第8話 大団円

 あの男、つまり、マサハルと会った時の彼は、まるで何かに取りつかれたかのようになっていた。と言っても、妖怪の類ではない。どちらかというと幽霊である。それも、いい幽霊ではない、とんでもない幽霊だった。

 彼は、自分の姿を必死に隠していた。隠せるものなら隠しとおそうとでも思っていたのだろうか?

「その日の夜は満月で、しかも、赤み掛かった満月だったのは、何かの怨念であろうか?」

 と思っていた。

 取りついていたのは、オオカミ男か、果たして、ドラキュラか? 女に対して、容赦のない、あられもない女性の姿に興奮する異常性癖であった。

 ただ、それは、取りつかれているのではなく、あの男の本性なのかも知れない。それを今まで知らなかっただけで、何を一体気を遣っていたのだろう。あの男の本性は、女を前にすると現れる。普段の真摯なところや、融通の利かないところは演技だったのだろうか?

 いや、演技というよりも、隠そうとしていたのが、演技をしているように見せただけで、本来の姿が現れただけだとすれば、かすみの運命はどうなってしまうというのか。

 かすみは、完全に恐怖に震えていた。男に蹂躙されて、ホテルに連れ込まれている。

 この男、どこで用意したのか、薬のようなものまで持っている。

 そこまで覚悟を決めているとすれば、何の用意も心構えのない自分に勝てるはずはない。

「おとなしくしていれば、被害を最小限に抑えられるかも知れない」

 という、いつもの思いがかすみを支配した。

 高校時代、苛めに遭っていた時期が短かったがあった。

 その時も同じことを考えて、やり過ごしたのだったが、あれは、相手がすぐに飽きたことで事なきを得ただけで、相手が違えば、また結果も違ったかも知れない。

 それを思うと、かすみは、

「この男はどっちなんだろう?」

 としか思えなかった。

 どう考えても、この豹変は危ないだろう。このまま黙っていたとしても、最小限で済む保証はない。ではどうすればいいというのか?

 と考えていたが、かすみは、どうすることもできなかった。

 案の定、黙っているのをいいことに、マサハルは次第にオオカミに化けているようだった。

 月に向かって吠えているシルエットが浮かんでくる。

「助けて」

 と、声を出したが、本当に声が出ているのかどうなのか分からない。

 そう思っていると、かすみは気絶してしまったようだ。気絶したという意識だけはあるのだ。

 そして、幽体離脱のように、自分の表から、自分が蹂躙される姿が見えていた。

「ああ、このまま、この男の性欲を、私は受け入れてしまって、汚されてしまうんだわ」

 と思うと、悔しくて仕方がない。

 気絶している自分が目を覚ます様子はないし、意識がある自分が、触ることもできずに何もできないのが悔しかった。

「ふふふ、俺はやろうと思えばなんだってできるんだ」

 と言って、完全に悦に入っている男の姿の醜さというと、見るに堪えないものがあるのだった。

「誰か助けて」

 と声に出してみると、今度は当然のごとく、声を発することなどできるはずもない。

 その時だった。颯爽と誰かが現れ、抜け殻になっている、かすみを助けてくれた。

 何とそこにいるのは、妹の典子ではないか?

「典子、どうしてあなたが?」

 と言っても、典子には聞こえていない。

 女一人で乗り込んでくるというのも、無謀であるが、そもそも、どうして典子がこのことを知っていて、どうやって入ってきたというのか。カギは間違いなくかかっているはずである。何と言っても、オートロックなのだから、一度カギがかかると、フロントが解除するか。中から開けない限り開かない。だが、この手のホテルは、中からも開かない仕掛けになっている。延長やルームサービスを貰いそびれてしまうからだ。ここは、基本料金は前金なので、基本料金は貰うそびれることはない。とにかく、一度閉まると、中からも開けられない構造なのだ。

 いつの間にか、抜け殻になったかすみは、自分の身体に戻っていて、

「典子」

 と言って声を掛けると、典子はこっちを振り向いた。

 その一瞬の顔は、典子であったが、典子ではなかったのだ。見たこともない女がそこにいて、

「いや、女というよりも、女の子と言った方がいい」

 というほど、あどけない表情が雰囲気を作っていたのだ。

 その子はニコリと微笑むと、典子の中から出ていったのか、典子は白目を剥いて、意識を失った。

「典子」

 と言って、典子を抱きしめると、

「お姉ちゃん」

 と言って、気が付いていた。

「典子、とりあえず、ここから出よう」

 と言って、典子の手を引いて、かすみは、部屋を出た。

 部屋のカギはかかっていなかった。引っかかっていただけだったのだ。部屋をカギがかからないようにして、部屋を出た。その時内線電話がかかってきたようだが、二人は急いで出たので、事なきを得たようだ。

 マサハルは、何とか言い訳をして部屋を出たようだ。さすがにその時のことを蒸し返されたら困ると思ったのだろう。後でマサハルから連絡があった時、マサハルは必至で謝っている。

 許すつもりはないので、そのままにしておいたが、どうやら、典子は、その時のことをかすかにしか覚えていないようだった。

「お姉ちゃんに、私以前助けてもらったことがあったの。私もね、似たようなことがあって、その時、どこからか現れたお姉ちゃんに助けてもらったの。お父さんの言っていたことが本当になったんだって私、思ったわ」

 と典子が言った。

 どうやら、典子も、父親から同じ話を聞いていたようだ。

「典子はその時に、どう考えたの?」

 と聞くと、

私には妹がいたって教えられたの、妹がお姉ちゃんになって助けに来てくれたんだって思ったら嬉しかったんだけど、それと同時に信じられないものを見た気がして、お姉ちゃんから距離を置かなければいけないって感じたのよね」

 と、典子は言った。

「じゃあ、さっきのあの時の典子は、妹のなぎさが私を助けてくれたというの?」

 と聞くと、

「ええ、そうだと私は思っているわ。そう考えると、お姉ちゃんが前に私を助けてくれたのと同じことになるでしょう? すべて合点がいくような気がするのよね」

 と、典子はいう。

「お姉ちゃんも、あんな男、どうでもいいでしょう? 私も似たような男からお姉ちゃんに助けてもらって、その時に、なぎさの存在を知ったのよ。私たちにとって、なぎさの存在は、きっと、自分たちが困った時、どちらかに、乗り移って、そして助けてくれることになるのよね。これって、私たち三姉妹が、今は二人の姉妹だけど、どちらにも乗り移ることができて、その身体を借りて、もう一人の誰かを助けるということになるわけだから、実に大変だけど、繋がりの深さを考えると、これって、私たちだけではない。他の人にもありえるようなことじゃないかって、思うの」

 と、典子は続けて言った。

「そうかしら?」

 と、少し反論がしたかった。

 かすみは、他の人と同じでは嫌だと感じる、天邪鬼なところのある性格だった。

 だから、きっと、マサハルの気持ちも分かったのだろうが、そんな二人のことを、きっと妹の、なぎさも、かすみを通して分かったのだろう。

 現実の世界に生きているかすみだから分からないようなことも、なぎさのように彷徨っている。守護霊のような人であれば、分かることもあるだろう。

「ひょっとすると、私も、お姉ちゃん同様に、マサハルのような男を好きになっていたかも知れないわ」

 と、なぎさが言っているような気がしたのだ。

 かすみは、時々、

「私の知っている人が、誰か身代わりと入れ替わっているような気がする」

 という精神状態になることがある。

「カプグラ症候群」

 というのだそうだが、そんな状態になっていることを教えてくれたのが、どうやら妹のなぎさだった。

「もう一人の自分」

 がいるような気がしていたが、それが、なぎさだったのかも知れない。

 なぎさは、もう一人の自分ではなく、自分の中で、都合の悪い時に入れ替わってくれるという、そんな存在だったのかも知れない。

 そういえば、父が最後に、何か不思議なことを言っていたような気がした。

「入らなければ出られない」

 どういうことだろう?

 その時感じたのが、先ほどの部屋からホテルの部屋のことである。

 密室でもあるかのような、ラブホテル。連れ込まれたとはいえ、入ってしまえば、出ることは、フロントに訴えなければ出ることはできない。

 しかも、今回は最後に表にも、どうやって出たというのだ。確かに、ロックがかかっていないと、出ることはできる。しかし、普通に冷静になって考えれば、

「ロックがかかっていなければ、フロントが不思議に思って内線電話を掛けてくるか、部屋に確認にくるはずである」

 と言えるのではないだろうか?

 誰も来ることも、電話がかかってくることもなかった。それこそ、不思議というものだ。

 やはり、守護霊としての、なぎさの存在が、二人を助けようとしたのかも知れない。

「二人って誰?」

 最初は、自分と典子だと思ったが、典子ではおかしい気がする。

 典子が助けにきてくれたからである。

 「典子にも誰か身代わりが入り込んでいるのかも知れない」

 という疑念は前からあったが、それが、なぎさだったとすれば、合点がいくのである。

 なぎさって、どういう人だったんだろう? 今まで父親から一瞬聞いただけだったのだが。

 と思ったが、かすみにも、典子にも分からなかった。

 きっと、二人になぎさが乗り移っていなければ分からない。ということは、二人が一緒に理解するということはできないのだ。

 そんな時思い出したのが、

「典子に誰かが乗り移っている」

 と思ったのは、典子にあぎさが乗り移っている時ではなく、逆に自分になぎさがいる時ではないかと思った方が、辻褄が合いそうな気がした。

「入らなければ、出られない」

 この言葉の発想はこのあたりにあるのではないだろうか?

 密室の謎も、この、

「入らなければ出られない」

 という発想に含まれているのだろう。

 自分の中にいる時のなぎさが、教えてくれたことなのかも知れない。

 なぎさが、そもそも、どうやって姉たちに乗り移ることができるのか。その時の言う釣られた元からいた二人はどうなるのであろう?

 そんなことを考えた時、乗り移られた瞬間に、なぎさが、

「入らなければ出られない」

 ということを考えるようだった。

 その答えを得ているはずだとは思うのだが、それが分かっているのは、姉のどちらかに乗り移っている時だけで、出てしまうと、その意識は薄れてしまう。

 しかし、乗り移られた方には、なぎさが出て行ったその時に、

「入らなければ出られない」

 というこの言葉が、しつこいほど頭に残っていて、忘れられないに違いない。

 それを考えていると、

「なぎさが、なぜ、この世に未練を起こして死にきれないのか?」

 ということが分かってきたような気がしていた。

 なぎさは、どうやら、典子と双子で生まれてくるはずだったのではないだろうか?

 いや、その典子も本当は、かすみと双子だったのかも知れない。

 母親には双子が生まれやすいという体質があり、初産では敵わなかったが、典子の時に双子ができた。

 だが、生まれてきたのは、典子だけ。その時、半狂乱となった母が、死んだなぎさに、自分の狂乱となった姿を見せてしまったことで、成仏ができなかった。

 その状態で、なぎさは、母親の苦しみまで背負った形で、この世をさまようことになってしまった。

 それを、母親は知っていて、今でも精神を病んだまま、半分、精神疾患を持ったまま、苦しんでいる。

 この物語で母親のことを出さなかったのは、そういう隠したいという理由があったからだったのだ。

 そんな母親は、絵画が得意だった。その素質を、かすみは受け継いでいる。

 そして、妹のなぎさは、きっと生まれてきていれば、小説を書いていたかも知れない。

 そういう意味で、典子が小説を曲がりなりにも書けるようになったのは、なぎさのおかげではないだろうか?

 なぎさは、典子に自分の果たせなかった夢を掛けているのかも知れない。ただ、自分が不幸の塊を背負っているので、小説も、暗いものしか描けないようになってしまったのではないだろうか?

 その暗さは、なぎさから受け継いだもの。そして、かすみが、マサハルに惹かれたのは、実は彼の中にある躁鬱症の気が、かすみの中にいる、なぎさに反応したのかも知れない。

 そういう意味で、なぎさは、

「お姉ちゃんが不幸になるとしたら、それは私の責任なんじゃないかしら?」

 と思うようになったのだろう。

 だが、なぎさも、マサハルという男のことを好きになっていた。異常性癖のようなものを受け継いでしまったが、なぎさは、

「私なら、治せるかも知れない」

 と思ったのだろう。

 だから、姉のかすみに入り込んで、かすみを使って、マサハルと一緒にいたいと思ったのだろう。

 だが、それが無理をしていることになり、結局マサハルを追い詰めたのだと、なぎさは感じた。

 だから、

「マサハルを救うにはどうすればいいか?」

 今度はそのことをいかに考えればいいのか、なぎさは考えるようになった。

 守護霊としての役目をしながらそれを考えている。

 すっかり、落ち着きを取り戻したマサハルは、自分が何をしようとしたのか覚えていあい。

 冷静さを取り戻したマサハルは、再度、かすみを愛することを考えたが。もうかすみには、その気力はなかった。

 今度は、典子に入り込んだ、なぎさは、持ち前の小説の執筆力を使って、類似の話を書いた。

 それがベストセラーになったのだが、作者はどこの誰なのか、その後も分からないまま発行され続けたのだった。

 内容は、今回のかすみとマサハルの間の出来事をプロローグとした、大スペクタクルと言ってもいいような話だったのだ。


                 (  完  )

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入らなければ出られない 森本 晃次 @kakku

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