3-10.ぜいたくになってしまったのね

 加賀男かがおの屋敷は山の中腹ちゅうふくにある。森を突っ切ったところに蛇宮へびみやの町があることを真鶴まつるは知っていたが、山側には一人で行ったことがない。はじめて影ヶ原かげがはらに訪れた際、彼と共に下りてきただけだ。


 加賀男かがおが持つ提灯ちょうちんと、石灯籠いしどうろうの灯火がぼんやりと周囲を照らしている。


 木々が生温い風に微かに揺れていた。草や木の香りは爽やかで、幾分か真鶴まつるの心を落ち着かせてくれる。


「君は昔、こがねがつつかれていたところを救ったのだったな」

「はい。ただ、こがねがまつろわぬものだとは知らず……」

「あれは感謝している、と思う。名も気に入っているくらいなのだから」

「あなたさまには、蛇たちの声が聞こえるのですか?」


 煉瓦で舗装された道を歩く加賀男かがおは、曖昧に苦い笑みを浮かべた。


「強いものの声ならば、多少」

「強いもの、ですか」


 真鶴まつるは、こがねの姿を思い浮かべてみる。助けた際はまだ自分に感情があったときだ。考えてみれば、内気で友人も作れなかった中、こがねにはよく笑ったり泣いたりと様々な表情を見せていた気がした。


 なぐさめるように側にいてくれたり、喜びを分かち合ったりと、本当に唯一の友には世話になっている。


「こがねはわたしの昔を知っているんです。ですが今の状態になっても、変わらず接してくれて」

「君によくなついているからだろう……蛇を表す怪異のことを知っているか?」

「いいえ、知りません」

蛇帯じゃたいという怪異だ。人に恋をしたメスの蛇は、相手をどこまでも追いかける」

「まあ……こがねはメスだったのですね」

「一般的な蛇帯じゃたいは、確かにメスだ。だがあれはオス」

「オスでも、その蛇帯という怪異になるのでしょうか」


 加賀男かがおが口を閉じた。何か変なことを聞いたかと思う真鶴まつるの横で、彼は頭を横に振る。


「こがね自体が特別な蛇、まつろわぬものだ。下手な霊気れいきに当てられない限り、おかしくなることはない」

「わたしにはまだまだ知らないことがありそうです」

「大丈夫だ。これからゆっくりと覚えていけばいい」


 柔らかな口調でいわれ、真鶴まつるは小さく首肯した。


 だが――これから、というものがあるのか、少しだけ不安になる。木花咲耶姫コノハナサクヤヒメの力も、依然として開花していない。当の加賀男かがおは世継ぎを作る気もないという。


 真鶴まつるには、なんのために自分がここにいるのか、わからない。


 優しさは毒にもなる、とみつやは言った。真綿で首を絞められる、そんな気持ちが少し、ある。それでもありがたいのに、きっと喜ばしいことなのに、思いのひとかけらもおもてに出せない自分が歯痒い。


「あそこだ」


 真鶴まつるの内心を知らずか、加賀男かがお提灯ちょうちんで先の道を照らした。


 道を上った先、そこには江戸時代頃のものらしき茶店ちゃみせがある。風に揺らぐのぼりは赤。緑のヤツデの印と共に「逓信処ていしんどころ茶店ちゃみせ」と大きく記されていた。


 店の側には、黒や黄色いくちばしを持った天狗たちがいる。せわしそうに書簡を持ち、宙に跳んでは姿を消す彼らに、真鶴まつるは驚くばかりだ。


「やや、これは星帝せいていどの。どうなすった」

「手紙を頼みたい、と思ってな。少し早いが甘味かんみも食そうかと」

「そうでござったか。さ、席へ席へ」


 目ざとくこちらを見つけた烏天狗からすてんぐの一人が、丁寧に案内をしてくれる。一瞬、真鶴まつるを見る視線がけわしいことに気付いてしまった。


(仕方がないわ)


 そう、心の中で割り切る。


 誰もに認められているわけではないのだ。幸いにして蛇宮へびみやの町では、買い出しに行ったときもツキミと出かけたときも、冷たくされることはなかった。


 それでも一人で出た際には、未だ好奇の視線を投げつけられている。密やかな噂話もされていた。あるじと認める男の配偶者として、未だ認められていない自分が悪い。


「これを神代かみしろの長、らんへ。至急で頼む」

「承知。星帝せいていどの、ごゆるりと」


 加賀男かがおから手紙を託された烏天狗からすてんぐが、颯爽さっそうと姿を消した。


「座ろう。君も疲れたはずだ」

「……はい」


 真鶴まつる加賀男かがおの横に腰かける。今、視線はない。ささやき声も聞こえない。さすがに、星帝せいていの前で真鶴まつるを悪し様にののしる行為はできないのだろう。


昆布茶こぶちゃと……そうだな、羊羹ようかんを二つずつ」

「少しお待ちをば」


 烏天狗からすてんぐの一人は、完全に真鶴まつるだけを無視していた。


 いないことにされている、と真鶴まつるは思う。それは実家にいたときの頃を連想させた。加賀男かがおたちからの優しさに甘えてしまっている今、それがどこか、辛い。


(ぜいたくになってしまったのね、きっと)


 落とした視線をつと上げれば、視界の片隅に巨大な岩があることに気付いた。


「あの……あなたさま」

「どうした。羊羹ようかんはいやだっただろうか」

「いいえ。あれはなんでしょうか」


 指で指し示す。しめ縄で巻かれた岩を。


 その大きさは加賀男の背丈を倍にしてもなお、余りある。横にも縦にも大きく、巧みに草藪と木々の梢で隠れていた。


「あれは、天岩戸あまのいわとだ」

天岩戸あまのいわと? 伝承にある……?」

「そうだ。天照大御神アマテラスオオミカミが隠れたとされる、な。中に入ったものの霊気れいきを吸収する力がある」

霊気れいきを吸収……それはどういう意味なのでしょう」


 小首を傾げて問えば、加賀男かがおの顔がいかめしいものとなる。


霊気れいきとは、人やまつろわぬもの、道具……よろずの魂に含まれるものだ。古代では神気しんきと呼ばれていたようだが、それは現代、神々の力を指す」

「魂に含まれるものが霊気れいきなら、あそこに入ってしまえば……まさか」

「君の考えているとおり、死ぬ」


 真鶴まつるは思わず、小さな声を上げて唇を押さえた。


「なぜそのような、怖いものがここに?」

「満月の際、いささか霊気れいきたかぶらせ、力を暴走させるものがいる。それを抑えるため、短期間あそこで心を落ち着けるんだ」

「よかった……少しの間なら大丈夫なのですね」

「ああ」


 胸を撫で下ろす真鶴まつるに対し、加賀男かがおもまた笑む。


星帝せいていどの、少しよろしいか」

「何か?」


 刹那、手紙を持った烏天狗からすてんぐが、加賀男かがおの横に現れた。


神代かみしろおさより書状を預かってまいったのですが、すぐに返事がほしいということで」

「そうか。紙と筆を貸してくれ」

「中にございますゆえ」

「わかった。……君はここで、少しゆっくりしているといい」

「はい」


 うなずき、店に入る加賀男かがおの背中を見送った。


 しばらくして、烏天狗からすてんぐの一人が茶と羊羹が運んでくる。


「ありがとうございます」


 頭を下げたが、無視された。それでも茶をかけられたり、殴られないだけ、ましだ。


 だが、胸に針が刺さったような気持ちに陥る。加賀男かがおがふゆと共にいることを想起した場合とはまた別の、言葉にできない痛み。


(不思議ね。たった一ヶ月で、一体わたしに何が起こっているの?)


 動機がしたり体がほてったり、気落ちしたりと忙しい、と思った。


 加賀男かがおといるときは顔が熱くなる。手を握られたり、抱き締められたりすると余計にだ。今だって、加賀男かがおが浮かべた笑みに頬が熱くなっている気がする。


 それに対する気持ちも、痛みに対する感情も、何もわからないまま。


(わからないことが、こんなにも恐ろしいものだなんて)


 湯飲みを置き、そっと店の中をうかがう。


 加賀男かがおの横顔が見えた。厳めしく鋭い眼差し。何やら思案するおもてに、真鶴まつるはまた、鼓動が高鳴っていくのを感じる。


 手紙を書き終えたらしい加賀男かがおが、ふとこちらを向いた。そのまま柔らかい微笑を浮かべ、店の外へと出てくる。


 真鶴まつるは慌て、視線を下に背けた。羊羹ようかんの皿を持ち、菓子切かしきりへと指を添える。


「待たせてしまった。俺も、食べることにしよう」

「は、はい。お茶がとても美味しいです」

羊羹ようかんも美味い。俺は甘いものが好きだから、特にそう感じるのかもしれないが」

「わたしも好きです」


 真鶴まつるを見る加賀男かがおが一瞬、体を強張らせた。藍色の瞳を二度まばたきさせ、口を開け閉めしている。


「あなたさま?」

「いや……その、はじめて、君の好きなものを聞いた気がするから」


 嬉しそうにうなずく加賀男かがおに、真鶴まつるが顔を上げた、そのとき。


 ぱぁん、と大きく花火の音がした。


 闇夜に輝くのは見事な牡丹、千輪菊、蜂。真鶴が最初訪れた際に上がった区画からではない。ここからだとよくわかるが、影ヶ原かげがはらの町は蛇宮へびみやを中心とし、五角星になっている。


 どうやら花火は、ここから右側にある区画からのようだ。


「どうしてまた、花火が……?」

「輿入れの際、盛大に花火を使うことになっている。鬼江おにえからだな」

「誰かが夫婦めおととなったのですね。喜ばしいことだと思います」

「そうだな」


 真鶴まつるの言葉に、加賀男かがおは優しくうなずいてくれる。


 優しさは毒かもしれない。知らないことは恐ろしい。だが、それらがあり余ってもなお、加賀男かがおと共に過ごす時間が、かけがえのないもののように感じる。


 人はそれに、なんと名前をつけるのだろう――真鶴まつるはそう、思う。

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