまるごとかじる。多少の恥じらいはあるが、香りに負けた。甘みが多い汁をすすり、果肉を咀嚼そしゃくする。


「美味い。これは当たりだな」

「本当に美味しいです。疲れも消えていきます」


 ビワのかけらを嚥下えんかし、空を見上げてきらめく月を愛でた。


 影ヶ原かげがはらに来た当初は多少恐ろしく感じていた月も、今では大切なものだと感じられている。鬼火という明かりも確かにあるが、それとはまた違った風情があるのだと。


「……少しはここに慣れただろうか」


 横に座る加賀男かがおが、濡れた手拭いで手を拭き取りつつたずねてくる。


「はい……最初は戸惑いもしたりしましたけれど。今では皆さん、よくして下さいます」

「それならいいんだ」

「あの、あなたさまの方こそ……疲れてはいませんか?」

「なぜそう思う」


 真鶴まつるは口ごもり、少し迷ったのちに言葉を紡いだ。


「わたしを押しつけられ、知らない人間を屋敷にというのは……精神的に疲弊するかと」

「知らない人間、ではないな」

「え?」


 軽く目を見張れば、天を仰いでいた加賀男かがおが足下へと視線を移す。


「その、君のことは色々、こがねに聞いていた。だから、知らなくはない」

「こがねが……? それでは最初から、あなたさまは」

「ああ。一方的にだが、君のことを知っていた」


 言いづらそうに口を開く彼を見て、真鶴まつるも視線を下げる。


「こがねは、わたしをどのように言っていたのでしょう。変なことを聞かされたのでは?」

「変なこととはなんだろうか」


 誰かに口付けをされたところを、こがねは見ていたかもしれない。そう思って、口をつぐむ。


 いくら病に伏せていたとはいえ、幼い頃だとはいえ、見知らぬ誰かに口付けを許したのは不注意にも程がある。唇を奪われた事実を、なぜか加賀男かがおには知られたくなかった。


「……優しくて、笑顔が綺麗」

「え?」

「こがねが、告げてきていた。君はそういう人間だと」


 顔を上げれば、加賀男かがおが微笑を浮かべている。だが、真鶴まつるはやるせない気持ちになった。


「申し訳ありません、あなたさま」

「なぜ謝る」

「今のわたしは、笑み一つすら浮かべられないのです。それに、優しいだなんて。本当はとても欲深く、浅ましい人間ですから」

「それは俺も同じだ。こがねのように、いや、あれよりも執着し、嫉妬もする」

「あなたさまは、心根の優しいお方だと思いますが……」


 目を伏せ、ささやく。


 事実、加賀男かがおの心尽くしに救われている。気遣いに優しさ、どれだけのものをもらっているのかわからないほどに。


 彼の心の温かさ、与えられたそれらに何も返せない自分が、辛かった。


 沈黙が下りる。木々の梢がこすれる音が、大きい。


 そのときふと、寝息が聞こえた。横を見れば、ビワをたらふく食べたと思しきツキミが、いつの間にか寝転んでいる。


 風邪を引いてはいけない、と起こそうとした、刹那。


真鶴まつる


 真剣な声で名を呼ばれる。置いていた手に、加賀男かがおの手のひらが重なった。


「あなたさま?」


 そのまま手を絡めとられる。肩を引かれ、気付いたときには加賀男かがおの胸の中にいた。


「ね、寝るにはまだ早いと思いますけれど……」

「聞こえるか。心臓の音が」


 腕に抱きすくめられ、頭を撫でられる。


「俺の心臓が脈打つのを、君には聞こえているだろうか」

「は……い」


 どくん、どくん、と音がした。深いしじまの中で、それだけが耳に滑り込む。


「わたしと同じ音……」

「そうだ。真鶴まつる、君と同じだ。君を見るつど、抱き締めるたびにこうなる」


 加賀男かがおの声は柔らかい。心臓の確かな脈を聞いていくうちに、真鶴まつるの鼓動も速まってくる。体がほてり、熱を帯びた。冷たい風にも負けないくらいの熱だ。


 両の頬を手で挟まれ、静かに顔を上げられた。


 真摯な藍色の瞳が自分を見つめている。射貫いている――そう自覚すると、動悸はより速くなった。


「あなた、さま」

「君を思っている、真鶴まつる


 突然の告白に、吐息だけが漏れる。


 目を軽く見開いた真鶴まつるに、加賀男かがおは小さな苦笑を浮かべた。しかしすぐに真剣な面持ちを作る。


「君がいい。君がほしい。真鶴まつる、許されるなら……祝言しゅうげんを、挙げたい」

「あ……」


 いつも寝る前にそうされるように、柔らかく抱き締められた真鶴は、はくはくと口を開いた。


 「はい」とすぐさま言いたいのに、自信のなさと力の足りなさが、言葉を出すことを許してはくれない。


(お願い)


 代わりに、加賀男かがおの着物をぎゅっと、握る。


(わたしに自信を。天乃さまの側にいる資格を……)


 目を強くつぶった、途端だ。


『声は、聞こえる?』


 ぱん、と何かが弾ける感覚が、体の奥底でした。


「あ」


 全身が震える。体中に鳥肌が立ち、髪の毛先、爪先一本一本が見知らぬ感覚に粟立あわだつ。


真鶴まつる?」

「声、が」


 たくましい腕の中、抱き留められながら庭のツバキを見た。


 風にそよぐツバキが、仄かに輝いている。


『ようやく話せたね、真鶴まつる

「ツバキのお方……?」

『そう、あたいたちはずっとアンタを見守ってきた』

「どうした、真鶴まつる。まさか声が……花の声が、聞こえるのか?」


 若干慌てた様子の加賀男かがおに、真鶴は小さくうなずいた。


「聞こえます、ここのツバキの声が。とてもほがらかな声音です」


 嬉しいと思う気持ちは今、欠け落ちている。それでも心はほっとした。


「一体突然、どうして花の声が聞こえるようになった?」

「きっと……心から願ったからです、あなたさま」


 加賀男かがおを見上げて、照れくさくなり、視線を逸らしながら答える。


「あなたさまの横にいるため、その力がほしいと思いましたら……」

「……真鶴まつる


 今まで優しかった腕の力が、まるで真鶴まつるを閉じこめるかのように強まった。


「よかった。本当に、よかった」

「あなたさま……ありがとう、ございます。わたしもとても嬉しいです」


 抱き留められる喜び。花と心を通じ合わせられたこと。その全てが胸をくすぐる。


 だが、まだ足りない、と感じた。こがねが告げたという綺麗な笑顔を、加賀男かがおにも見せたい。なのに表情はかたくなに動かないままだ。


「笑顔の一つ、ここで浮かべられたらと思うのですけれど」

真鶴まつるが幸せなら、それでいい。君が幸せだと、穏やかに日々を過ごせるなら、それで」


 耳に吐息がかかり、くすぐったい。きっと、人はそれすらも幸せと呼ぶのだろう。


「……あなたさま。わたしも、あなたさまのことを」

「今は何も言わないでくれ。焦らずに待つから」


 頭頂に顔をうずめたままささやかれ、困ってしまう。


 思いを伝えたいのに、と加賀男かがおに抱き締められながら感じる。


おさたちを招集する」

「え……?」


 一旦、軽く体を離した加賀男かがおが、これ以上なく真面目な顔つきで告げた。


「君との祝言しゅうげんを認めてもらうため、話し合いをしたいと思う」

「……はい」


 真鶴まつるもおもてを引き締め、強くうなずく。


 花と念話ができたとはいえ、長雅花ながみやばなはまだ咲かせられていない。それでも加賀男かがおと共にいたいと願う気持ちが自分の背中を押した。


 次に、加賀男かがおは露骨に苦笑する。


「ツキミが起きてから、使いを頼もう」

「そうですね。あの、あなたさま」

「なんだろうか」

「体を……その、離して、下さい。ツキミさんが起きたら、恥ずかしくて」


 加賀男かがおはふ、と口角をつり上げた。今までに見たことがない、意地悪げな笑みだ。


「断る」


 きっぱりと言われてしまい、真鶴まつるはまた、頬が熱くなるのを自覚する。


(これもきっと、幸せの一つなのね)


 そう感じ、加賀男かがおの胸で目をつぶった。


 優しい鼓動の音が幸福の象徴――そう思えて。

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