少年はなぜ虫を取る、女はなぜ少年を追う

Orville

少年はなぜ虫を取る、女はなぜ少年を追う

 薄明が差し始めた空はまだ青黒く、風が吹けども汗も乾かないほどの湿気だった。 加えてもうジリジリと気温が上がり始めている。まだ明かりの灯る街灯のポールではアブラゼミがこんな時間にジイジイと騒いでいる。県道沿いのガードレールの裏では、かつて丁寧に手入れされていたであろう果樹を追い抜くように雑多な木々が伸び放題となっていた。


 "少年"がガードレールをまたぎ超え、かつて果樹園だった雑木林に忍び込んだ。そしてすっかり元気をなくしたミカンの木の一枝にぶら下がる袋を掴むと、日焼けした顔をしかめた。

 その袋からは、甘ったるくて酸っぱく腐った、胸焼けするような発酵臭が濃厚に漂っていた。安酒と酔っぱらいの体臭を合わせて濃縮したようなその臭いは、"少年"の大嫌いな臭いだった。


 そんな"少年"のしかめっ面にわずかな笑みが混じる。臭いを放つ袋の表面に黒光りする塊をいくつも認めたからだ。カブトムシにノコギリクワガタ、オオクワガタもいる。いずれもオスで、ツノを含めた全長は5cmを超えている。

 "少年"は斜めがけしたプラスチックの虫かごにそれらを詰め、メスや小物を林に向かって放ると、ガードレールを飛び越えて県道沿いに歩みだす。


 ──女がいた。

 県道沿いのバス停、トタン小屋の前に、つば広の白い帽子と、派手な紫の花柄の袖なしワンピースの、背の高い女が佇んでいた。脳裏をよぎるのは、夏に現れる長身の女の姿をした怪異、八尺様だ。

 だがどう見積もってもあの女の身長は六尺程度。服装も、八尺様なら白ワンピースだったはず。お化けなど生きている人間だけでたくさんだ、と少年は思う。


 このまま路側帯を進めばバス停の前を通るが、特に何が起こるはずもなく──。

 女の方が"少年"に気づき、顔を向けた。

 年増の商売女が肌の衰えをごまかすかのように塗ったくった派手な化粧。長い髪は手入れがされていないのか、赤茶けてパサついている。あまりお近づきになりたくない、という印象を抱く"少年"の顔をじっと見つめたその女は、突然口裂け女のような笑みを浮かべた。


 少年は飛び退くように県道の反対車線へと逃げ出し、途中でカーブの陰から出てきた軽トラにクラクションでどやされ、そのまま全速力で、振り返ることなく走り去った。


 逃げ切れただろうか。

 少年は畑地や、畑地だった土地が狭い谷間で並んでいた山間部から、やや開けた所に出た。青々とした水田の中に、まばらに民家が混じる地帯だ。

 既に日が出て夏の熱量を容赦なく浴びせにかかってきている。


 道すがらの公民館からはピアノのリズミカルなイントロと、ハキハキした男の声が聞こえてくる。金網越しの敷地内で、小学生たちガキ共がさんざん学校で教え込まれた風に体を動かしている。

 体操が終わる頃を見計らって"少年"が顔を出す。すると小学生たち《ガキ共》の輪の端っこにいた、一際くたびれた服を着た子どもたちが駆け寄ってくる。

 "少年"の弟と妹だ。


 虫かごの中の戦利品を見せると、あざだらけの顔がぱあ、と輝いた。こいつらのメシ代は"少年"が稼がなければならない。家庭の事情から給食費の支払いは免れているが、夏休み中は給食が出ないのだ。


「カコン」


 ──と、ポケットの中でが呼びつけてきた。取り出したスマホの通知欄には


 父

  角 700


 の文字があった。

 何かうまいもん買ってやるから、帰りは一緒にな、と"少年"は弟たちと連れ立った。


 公民館のすぐそばには高い堤防に挟まれた大きな川が流れており、堤防沿いの道ではクロスバイク、腹が出て汗染み全部のタンクトップ、ぬいぐるみみたいな小型犬にリードで曳かれるばあさんなどが行き交っている。

 が、少年たちの目的地は川と国道の交差するトラス橋の下だ。

 橋の下にはブルーシートやらダンボールやらで囲まれた空間があった。


 "少年"があいさつすると、黒くくすんだ白いヒゲのじいさんがぬう、とブルーシートののれんを開けて姿を現した。

 黒っぽい衣服がホコリで白くくすみ、新聞紙のインクで白いヒゲが黒くくすんだ灰色じいさんは"少年"の様子を認めると、"少年"から渡されたメモを読んだ。

 これで良いのか、と尋ねると、"少年"はうなずいて千円札を2枚渡した。


 弟妹たちとコンビニで買った見切り品の菓子パンやバナナにパクついていると、灰色じいさんがビニール袋を持ってきた。

 袋の中には、キマった目で酒をかっ食らう素浪人のイラストが描かれた紙パック焼酎がぶがぶくんと、ケミカルな味わいで(悪)名高い黄色ラベルの激安ウイスキートップバリュ。あとワンカップ大関。


 ほれ、これも要るだろ、とモノクロじいさんがのれんの奥から角700のビンを"少年"に手渡した。傷も汚れもなく、蓋もある。これなら多分バレない。

 "少年"が頭を下げると、じいさんがワンカップを開けて旨そうに飲み干した。


 少年は角700のビンにケミカルなウイスキーをゆっくり注ぎ、それからがぶがぶくんを少し注いだ。こぼさないように慎重に繰り返し、スマホの画面に映る本物と見比べ、ビンの中の液体の色味を確かめた。

 ネジ式の蓋は接着剤でリングと貼り付け、未開封品の音が出るように細工した。

 よし、と独りごちた少年は覚悟を決めて家へと向かった。


 ドカン! と上から怒鳴りつけられた。

 亀のように甲羅に閉じこもりたい、せめて盾を構えたいが、"少年"も弟妹もそんなものはないので直撃を浴びせられるほかなかった。

 ボロアパート2階の"少年"の家で、玄関の扉を開いた瞬間のことだ。玄関先で父が待ち構えていて、甘く酸っぱい腐った酒の、アル中の吐息とともに怒声を叩きつけてきた。ろれつが回っていなかったが、遅い、と怒鳴ったのだろう。


 父は不機嫌な表情のまま"少年"の手の中にあった角700のビンをむしり取った。

 "少年"は強張った表情で父の様子を伺う。

 肌は不健康に青黒く、エチルが切れてきたのか手は震えているが、上背の差は40程もある。体重などは倍も違うだろう。癇癪かんしゃくを起こされれば太刀打ちできない。

 自分一人なら走って逃げるのは簡単だろうが、弟や妹は無理だ。またアザを増やす。

 ――アザで済めばいいが。


 父の手の中には亀の甲羅のようなデザインの角700のビン。プルプル震える指で蓋をひねると、パリリと小気味よい開栓音が響いた。第一関門を突破した"少年"が胸を撫で下ろした。

 そのままビンに口をつけると、ぐいとラッパ飲み。ゴクゴク喉を鳴らして、水のように飲む。度数約40を、だ。"少年"も試しに口に含んでみたことがある。痛くて熱くてとても飲み下すことなんてできやしなかった。

 ぶはあ、と、ビンの中身の3分の1ほどを飲み干した父が一言。

 ゴメンな、こんな父親で。

 と。謝罪の言葉は散々聞いたが、改善に向かう行動は一度たりとも見たことがない。


 それでもどうやら今日一日は、無事に過ごせそうだった。

 弟たちを風呂に入れてやれるし、部屋の掃除もできて、洗濯や料理もできる、平穏無事な一日をとりあえず約束してくれた。


 おまけに今日は試していた酒の"調合"も上手くいった。

 アル中になっちまえば酒の味なんてわからんもんさ、とは灰色じいさんの弁だが。ちょろまかした金を貯めれば久々に肉を食わせてやれるかもしれない。チビどもの喜ぶ顔が楽しみだった。


 "少年"の夏の一日は長く、短い。

 早朝に虫を取り、弟と妹を食わせ、酒を調達し、父の機嫌を取るとようやく家事ができる。昼飯を挟んでそこら中に転がっていた酒瓶とその破片をゴミ袋に詰め、その他諸々の家事を片付けたら、13時を過ぎていた。


 まずは今日の戦利品をメルカリで売り払う。総額は1万の大台に乗っていた。やったぜ。スーパーに設けられている発送コーナーで忘れずに発送する。

 "少年"のみすぼらしい風体を訝しがる者もいたが、1万円に比べれば安い。たとえそれが親を連れた"少年"のクラスメイトの女の子であっても、だ。


 次の日のをしないと間に合わない。急いで公民館に向かった。

 朝飯の時に残しておいたバナナの皮に、公民館(の消火器ケース)に隠しておいた安酒を浴びせて、ビニール袋に封じ、朝のうちから続く炎天下で放置しておいた。

 既に発酵して、あの嫌な臭いを放つ虫のエサになっている。


 あとは場所だ。県道沿いの果樹園の跡地は良いスポットだった。少し遠いが、今後のローテに加えたい。

 灰色じいさんのねぐらの近く、金欠役所のせいで手入れの悪い河岸広場にできつつある雑木林。

 ──悪くはないが、エサを人間に取られることがある。


 市立の自然公園。──前にも行ったが、叱られた上に虫取り禁止の看板を立てられた。エサの臭いで苦情が来たらしい。

 ゴルフ場。──はおととい仕掛けた。間隔を空けたい。

 川を越えた先に見える山。──は期待できるが、今から仕掛けに行けば帰りは夜中だ。金が貯まったら自転車が欲しい。乗り方を教わったことがないのが難だが。

 神社の周りの森。──は3日前に仕掛けたが、見事にボウズだった。

 ボウズといえば──寺。あの山際の寺の墓地の裏手の林ならどうか。


 で、寺に着いた。現在の気温、38度。

 あまりの暑さに、いつもうるさいはずのセミの鳴き声もいくらかおとなしい。

 墓場の石はたっぷり熱を蓄え、空と地面に加えて四方からも侵入者をローストするかのようだ。

 塩入りの水道水が詰まった酒瓶を右手に、仕事道具を左手のビニール袋に提げた"少年"が手頃なスポットを探して見回す。


 目が合った。朝バス停で見た変な女だ。やっぱりずっと尾けられていたのか。

 女が、"少年"の顔を見るなり、無言でガシガシ歩み寄ってきた。

 そのままデカめの墓石の影に隠れ、ニヤニヤしながらこちらをじっと見つめてきている。時折漂ってくる香水の匂いがスパイシーでどぎつい。蜂が寄ってくるんじゃないのか、その臭い。


 "少年"は視線が苦手だ。赤の他人のものはもちろん、知っている人間でもだ。

 身なりに気遣える暮らし向きではないから、知らない人間は訝しむ。

 "少年"の人となりを知っている人間は、嘲笑ってくるか、哀れみの感情を向けてくる。

 当然ながら、"少年"をいじめる者もいた。"少年"には親という後ろ盾がないからだ。犯人を突き止めた"少年"は手近なものを引っ掴んで急所めがけて振り回した。父がそうしてきたように。

 このことは当時の担任にバレ、正当防衛という事情を理解してもらえたは良いが、その後のクラスメイトの視線には蛇や蜂を見るような、危険物を見るような感情が加わった。

 弟や妹の視線も、苦手だ。彼らが"少年"に視線を向けるのは、大体暴力や空腹からの解放を求める時だ。だが、"少年"が常に解決できた訳ではない。ただただ我慢させることだけしかできなかったことばかり思い出す。

 だから苦手だ。


 そして、あの派手メイクの"六尺様"の視線。

 何だか可愛らしい動物を観察するかのようで、あまりにも未知のものだ。わからない。今日は洗濯できたとはいえ、着古され薄汚れたTシャツ短パンのガキなんて見て楽しいものか。

 悪意だけはなさそうだから──このまま無視を決め込むことにする。

 父に殴られず、弟と妹に良いもの食わせる方が大事だ。


 手頃な木を見繕ってエサを仕掛ける間も、その女はこちらを物陰からガン見していた。

 日が落ちる前に帰路につく──交番に寄るか迷ったが、

 晩飯の材料を買いにスーパーに寄る頃にはあの女の姿は消えていたし、何より所持金が久々に5ケタの大台に乗ったことから気分が浮ついていた。


 家の玄関のドアを開けると、"少年"の頭の中でゴキリ、という音が響いた。

 視界はブラックアウトし、ただ青白い火花が散った。

 そのまま床に叩きつけられたようだが、もうろうとしてわからない。

 焦点の合わないままの視線が強制的に上を向く、アゴをかちあげられたようだ。ピンボケで、赤い顔の父。

 よくもニセモンを飲ませやがったな、と怒鳴っているようだ。

 アルコールが切れている間はバカ舌だったのが、飲んだせいで少しまともになって──バレたらしい。


 父の握った角700の瓶が"少年"の鼻面にめり込む。

 ぶは、と鼻血が吹き出る。赤黒い視界の端には、ぐったりとして動かない弟と妹。

 血の糸を引きながら角700が降ってくる。ガツン、と、"少年"が腕で防ぐ。

 ドスン、と、みぞおちに父の蹴りが突き刺さる。玄関から放り出され、背が通路の柵にぶつかる。

 ここは2階、下はアスファルト。落ちれば助からない。

 血の滴る角700を手にした父が迫る。落ちた方が助かるか。

 "少年"の胸ぐらに父の左手が伸びる。もう落ちられない。

 父が角700を柵に叩きつけると、そいつは鋭利なガラスのナイフに変わった。死ぬ。


 降り注ぐ罵声と暴力、"少年"の人生のすべてだった。もちろん終わりもだ。


 遠くで、女の叫ぶ声が聞こえた。

 チンチンとか、ティンチンとか、とにかく日本語ではない。

 鼻の中を流れる血の臭いを突き抜けて、どぎつい香水の匂いが刺さってきた。


 あの女だ。やっぱり尾けてきていた、あの怪しい女。

 理性の切れていた父の表情に戸惑いが過った──ように見えた。


 安アパートの階段を登ってきた女がこちらに向かってくる。

 父がもはや刃物と化した酒瓶を女に突きつける。

 女がショルダーバッグでそれを受け止める。

 突っ込んだ勢いで二人がもつれ合うように転げる。

 父が強かに頭を打った。女がバッグからガラスの刃を引き抜く。父めがけて突き立てる。

 父の首すじからじわ、と赤黒いものが流れ、止めどなく大きく広がっていった。

 女に馬乗りにされて、もがいていた父の動きがだんだんゆっくりになり、ほどなく止まる。

 ──死んだ。


 夢を見ているようだった"少年"の意識を現実に帰したのは、けたたましいサイレン音と、パトランプの光だった──。


 "少年"とその弟妹を守ったあの奇妙な女は、殺人犯として然るべき刑罰を受けることとなった。"少年"も証人として法廷に立ち、できる限りの減刑を求めたが、それでも実刑を免れることはなかった。


 目まぐるしい勢いで"少年"のもとに人々がやってきて、何ヶ所も役場みたいなところに通うはめになって、ひたすら忙しくて、へとへとになる毎日だった。

 "少年"も、弟妹も、もはや空腹と暴力に怯えることがなくなったことだけが幸運だった。

 そんな風に過ごしていたら、その日はすぐにやってきた。

 女が本国へと帰る日だ。女は日本の生まれではない。殺人犯である女は本国へと強制送還され、そこで服役することとなる。


 その日は昼でも薄暗く、激しい雨と雷が一日中止まない日だった。

 季節はすでに移ろって、肌寒ささえ感じる日だった。

 以前は寒かろうと薄着で我慢するしかなかった少年たちだったが、

 今はそれなりにきれいで温かい服を着ることができていた。


 "少年"は柵越しに女の乗ったワンボックス車を見送っていた。

 柵から車道まではかなり遠く、運転手の顔がようやく見えるかどうかだ。

 そして護送車であるその車はサイドとリアに濃い色のスモークが掛かっていた。


 必ず会いに行く、と、"少年"はあの日から学び始めた女の国の言葉で叫んでいた。

 ざあざあ響く雨音にときおり響く雷鳴で、聞こえるはずがなくとも、"少年"は何度も叫んだ。


「お母さん」


 "少年"の叫びを、ひときわ大きな雷鳴がかき消した。

 まばゆい雷光は護送車のスモークガラスを貫く勢いで照らし、女の横顔を映し出した。

 "被告人"として化粧の許されなかった女の横顔は"少年"の生き写しだった。

 女が15の頃に産んだ"少年"と。



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