2-5.下賤のできそこないが

 ツキミの言葉に「げっ」と呟いたのは、みつやだった。


「ふゆが、来たか」

「はいな。どうしますの?」

「無体にするわけにもいかない。ここに呼んでくれ、ツキミ」

「承知ですの」


 ぺこりと頭を下げ、ツキミは静かに退室していく。


 何やら天井を仰ぐみつやをさておき、真鶴まつる加賀男かがおの方を見た。


「ふゆ……さま? どのようなお方なのでしょう」

「土蜘蛛にして、蜘蛛の一族のおさだ。四人のおさの中では今回、唯一俺の味方をしてくれている」

「味方……」


 それは、加賀男かがおと自分が夫婦めおとになる、という事実を認めてくれているということだろうか。


 顎に指を添えて考えていたとき、みつやが不意に立ち上がった。


加賀男かがお、客室貸して。ぼくは逃げる」

「好きにしろ」

「助かるよ。どうにも苦手だ、彼女は。じゃあまたね、真鶴まつるちゃん」

「は、はい」


 真鶴まつるが答えるより先に、帽子を持ったみつやは手を振ったのち、扉を開けて立ち去っていく。ちゃっかり帽子と湯飲みを持って、だ。


 慌ただしさが消え、残された真鶴まつるは目を伏せる加賀男かがおにたずねてみた。


天乃あまのさま。そのふゆさまという方を、迎えに行かなくてもいいのですか?」

星帝せいていたる俺が、自らおさを出迎えることはない。してはいけない。特別扱いになるから」

「わたしも退室した方が、よろしいでしょうか」

「……君のことは星帝せいていの妻として紹介するつもりだ。ここにいてほしい」


 重々しい言葉に、小さくうなずく。


 再び沈黙が下りた。だが、落ち着かない静寂ではない。


 窓から入りこむ草木の香り。加賀男かがおがまとう実直な雰囲気。掛け時計の古めかしい音。どれもが緊張をほぐしてくれている。


(無作法にならないようにしなければ)


 そればかりを考えていたとき、扉が控えめに叩かれた。


「失礼しますわ、我が星帝せいてい加賀男かがおさま」


 凜とした声が響く。そうして静かに入ってきたのは――


「わざわざ苦労、ふゆ


 軽く微笑を浮かべ、加賀男かがおが首肯した。


 一方の真鶴まつるは立ち上がり、扉の方へ体を向ける。


「労い、感謝いたしますわ。そのお言葉こそ何よりありがたいものですもの」


 妖艶に笑う女性――ふゆの腰まである紺色の長髪は、電灯に怖いほど艶めいていた。着物はまばゆいほどの緋色。黄土色の瞳は一重だが、大きくくっきりとしている。


 とてつもない美女だ。まさに壮美が顕現したような存在に、真鶴まつるは一瞬気圧けおされた。


「お初にお目にかかります。真鶴まつると申します、蜘蛛おさのふゆさま」

「あら、これはご丁寧に。あなたが加賀男かがおさま……我らが星帝せいていの正妻となられるお方?」


 圧迫感を振り切り、なんとか頭を下げた真鶴まつるへ、ふゆは笑みを深めた。


古野羽このは真鶴まつる。俺がめとることになるだろう女人だ」

「可愛らしい方ですのね。はじめまして、真鶴まつるさん」

「ふゆ、そして君も座って構わない」

「それじゃあ、遠慮なく失礼いたしますわ」


 たおやかな所作で歩くふゆは、机を挟み、真鶴まつるの目の前にある椅子へと腰かけた。


「本日は野菜を持ってまいりましたの。加賀男かがおさまは野菜がお好きでしょう」

「ありがとう、ふゆ。いつもすまない」

「とんでもございません。おさとして当たり前のことをしているだけですわ」


 小さい笑い声すらよく通る。紅を塗った唇が嬉しそうにほころんでいた。


(もしかしたらこの方が、天乃あまのさまの思い人なのかもしれない)


 二人のなごやかな会話を聞き、真鶴まつるはふと、思う。


 加賀男かがおははっきりと笑みを浮かべていた。今まで見たことがないおもてだ。


天乃あまのさま、とても楽しそう)


 きっと自分ではこうはいかない、と軽く、うつむく。二人にわからない程度に。


(せめてこの屋敷で、わたしと過ごすときは安らいでいてほしいのだけれど)


 内心で思い、それから自嘲した。


 お飾りの妻である存在が、何を期待しているのだろう。自分は子を産むだけの器なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。使命を果たすと、加賀男かがおに告げたばかりだというのに。


「ふゆ。他三人のおさたちは、今回の件をどう言っていた」

「残念ながら。九尾の銀冥ぎんめい夜叉鬼やしゃおにのハナミも、そして犬神のらんも、いい顔はしておりませんわ」

「そうか……」


 加賀男かがおの長いため息に、真鶴まつるは我に返る。


「申し訳ありません、わたしのせいで」


 ささやいて謝罪すれば、加賀男かがおが首を横に振った。


「君が謝ることじゃあない」

「ですが、加賀男かがおさま。失礼ですが真鶴まつるさんは、裏華族うらかぞくとしての力を使えないのでしょう? それならば当然、反発はあるというもの」

「……他のおさとも、いつかは話し合う必要があるな」

「微力ですがお力添えしますわ、加賀男かがおさま」

「助かる。何か礼をしなければいけないな」

「まっ」


 ほんのり頬を赤く染め、ふゆが照れた声を出す。上目遣いで加賀男かがおを見るおもては、少しだけ子どもじみているように真鶴まつるには見えた。


「では、一つお願いがありますわ」

「なんだろうか。俺にできることであればいいのだが」

加賀男かがおさまのお茶が、飲みたいですわ。簡単なもので構いませんので」

「そんなことか。粗茶そちゃになるぞ」

「ま、ご謙遜。茶をてるのはご趣味でしょうに」

「簡単なものでいいなら、今すぐ出せるが」

「お願いしますわ。ねえ、真鶴まつるさんも飲んでみたいですわよね?」

「え、あ……はい」


 気圧されてつい、遠慮ができなかった。


「すぐに用意しよう。茶室に、とはいかないがな」

「楽しみですわ、加賀男かがおさまのお茶」

「二人で待っていてくれ。すぐにれてくるから」


 椅子から立った加賀男かがおを、真鶴まつるはふゆ音と共に見送る。


 ぱたり、と小さな音を立てて扉が閉まった。


 小さく鳴り続ける時計の音が、どのくらい沈黙に響いた頃だろう。


古野羽このは真鶴まつる

「え?」


 呟かれ、視線をふゆの方へやる。


「わたくしはお前を認めない。今すぐ、許されるならこの場で食ってやりたいくらいよ」

「ふ、ふゆさま?」

下賤げせんの出来損ないが、わたくしの名を呼ぶでない」


 顔を上げたふゆの瞳は、怨嗟えんさの炎に満ちていた。


 彼女はは、とため息をつくと、先程までとは打って変わり、傲慢ごうまん気味に真鶴まつるを睨む。


加賀男かがおさまもおかわいそうに。このようなみすぼらしい女を妻にするだなんて」

「あ、の……」

「わたくしたちにとって星帝せいてい加賀男かがおさまは命。名付け親にしてあるじ。そんな偉大な方の側に、役立たずの人間がいて何になるの?」


 真鶴まつるはただ、固まる。人のものではない気配――まつろわぬものとしての力が、一斉に向けられていた。


 殺意、憎しみ、恨み。負の念が凝り固まった気は、父のものとは比べものにならない。


 だが、何も言い返せなかった。事実本当のことだからだ。


 本能が震えていた。それでも恐怖を顔にすることは、かなわない。


「可愛げすらないなんて。おいたわしいわ、加賀男かがおさまが……」


 赤い唇を噛みしめ、視線を逸らすふゆの声は歪んでいた。


(この方は……天乃あまのさまを慕っている)


 それだけは真鶴まつるにもはっきりとわかり、だが、どうすればいいのだろう。


 今すぐ荷物を持って、屋敷から逃げ出せばいいのか。しかし現世うつしよに帰るすべを、知らない。


 現世うつしよに帰ったところで、働き先を見つけることは困難だ。いや、できるかもしれない。今まで考えたことがないだけで。


 女性も働きに出ている世の中、もしかしたら自分にできることも見つかる可能性はある。


(……でも、わたしが逃げたら、天乃あまのさまが怒られてしまうかもしれない)


 両膝に置いた手を握り、まぶたを閉じた。


 樫のじいやなら、何と言ってくれるだろう。こがねならばどうするだろう。


 憎悪という針のむしろに晒されたまま、今はただ、友に会いたいとだけ思った。

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