2-6.ねむっていいのかしら

  ※ ※ ※


 ふゆ加賀男かがおの前ではしおらしい。真鶴まつるにも丁寧に接し、先程二人きりのときに放った怨念など、露ほどにも見せはしなかった。


「お茶の方、大変美味しゅうございましたわ、加賀男かがおさま」


 加賀男かがおが出してくれた茶にもほとんど手をつけられず、真鶴まつるは彼と共に帰ろうとするふゆを見送る。


「お野菜、どうか食べて下さいましね。真鶴まつるさん、どうかこれから仲良くしてくれれば嬉しいですわ」

「……はい」

「今日はわざわざすまなかった。おさたちの動向も、助かる」

加賀男かがおさまのためならば。それでは、失礼いたしますわね」


 妖しく笑みつつ、ふゆはお辞儀をすると応接室から出て行った。


 扉が閉まるのを見て、真鶴まつるは一気に疲労が押し寄せてくるのを感じる。覚えた明確な恐怖は心の底に沈殿し、しこりのようなものを作り上げていた。


「どうかしたのか」


 手の震えを着物の袖で隠す自分を見てだろう。加賀男が柔らかい声で問いかけてくる。


「い、いえ」

「疲れさせてしまったようだな。顔色が悪い」

「大丈夫です……慣れない方々に、緊張をしただけですので」


 かぶりを振り、口角を上げようとしてみた。無理だ。頭も上手く働かない。


「……口に、合わなかっただろうか」

「え?」

「その、茶だ。珈琲コーヒーというものの方が、君は好きなのだろうか」

「そんなことはありません。お茶は、嫌いではありませんから」


 加賀男かがおを見た。どこか落ちこんだような面持ちをしている。


「この茶は……君のためにれてみた。喉も渇いていただろうから」


 太く、それでも透き通る声音が真鶴まつるの心に染み渡った。不器用な優しさが伝わってくるようだ。


 手の揺らぎを抑え込み、湯飲みを手にする。すでに温くなってしまった茶は、それでも微かに匂い立っていた。


 目をつぶり、そっと飲んでみる。まろやかで深い味わい。苦みはほとんどなく、甘かった。


「……美味しい」


 はじめて心からの思いを告げられた。ほっとできる味に、心身が休まる。


「よかった」


 加賀男かがおが、笑う。これ以上ないほど安堵した様子で。


「ありがとうございます、天乃あまのさま。本当に美味しいです」

「そう言ってもらえるならありがたい。ああ、風呂も沸いている。腹は空いていないか」

「はい。ですが、天乃あまのさまより先んじて、最初にお湯をいただくわけにはいきません」

「みつやがもう入っている。湯は取り替え済みだから、安心してほしい」

「……わかりました。それでは、お言葉に甘えます」

「ツキミ、案内を」


 真鶴まつるが首肯するが早いか、室内にツキミが現れる。


「はいな、星帝せいていさま。あっ、野菜は冷暗所に全部保管しておきましたの」

「助かる。彼女を風呂場と寝室に案内してやってくれ」

「わかりましたの。真鶴まつるひいさま、どうぞこっちに」

「案内、よろしくお願いします。ツキミさん」

「はいなー」


 楽しそうに笑うツキミが、扉を開けてくれた。


 真鶴まつる加賀男かがおに頭を下げてから、ツキミの後をついていく。


 館は広い。ともすれば迷ってしまいそうなくらいだ。


「このお屋敷、気に入りましたの?」

「え? ええ……とても広くて綺麗です。お掃除が大変そうだけれど」


 ツキミは平らな胸を張り、器用なことに後ろを向いて歩いている。


「お掃除ならウチも手伝いますの。でも、よかったですの。洋風の方がひいさま、辛くないだろうって星帝せいていさまが……」

「辛くない?」

「あっ、あわわ。い、今のは、その、忘れてほしいですの」


 慌てふためく彼女を見て、真鶴まつるは首を傾げた。


 辛くない、というのはどういう意味だろう。困惑しながら辺りを見渡してみる。


 絢爛けんらんではないが落ち着きのある空間だ。しかし埃もほとんどなく、大抵のものが真新しい。そこで真鶴まつるは気付いた。


「もしかしてこのお屋敷は、建てられたばかりのもの?」

「そ、そうですの……ひいさまをお迎えするに、建て直したのですの」

「わたしを迎えるため……」

星帝せいていさまに言わんといてほしいですの。無駄話ばかり、って怒られてしまいますの」


 しょんぼりとするツキミに、曖昧あいまいにうなずく。


 和風の建物なら、もしかしたら自分が現世うつしよを思い出すから――そう考え、加賀男は屋敷を洋風作りにしてくれたのかもしれない。


(どこまでもわたしを気遣って下さるのね、天乃あまのさまは。優しい方だわ)


 自分には、もったいなさ過ぎる相手だ。そう心から思う。


 ツキミの案内で菖蒲しょうぶ風呂に浸かり、爽やかな香りに酔いしれた。先程までの緊張と恐怖が薄れていくようだ。


(心尽くしをいただいている……わたしもただ、怖がってばかりではいけない)


 用意された藍色の浴衣に着替えつつ、決意する。


 ふゆとは仲良くなれないかもしれない。それでもただ恐れ、びくびくしているだけでは、なんの進展も見込めないだろう。


 加賀男かがおのことだってそうだ。彼は、優しい。とても。


 れてくれたお茶の美味しさ、抱き留めてくれた暖かさ、気遣いの数々。それらに応えたいと思ってしまう。


 星帝せいていの妻として、立派に。例え短い間でも、加賀男かがおを支えよう――


 そう決めたのはいい。だが。


「……どうしましょう」


 問題は、寝室に入ってすぐおとずれた。


 大きな寝床の中央には二人分の布団があり、うろたえてしまう。


 初枕ういまくら――男女がはじめて一つ床で寝る事態に、ただ固まった。


(でも、これは必要なこと……お世継ぎを産むに、必要なこと……)


 さしもの真鶴まつるでも、子どもを作るに男性と体を重ねる、とまでは知っていた。


 しかし、具体的に何をすればいいのか。ねやでの事柄は、姉が確か「殿方に委ねなさい」と言っていた記憶がある。


天乃あまのさまに、委ねる……」


 心臓だけがただただ早鐘を打つ。顔に出てはこないが、緊張の極みにあった。


 奥の布団の上で正座し、ぼんやりと明るい行灯あんどんを見つめる。


 そうしてどのくらい、経過しただろう。


「中に入っていいだろうか」


 不意に加賀男かがおの声がふすまの向こうから聞こえ、真鶴まつるは背筋を正した。


「は、はい」


 声が少しだけ上擦る。若干の間を置き、静かに浴衣姿の加賀男かがおが入ってきた。


 加賀男かがおは難しい顔をしている。ためらいと迷い、そんなものをない交ぜにしたかのようなおもてだ。


「……こちらへ」


 真っ正面に座った加賀男かがおが、無言ののちに手を差し出してきた。


 褐色の肌は、薄暗がりにあればまさしく闇のようだ。


(怖がっていては、いけない)


 一つ決心し、真鶴まつるはてのひらの上に自らの手を、重ねる。


 優しく、壊れ物を扱うような所作で、加賀男かがおが体を引き寄せた。


 そのまま大きくたくましい胸板へ、真鶴まつるは顔を押し付ける形となってしまう。


「大丈夫だ」


 真鶴まつるの髪を指で何度もきつつ、頭上で加賀男はささやいた。


「眠れ。そっと目を閉じて……辛いこともいやなことも、全てを忘れていいから」


 呟きを繰り返し聞いていれば、次第に強烈な睡魔が真鶴まつるのまぶたを降ろしていく。


(ねむって、いいの、かしら)


 うとうととしつつ、残された気合いだけで思う。


 抗いがたい催眠は甘く、柔らかい。


「お休み、真鶴まつる


 意識を手放そうとした瞬間、今まで聞いたどんな声よりも優しく温かい加賀男かがおの声が、した。

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