第一幕:有明の つれなく見えし 別れより

1-1.何かのために変わるということは

 今は大正五年。月は葉桜が見頃の五月――


 市営電車が麻布あざぶ霞町かすみちょうにできてもう二年。江戸時代から続く老舗は下町に多くあり、今も履物店やござ店、花街が新たに作られている。


 坂道が多い台場には、古い歴史を持つ武家屋敷や、現代を生きる華族たちの家屋が建ち並ぶ。陸軍の駐屯基地があるのもこの近くだ。


 真鶴まつると姉のトウ子がいるのは、古川沿いに作られた一の橋に屋敷を構える陽月ひづき家である。二人の、いや、トウ子が昨日まで住んでいた古野羽このは家とは違い、純然とした日本家屋だ。


「お姉さま、とても綺麗」

「ありがとう、真鶴。この日を迎えられたことが何より嬉しい」


 白無垢に身を包み、つややかに紅を差したトウ子が微笑む。


 陽月ひづき家の一室で、トウ子の支度を手伝っていた真鶴まつるは、笑みすら浮かべられないまま礼をした。


寿ことほぎ、つつしんでよろこび申し上げます」

「立派です。母も常世とこよにて嬉しく思っていることでしょう」

「お姉さまの姿こそご立派かと」


 うなずくトウ子には自負が満ち溢れており、開け放たれたふすまから入る陽射しのように、まぶしく真鶴まつるの目に映る。


 一方の真鶴が着ている色留袖いろとめそでは灰色で、松と鶴の柄が入っている。三つ紋ではあるが、古野羽このは家を象徴する花柄の装いをすることは許されなかった。


 イグサの香る畳の部屋には二人きりだ。先程トウ子が使用人たちを退室させている。


 枯山水かれさんすいにある葉桜を見て目を細めた姉に気付き、真鶴まつるもまた、外を見た。


「……桜も、喜んでいるのでしょうか」

「とても。少しかしましいくらいには。近くの花も、喜びの声を上げてくれています」


 真鶴まつるは目を閉じる。集中する。花の声を聞くために。


 だが、だめだ。古野羽このは家の実子だというのに、やはり花たちの声を聞くことはできない。


真鶴まつる。まだ花の声は、聞こえませんか」

「……はい」


 まぶたを開け、姉を見る。


 トウ子は茶色い瞳を細めて、厳しい顔つきとなった。


「我々は裏華族うらかぞくが御三家、古野羽このは家のもの。草花を愛でた木花咲耶姫コノハナサクヤヒメの力を行使する一族です。それは、理解していますね」

「はい、お姉さま」


 背筋を伸ばし、真鶴まつるは首肯する。


 裏華族うらかぞく――大正の世ではもはや三つしかない、特殊な家系。世間一般の華族とは異なり、古き時代から神々の力を継いでこの日の国を守ってきた。


 天照大御神アマテラスオオミカミ月讀命ツクヨミノミコトの力を使い、天候を操る一族、陽月ひづき家。


 須佐之男命スサノオノミコトの力を使い、もののふや刀に力を与える一族、寿々すず家。


 木花咲耶姫コノハナサクヤヒメの力を使い、木や花を芽吹かせる一族、古野羽このは家。


 真鶴まつるが知る限り、他にも様々な裏華族が古来からいたらしい。だが次第に力を失い、または失脚し、それぞれ散り散りになったという。


「今は跡継ぎどのもいます。彼ももう力に目覚めていると。ですが、を咲かせられるのは女である我らだけ」

「わかっては、いるんです」


 トウ子の強い口調に両手を握り、視線をさまよわせた。


 頭の中で、紫色に輝く花が浮かぶ。銀色の花粉を持つ神秘的な花が。


「いつか、真鶴まつるも変わるときがくるでしょう。痛みを伴いますが」

「痛み?」


 口調が優しいものとなり、再び姉を見ると、彼女は穏やかなおもてをしている。


「ええ。何かのために変化することは、とても勇気がいることなのです」

「お姉さまが、輝広てるひろさまのために変わられたように?」

「そ、それは。真鶴まつる、調子に乗ってはなりませんよ」

「……ごめんなさい」


 照れた叱責に、それでもうなだれることはしなかった。真鶴まつるはできるだけ口角を上げ、ぎこちない笑みを浮かべてみせる。


古野羽このは家のトウ子ひいさま。輝広てるひろさまのお支度が終わりました」


 直後、廊下側から声がかかった。使用人のものだ。


 呼ばれたトウ子は閉められたふすまを見て、もう一度真鶴まつるへと向き直る。


「離れの鏡台に、母の形見を置いてきました。あれは真鶴まつるが持ちなさい」

「蝶の髪飾りを?」

「姉からの贈り物です」


 ささやいてから、「今、参ります」と答える姉は、真鶴まつるにとってやはりまぶしいもののように感じた。


 使用人たちが部屋へ入ってくる。誰も真鶴まつるを見はしない。意図して無視されていることがいやでもわかった。


 宴席に自分が出ることは禁じられている。トウ子と話すのは、きっとこれが最後だろう。


(お幸せに、お姉さま)


 トウ子の横顔に祝いと願いを込め、思う。


 二人を遮断するかのように、障子が閉められた。


 残された真鶴は、そっと庭の側へ寄る。白い小石で作られた流水紋りゅうすいもんに、苔が生えた築山つきやま。葉桜は雲のない空にきらめいているが、思念を読み取ることはできない。


「勇気……そんなもの、わたしには」


 トウ子の言葉を思い返し、二の腕を抱き締めた。先程は茶化してみたが、姉の言うことがなぜかとても、怖い。


 そのとき葉桜からひらひらと、舞い踊るように一枚の葉っぱが縁側に落ちた。風に吹かれたのではないと気付き、しゃがんでそれを手にする。


 「二階ノ客間デ待テ」――


 くっきりと刻まれた文字に、目を見張った。父である葉太郎ようたろうからのものだとわかったからだ。


「お父さま?」


 真鶴まつるが認識したあと、字が刻まれた葉は枯れ葉となり崩れていく。


 散った葉を手拭いで包み、ふところにしまいつつ首を傾げた。


(お父さまがわたしに力を使うなんて、何かあるのかしら……)


 この十数年、父とはまともに顔も会わせていない。妙な胸騒ぎがする。


 高等女学校を十六で卒業したあとも、二年間、料理や裁縫をして過ごしてきた。しかしそれは全て自分のためだ。家族と別れ、離れで一人暮らすために。日々、必要な食材や最小限の着物は、全てトウ子が用意してくれていた。


 ――父は、ただただ自分を憎んでいる。


「……二階の客間」


 呟き、背後を見た。閉じられたふすまを。


 遠くからは、まだ人々のざわめきが聞こえてきている。式がはじまっていない証拠だ。使用人たちも忙しい今なら、二階へ行っても誰とも鉢合わせしないだろう。


 こくりと唾を飲み込み、部屋から出た。


 日に照らされた通路を一人で行く。子どもの頃、一度だけ来たことのある屋敷の間取りは、今でも変わっていないようだ。


(一体なんのご用で……お父さまはわたしを)


 奇妙な不安に苛まれながら、階段を静かに上り切る。鳴ってしまった微かな軋みに、つい辺りを見渡したとき――


「誰か、いるのか」


 重苦しい男性の声音が、届いた。

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