水鏡に咲く色彩は

蒼乃モネ

水鏡に咲く色彩は

 なみなみとたゆたう水をたたえた湖の岸辺。空はまだうっすらと明るさを残した刻。ときおり遠く噴水が吹き上がり、そのしぶきは煌きながら散ると霧に溶け入るのが見えた。

「場所取り、ごくろうさま」

 紅茶色の髪を編み下ろした薔薇嬢は、先に到着していた者に声をかけた。

 漆黒の髪をなびかせた少年は、芝に広げた敷物が風で飛んでしまわぬよう、わずかばかりの荷物を小分けにして抑えにしていた。

「ああ、やっと来た。ずいぶん待ってたよ」

「いつから居てくれてたの」

「はじめに来たのは夜明け。何度か離れたけどね」

 少年の生真面目な言葉に、薔薇嬢は驚いたように目を見開き、続いて微笑んだ。

「お手柄。噂通り、とくべつ人が多いみたいですからね」

 青い草の香りが人々のあいだを吹き抜け、静かな湖面を揺らした。少年はようやく穏やかな心地になり、空を仰いで寝転がった。



 同じ頃、別の二人組は丘へ続く道を脇へ外れ、雑木林のなかを進んでいた。しばらく行くと、街を望むひらけた場所に出た。すでに先客がちらほらいたが、それでもその場所が絶好の穴場であることに違いはなかった。猛禽が飛び去るのが見えた。

 やがて景色は藍に染まり、木々は影となり、暗い空を鬱蒼と切り抜いた。眼下には、幾千もの街の灯。人々は宝石箱を覗くように、その夜景に魅入った。

「ここからならよく見えるかもな」

 男は手近にあった乾いた大石に腰かけた。片青眼の瞳は、連れの者に向けられた。その者は令嬢であり、またはしなやかな体つきの獣のようだった。そして、影のように実態が曖昧な存在だった。

 それでも慣れたしぐさで豊かに波打つ髪をかき上げ、片青眼の男に腕を絡めた。

「同じものを見続けていれば、いつかヒトになれるかしら」

 男は、またその話かと眉をひそめた。

「何度だって言うが、なれやしない」

 男の言葉に、揺らめく影は不服そうであった。

「ある日を境に何かになるかなんて、わからないじゃない」

「なる必要がないから、ならなくていい」

「どうしてそんなこと言うの。ずるいわ、あなたもヒトじゃないの」

 影の詰め寄りに、苛立った男はそれを振り払おうと立ち上がった。

「今のままだからこそ、迷わず共存できる。不確かな一対よりずっといい」

「そういうものかしら」

「あんたのはヒトよりも人間らしいさ」

 その言葉に、令嬢はまん丸い瞳を瞬いた―かのように見えた。あわせて、金の火花が宙に散った。



 高台の別荘街。平常は閑散としたこの一帯も、行楽期間に限っては人々の賑わいに満ちる。

 とある邸宅のバルコニーでは、今宵のために誘い合わせた人々がゆったりと歓談していた。

「やあ、君にとっては久方ぶりの外出ってわけだが、さぞかし気分が晴れるだろう」

 歌う様な節で言葉を発す吟遊詩人は、親しげな様子で、話し相手の高貴な身なりの男の肩を叩いた。

「実にいい気分だね。たしかに、ここのところ公務が立て込んでいて、もうずっと宮殿に缶詰状態だった」

「たまには羽を伸ばすことも大事だ。お忍びの手配ならば、いつでも呼んでくれたまえ」

 続いて、おもむろに竪琴をかき鳴らし、窓辺に腰かけると街の灯を眺めた。

 それは、王国の都に内包された生命の象徴だった。

 初老の博士は酒を注いだ盃を片手に、その通りとため息をついた。

「何しろ課題は山積み。おまえさんひとりで抱え込んだとて、到底終わることなどない」

「そうだね。日々実感しているよ。実際、私は無力だ」

「この世の生きとし生けるものは皆、『何者かの力に動かされているのではないか』とね」

「それはなんだい」

「いつか薔薇嬢が言っていた。僕は即座に、そんなことを知ることはできないと言って、はぐらかしてしまったよ」

「らしくないね」

「僕としたことが、いささか無粋だった。その後なんと言って誤魔化したのだろう」

 初老の男は豪快に笑った。

「あの難しく考える嬢ちゃんなら言いそうだ」

 高貴な身なりの青年は、頷いた。

「あのお嬢さんも大変だ。持てる者なりの、苦悩といったところかな」

「人間というものは、手の届かぬものを羨むものさ。ねぇ、一国の主さま」



 そのとき、大型犬のごとき姿がバルコニーに現れ、うろついた。

 詩人が、おやと首を傾げる。

「アルフレッド。ご主人はきみをここに置いて行ったのかい」

「わしが提案した。大きすぎる音がだめなんだ」

「それはそうだろうね」

 笑い合う声が頭上をかすめるのをアルフレッドは気に留めることなく、もうしばらくうろついた後、再び部屋へと戻っていった。

 アルフレッドはキッチンへ向かい、立ち上がった。壁に掛けられた鏡には、無表情な、何度目にしても見慣れることのない男の顔が映っていた。

 グラスに水を注ぎ、飲み干した。あまりに長くこういった生活を続けていたせいか、一連の動作はごく自然なものであり、それどころかもう何でも自分でできてしまうのだった。

 彼は、犬でなく、人でなかった。ただ、名のある者だった。

 今頃、己の主人は空を見上げて、その時を待っているのだとおもった。

(同種の中ではあまりにも繊細に発達しすぎた)彼の脳裏に展開されたのは、どこまでも広がる藍の空。そこへ美しい光の花弁が開ききるのと同時に、大地を震わすがごとき轟音。空にはじけたのち山々に反響する、あまりに暴力的な響きを受けると、反射的に身をすくめた。

「人間は、やはりどうかしている!」

 蒼白い毛並みに戻った身をソファの影にひそめ、ぴんとたった耳をクッションに埋めた。



 色鮮やかな光の粒が、夜空と鏡面の湖に大輪の花を咲かせては消え、地上からは一斉に歓声が上がった。

 薔薇嬢は熱狂のなか、思い出したように少年と向き合った。

「アルフレッドは今頃、恐ろしい思いをしているかもしれない」

「ここほどじゃないだろうさ。距離もあるし、屋内ならどこでも一緒だ」

「耳がいいから」

「利口だから理解しているはずだよ。あいつは犬じゃないんだぜ」

「それはそうだけど。鋭敏な本能には抗えないものよ」

 そう言った言葉はもうすでにかき消されて届きそうになかった。

 観念して空を見上げ、再び少年を見た。赤や青の光に照らされてはすぐに暗くなったが、その残像はもう少年のものでなかった。歴戦の騎士の横顔だった。

「私、あなたに感謝してるのよ」

 不思議と、この言葉は通じたようだった。

「そりゃ夜明けから待ってたんだから当然だろ。もっと、褒めて然るべき」

「そうね。ずっとあなたが夜明けの目じるしだった」

「なんだそれ」

 騎士見習いから本物の騎士となった青年は、困ったように笑った。

 向かい合う彼女もまた、王国お墨付きの職種に就く。いつしか人々から薔薇嬢と呼ばれるようになった。

 それでも、彼女はもうどこにいても自分の本当の名を持ち続けることができた。

 思い出させてくれる者たちとこれまでの長い旅路で出会えた為に。


 光の宴の終焉。拍手喝采が止むと、湖岸沿いに列をなしていた人々は織物の糸がほつれるように順にそれぞれの帰路についた。手に手に明かりを持ちながら。

 人ごみの中から、アルフレッドが主人のところに歩み寄ってくるのが見えた。騎士の青年は肩をすくめる。

「やっぱ主人の居場所がわかるんだな、賢いじゃん」

殿。僕をそこらの獣と同じ扱いにしないでくださいね」

 アルフレッドは、さも当たり前のように次々と人間の言葉を放った。

「まったくひどい目に逢いました。セシリア陛下にはさきほど抗議しておきましたから」

 そう声を荒げる様子に、いつか少女だった女主人は微笑んだ。

「この国にお勤めしている以上、国のお偉方にはちゃんと意見を聞いてもらわなくちゃあね」

「まつりごとに興味はありませんが、毎度毎度、命の危機を感じるのは御免です」

「よく言うよ。もっと危険な目にあってきたじゃないか。なぁ、ロゼ」

 騎士の青年は頭を抱えた。ロゼと呼ばれた娘は、一二歩進むと、くるりと振り返った。

「そうだったわね。そんな過去も未来も、一緒に生きましょうね」

 暖かい宵の風が吹き、どこかの庭から柑橘の香りを運んできた。それは、まるで時間の静止のように思われ、騎士の青年はそれを振り払うように声をあげた。

「今さらだよ。そのために王都こっちで職に就いたんだから」

 その様子を、アルフレッドはつぶらな蒼穹の瞳で見上げる。

「あなたが自ら望んだのでしょう、殿。さぁ行きますよ」

 アルフレッドは蒼白い毛並みをなびかせ、ふたりを先導した。

「皆、今からでもあなたたちの来訪をお待ちかねです」

「行きましょう、ハーク」

 ロゼはハークの腕をつかみ引き寄せると、先を行くアルフレッドの背中を見失わぬように夜の小道を駆けだすのだった。

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水鏡に咲く色彩は 蒼乃モネ @Kate_Grey

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