第一幕:有明の つれなく見えし 別れより
1-1.何かのために変わるということは
今は大正五年。月は葉桜が見頃の五月――
市営電車が
坂道が多い台場には、古い歴史を持つ武家屋敷や、現代を生きる華族たちの家屋が建ち並ぶ。陸軍の駐屯基地があるのもこの近くだ。
「お姉さま、とても綺麗」
「ありがとう、真鶴。この日を迎えられたことが何より嬉しい」
白無垢に身を包み、
「
「立派です。母も
「お姉さまの姿こそご立派かと」
うなずくトウ子には自負が満ち溢れており、開け放たれたふすまから入る陽射しのように、まぶしく
一方の真鶴が着ている
イグサの香る畳の部屋には二人きりだ。先程トウ子が使用人たちを退室させている。
「……桜も、喜んでいるのでしょうか」
「とても。少しかしましいくらいには。近くの花も、喜びの声を上げてくれています」
だが、だめだ。
「
「……はい」
まぶたを開け、姉を見る。
トウ子は茶色い瞳を細めて、厳しい顔つきとなった。
「我々は
「はい、お姉さま」
背筋を伸ばし、
「今は跡継ぎどのもいます。彼ももう力に目覚めていると。ですが、
「わかっては、いるんです」
トウ子の強い口調に両手を握り、視線をさまよわせた。
頭の中で、紫色に輝く花が浮かぶ。銀色の花粉を持つ神秘的な花が。
「いつか、
「痛み?」
口調が優しいものとなり、再び姉を見ると、彼女は穏やかなおもてをしている。
「ええ。何かのために変化することは、とても勇気がいることなのです」
「お姉さまが、
「そ、それは。
「……ごめんなさい」
照れた叱責に、それでもうなだれることはしなかった。
「
直後、廊下側から声がかかった。使用人のものだ。
呼ばれたトウ子は閉められたふすまを見て、もう一度
「離れの鏡台に、母の形見を置いてきました。あれは
「蝶の髪飾りを?」
「姉からの贈り物です」
ささやいてから、「今、参ります」と答える姉は、
使用人たちが部屋へ入ってくる。誰も
宴席に自分が出ることは禁じられている。トウ子と話すのは、きっとこれが最後だろう。
(お幸せに、お姉さま)
トウ子の横顔に祝いと願いを込め、思う。
二人を遮断するかのように、障子が閉められた。
残された真鶴は、そっと庭の側へ寄る。白い小石で作られた
「勇気……そんなもの、わたしには」
トウ子の言葉を思い返し、二の腕を抱き締めた。先程は茶化してみたが、姉の言うことがなぜかとても、怖い。
そのとき葉桜からひらひらと、舞い踊るように一枚の葉っぱが縁側に落ちた。風に吹かれたのではないと気付き、しゃがんでそれを手にする。
「二階ノ客間デ待テ」――
くっきりと刻まれた文字に、目を見張った。父である
「お父さま?」
散った葉を手拭いで包み、
(お父さまがわたしに力を使うなんて、何かあるのかしら……)
この十数年、父とはまともに顔も会わせていない。妙な胸騒ぎがする。
高等女学校を十六で卒業したあとも、二年間、料理や裁縫をして過ごしてきた。しかしそれは全て自分のためだ。家族と別れ、離れで一人暮らすために。日々、必要な食材や最小限の着物は、全てトウ子が用意してくれていた。
――父は、ただただ自分を憎んでいる。
「……二階の客間」
呟き、背後を見た。閉じられたふすまを。
遠くからは、まだ人々のざわめきが聞こえてきている。式がはじまっていない証拠だ。使用人たちも忙しい今なら、二階へ行っても誰とも鉢合わせしないだろう。
こくりと唾を飲み込み、部屋から出た。
日に照らされた通路を一人で行く。子どもの頃、一度だけ来たことのある屋敷の間取りは、今でも変わっていないようだ。
(一体なんのご用で……お父さまはわたしを)
奇妙な不安に苛まれながら、階段を静かに上り切る。鳴ってしまった微かな軋みに、つい辺りを見渡したとき――
「誰か、いるのか」
重苦しい男性の声音が、届いた。
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