ある日目覚めたら鳩になってた

紺狐

第1話

 ある日目覚めたら鳩になっていた。

 画材まみれになっているアトリエで仮眠を取ろうと目を閉じて、次に目を覚ますと鳩になっていた。

 ずっと空を飛びたいと思っていたら、ホントに鳩になってしまった。

 白い身体、モフモフの羽毛が身体中から生えていて、身体を触ろうとしたら両翼がパタパタと動く。

 鳥に腕なんか生えていないのだから当たり前である。あたりに少し羽毛が散った。

 奥から光がこぼれているが、自分の周りは薄暗かった。ちょっと回りを見渡してみると、両脇は上の見えない壁で、見えるものは本当に奥からの光だけ。巣針金ハンガーを組み合わせたものでできていた。いや、カラスじゃないんだから。

 そして、思うわけだ。

 空を飛びたい。

 せっかく鳥になったんだから空を飛びたい。 

 羽根を動かしてみると、すんなり空まで行けた。力むことなく、ただ上に行きたいと思うだけで目の前にそびえたつ壁を軽々と越した。

 空を飛んだことなんてないのに身体に染み付いた風を切る行為は、まさに、自由。

 重力というかせは人類を縛り付けていた。

 飛んでみると分かる。重力なんて生まれたときから認識しているから私たちは何とも思わないけど、実際にはとんでもなく影響を受けている。人類は空への憧れを捨てきれないから山へ登ったり、平野に高い建物を建てたり、飛行機などというものを作ったりするわけだ。

 この世界は二色でできていた。

 真っ白のペンキが塗られたビルの森、アスファルトの黒い網目、白いお面と黒い服を纏って黙々とどこかに向かっている人間たち。

 自然はなかった。川と思わしき液体は石油のように濁っていた。

 「この世界の人間は無気力そうだなー」

 空は見渡す限りの曇天だったが、その割に雲の隙間から陽が零れ落ちて、街はキラキラと輝いて見えた。二色しかないこの世界でキラキラ輝くのは、気持ち悪さを覚えてくる。

 この世界の住人は色が嫌いなのかと思うほどの白と黒。鳩の眼が白と黒にしか世界を映さないだけかもしれないが。

 空を飛んでいるだけも飽きたのでとりあえず仲間を探してみると、時計台のある広場のあたりにたむろしている鳩の群れを見つけた。

 どうやら公園らしい。

 近くに寄ってみるとそれなりの羽数がいて面白い。鳩の首元の鮮やかな色が、この白と黒しかない世界で世界で三番目に見た色になった。

 あの独特ななんとも言えない鈍く輝く色味を相手にこれほどの安堵を覚えることがあるだろうか。

「ポポ」

 一羽のスラっとした鳩が声をかけてきた。とりあえずこの鳩をスラハトと呼ぶことにしよう。

 スラハトが何を言っているかは分からなかったけれど、挨拶っぽいなということは感じていた。

 挨拶を返そうと口を開いてみたが、

「ポポ(やあ)」

 というただの鳴き声にしかならなかったが、なんとなく納得した様子のスラハトがそのまま話しかけてくる。

「ポポポ、ポポ」

「ポポポッポ(なんて言ってるの?)」

 すると首を傾げたスラハト。

「ポ。ポッポポ」

 何かを尋ねているのということは分かるが、やはり意味を理解できない。

「ポッポーポポポッポ(喋れてるけど、君の言ってる言葉が分からない)」

「ポッポ……」

 私には、会話が通じないと分かっているのに話しかけにいく勇気を持ち合わせていなかったが、それでも鳩というのはおしゃべりなようで目を合わせてこようとしてくる。

 ただ言葉が伝わらなくても、首の動きとか、羽のはばたきとかで雰囲気はなんとなく伝わるみたいだし、会話ができない旨を伝えるとみんな気にかけている素振りを見せてくれる。

 鳩の温もりは、人間より優しいかもしれない。

 それにしても鳩は暇だった。

 人間の社会は娯楽で構築されているから、常に遊戯があるのと変わらない。

 しかし鳩がすることなど特にない。空を飛ぶか、鳩と話すか、ぼーっとするか。

 白が強調されている公園には、視界のはるか先で巨人がヨボヨボと歩くだけでなにもなかった。巨人……、鳩から見たら人間も巨人である。

 その割に歩く速さは自分たちよりも早い。もちろん巨人どもは道具を使わなければ空を飛べないが、そらそうだ。あの巨体で空飛ばれたら怖すぎる。神様なりの配慮というものだろう。

 当然鳩は人間よりも速く飛べる(というより、人間は飛べない)。しかし、速さが勝っていようと、銃を持っていたら早々に撃ち落されるのだから意味がない。

 鳩になった途端、どれだけ人間という生き物が恐ろしいかを感じる。

 人間にとってはかすかな震動でも、鳩の身体は大きく揺れるのだから。もちろん襲ってくることはないし、そしたら飛んで逃げればいいわけだけども。

 ふと、脇になにか袋を抱えているのが見えた。

 そこから、パラパラとばらまかれる油脂たっぷりのお菓子たち。

 あぁなんだ、公園でエサ撒くおじいさんか。

 興味本位でちょっとつついて見たが、なんだかとても栄養価がありそうである。お菓子というのは、油をふんだんに使ったカロリーの結晶だから当然なのだが。

 いざ食べようとすると、お菓子が大きすぎて食べられないと発覚。器用に地面に向けてお菓子をうちつけて、ボロボロと崩れてきたお菓子を咥えて飲み込んだ。

 味がおいしいかどうかはよくわかんないけど、腹は膨れる。

「おいしいか?」 

 声が存外若いことに少し驚いた。

「ポ」

「そうかそうか」

 杖をついてはいたが、声からはそこまでの老いを感じず、つい父親を想像してしまう。三年前旅に出たきりのあの人は、いったいどこへ行ったのだろうか。

「この街はもっと色があったんだがなぁ、みんな色を嫌っちまったから、街からどんどん色が消えていってなぁ、ついにはなくなっちまった。色のついたもんはみんな壊されたからなぁ。おまえたちからすれば、見慣れた白い木も、白樺を品種改良して真っ白な木になるようにしたんだよ。一体どうやって光合成してるんだろうねぇ」

 改めて公園の木々を振り返ってみると、一つ一つの木々から沈黙の声が聞こえて来るように感じた。

 白化した珊瑚が海中の中で存在感を示すように、同じく白化した木々も陸上で主張しているのだ、私たちはまだ死んでいないと。

 そういえば、鳩はこの白黒の世界で生き永らえているのはなぜだろう? 灰色だから? いや、鳩の足や首元には彩りが残っているのをこの目で見た。

 この世界には、犬猫の類はおろか、昆虫や羽虫の類さえ例外なく生物は見かけないのに、どうして鳩だけ例外なのか?

「おまえさん。そろそろ気づいたらどうなんだい」

 何を。

「気づかないのかい。ならいいんだが」

 街をぬける風の音、響き渡る風の音、街の静けさ。

 何かが来る。

 ゴゴゴゴゴ。大地から大きな音がして、鳩の身体が大きく揺さぶられる。

 近くの石畳が次々と、とどまることなく割れて地中に消えていく。その音に驚いた鳩たちが一斉に飛び立つのにつられて、一緒に空へ飛び立った。

 ふと、あの人を探してみたが姿がない。

 穴に落ちた? あの短時間で? 違和感はあるが、もはや人のことを気にしていられるような状況ではなかった。

 空から見下ろすとあの憩いの公園は巨大な穴に置き換わり、その穴の中から現れたのは視界を埋め尽くすような青い鳥だった。

 人間ですら軽く飲み込んでしまうよな、怪鳥の類であった。

 色のない町での青い鳥はこれほどまでに眩しく見えるものか。昨日まで当然のように見ていたはずの「青」なのに、今初めてみたような衝撃を胸に抱く。

 本能の反射に従って、遠くに逃げようとしたけれど、自分とどれだけ体格差があるのか考えれば逃げられそうにないのは明確だった。

 食べられたら全て終わるのか、と思った。

 早く食べられてしまいたいな、とも思った。

 食べられるのであれば、鳩になった短い生涯は終わる。鳩になってからの人生にこれと言った執着があるわけではないから、悔しくはない。

 でも、それでも、やっぱり。

 なんて考え込んでいたら急に視界が暗くなって、意識が途切れる。あぁ、そうか。



 ――――死にたくない。





 ガバッ。

 飛び起きてみれば、寝る前と一切変わらないアトリエだった。

 羽をバタつかせようとしたら、腕をぶんぶんと振り回すという結果に終わった。

「なにやってんの」

 びっくりして後ろを向くと眠たそうに眼をこする同居人の姿があった。

「今、鳩になってきた」

「はぁ?」

 呆れた顔をしながら、ひとまず部屋の電気をつけた。

「夢の中で鳩になってきた」

「作品うまくいかな過ぎて頭おかしくなったのか?」

「かもしれない」

 まぁ現実逃避の傾向があるのは間違いないだろう。未完成の作品が大量に溢れているこのアトリエを見れば、なんとなく分かる。書きかけの観音様の絵と、婦人画、草原の絵、二人の男女が向かいあってる絵、よくわからない記号の数々、写実的な絵……。

 作りかけの作品の山。

「でもさ、もしかしたら今の私って鳩の見てる夢かもしれないじゃん。こうやって悩んで、必死こいて絵描いてることそのものが」

「『胡蝶の夢』みたいなこと言うな」

 確かに。体験したことは胡蝶の夢にそっくりだ。私が見ていた夢が鳩だったのか、鳩の見ている夢が私なのか。

 あの体の軽さがただの体験だったとはどうしても私には感じられないし、あの二時間だか半日だかの体験は華胥かしょの夢というにふさわしいものだった。

 それが正夢であってほしいと思うのは人間としておかしいのだろうか?

「ねぇ、描きたい作品ができた」

「またかよ」

「白い鳩が、モノトーンの街を自由に駆け回る絵」

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