第15話 初夜の儀(3夜目の正直)
こんなにこの家が静かだと思ったことが無い。
食事中も、風呂の支度をしていても、ジオが全くしゃべらないからだ。
ベッドの端に座って、風呂上りの濡れた髪を拭く。
落ち着いて考えれば考えるほど、殿下の怒りの理由が分からなかった。
「もう一度、僕の隣に戻ってきてよ」と仰ったけれど、そもそも隣にいたことなんかあっただろうか。
数回お茶に招かれたことと、学園にごく稀にいらっしゃる時に「婚約者だから」と隣の席に座ったくらいだ。
確かに報告も無しに急な結婚をしたが、臣下の婚儀に口を挟むようなお方でも無かった。
「考え事か?」
ジオがコップを持って戸口に立っている。気配を感じなかったので少し驚いた。
「殿下のことを考えていたの」
その返事があまりに馬鹿正直で、思慮の足りないことだったと、すぐに私は気づかされる。
トンと押された上半身は、簡単にベッドの上に転がされ、ジオの両ひざが私をまたぐ。
彼が一気に中身を飲み干したコップを置くと、アルコールの香りが降ってきた。
「お酒を……飲んだの?」
「悪いか?」
「悪いってことは無いけど……」
あなたがお酒を飲むのをはじめて見たわ、と言葉を続ける余裕は無かった。
首だけくつろげたボタン、その先をはずすのは面倒になったのか、下からシャツを持ち上げる。
ひきしまった腹がランプに照らされて、思わず目を覆った。
「ちょっと……何で……脱いで」
ハッ、と笑った声がいつも通りの小ばかにしたような音だったので、指の間から上裸の彼を盗み見た。
骨格を感じる角ばったシルエットと、それでいてなめらかな肌。
初めて見る殿方の裸の上にある、
「初夜の儀を、はじめようか」
耳元に囁かれた甘いアルコールの香りは、我がエミリアの魔導力の粋をあつめた
「くだらないこと考えてると、最初におまえも裸にひん
現実逃避しそうになった心が、物騒な脅し文句で戻ってくる。
「言えよ、あの誓いの言葉みたいなやつ」
「で、でも、私、ブー子はやっぱり嫌かなぁ……って」
どうにかいつもの調子に戻ってくれないかと、軽口をきいてみる。
「……王子サマには何て呼んでもらう予定だった? お望みなら、同じように呼んでやるよ」
「何で今、殿下の話が……」
「うっとりした顔で思い返してたじゃねぇか。再会したらときめきが蘇ったか?」
頬に吐息が当たる。
「おまえだって、できればお姫様になりたかったよなぁ?」
びくっと、体が跳ねたのは、彼の声があまりに
肩をベッドに押し付けてくる手が、強くて痛い。
「でも残念。おまえは、俺の。詐欺師の恩爵の嫁なんだよ」
怖い、と思ってしまった自分がたまらなく情けなくて、涙がにじんだ。
殿下の前での私の態度が、言葉が、彼を傷つけてしまったんだ。
だって初めてこの家に来た日から、ジオはたぶん、彼の一番やさしい触り方で私に触れてくれていた。
野菜の皮むきをしたときも、お風呂で髪を洗ってくれた時も、どんなに粗野な言葉を使っても、彼の手は優しかった。
こんなことをさせているのは、私だ。
「泣けばやめてもらえると思ってるなら、甘いぜ」
「誰が、そんなこと……っ!」
ようやく声を絞り出す。
目が合うと、彼はセリフと裏腹に、ひどく傷ついたような顔で私を見下ろしていた。
間近だった夫の頭を、とりあえず思い切り自分の胸に引き寄せる。
「もがっ」とうめいた声も構わずに、とにかく、全力で抱きしめた。
「殿下が何て呼ぶつもりだったかなんて知らないっ。あの方の決めた呼び名で呼ばれるくらいなら、ジオのブー子の方がマシよ」
「窒息するわ!」
ガバッと身を起こしてきたジオを、問答無用でもう一度自分の胸に沈める。
「しなさいよ! あなたの妻の胸で窒息してしまいなさい! 私は他の誰でもない、ジオ・パトラスに嫁いだのよ。馬鹿なことをっ……言わないで」
最後まで言い切れなくて、再びあふれてきた涙に声が詰まった。
「窒息できるほどの……乳かよ」
ふみゃ、と左胸の上に乗せられた手のひらに、この男は……と拳が震える。
上にのしかかったままのジオと、その手のひらの下にある私の心臓。
早鐘のように暴れていた2つの鼓動が、少しずつ速度を落とす。
静かに長い時間をかけて、ただ、くっついたままでいるだけで、言葉にするよりずっとたくさんの気持ちが彼に伝わっていく。
そんな、気がした。
少しだけ、ジオが体を浮かす。
「この先、いつでも、あなたを……?」
たどたどしい彼の誓いの言葉を、支えるように声を合わせた。
「この先いかなる時も、あなたを信じ、共にあると誓います」
すり、とジオの額が私の首筋に甘えるようにこすりつけられる。
「その証として『ジオ』をお捧げいたします」
「我が魂の片割れよ、私だけにあなたの名を『ジオ』と呼ぶことをゆるしたまえ」
漆黒の瞳に浮かぶのは、少し不安そうで、だけど今までで一番甘い色の光。
「ゆるすよ。俺の名前は短いから。全部、おまえにやる」
「ありがとう……ジオ」
「この先いかなる時も、あなたを信じ、共にあると誓います。その証として『ヴェルラクシェ』をお捧げいたします」
ずっと彼の髪を撫でていた私の手に、ジオの指がからむ。
「我が魂の片割れよ、私だけにあなたの名を『ラクシェ』と呼ぶことをゆるしたまえ」
ラクシェ、と小さく声にした。
「ちょっと気が抜ける響きだろ。これからはもう少し肩の力を抜いて、一緒に、気楽に生きていこうぜ」
「うん……素敵。ありがとう。今日から私は、あなたのラクシェよ」
深い息が吐き出されると、ジオの体がずっしりと重くなった。
「昔のオトコの前で、モジモジしてるおまえを見てたら、年甲斐も無くカーッと来たみたいで……悪かったな」
「やきもちをやいて、お酒の力で迫ろうなんて、あなたにも可愛いところがあるのね」
「おまえ……心が狭いぞ」
ええ、窒息できないほどの小さな胸しかありませんからね。
「夫を侮辱されたのだから、王族であろうと毅然と意見すべきだったわ。ごめんなさい」
「クズとでも詐欺師とでも、好きに言わせておけばいいさ。うわっつらに恩爵様って呼ばれたところで、腹がふくれるわけでもない」
そんなのより、と言いにくそうにジオは口をひらく。
「ホントのとこ、何で王子サマと婚約破棄したんだよ」
あら、本当に可愛いわと、私は胸中だけで2度感動した。
「優秀な魔導士だと期待されたから婚約者にまつりあげられて、無能で魔導士になれないと分かったから婚約破棄されたのよ。どっちも私のいないところで勝手に決まったことなの」
ほんとかよ、という疑り深い彼に、ちょっと笑う。
「今はね、水の家のメルカミーア様と、風の家のアリシュテル様のお2人が婚約者候補よ。殿下は近いうちにどちらかをお選びになって、落ち着いたら王位継承するご予定のはずだわ」
「そこまで決まってるのに、あんなに俺に全力で噛みついてきたのか? 人妻を夫の前で堂々と口説くとは、顔に似合わず激情家だな」
「それが私も不思議で……城で何かあったのかしら」
そうじゃないと思うがな、とつぶやいたジオは「さて」と私の上で身を起こした。
「初夜の儀が終わったら、晴れて
せっかく脱いだし、しとくか? と当たり前のように言われて、顔の前で全力で手を振る。
「そ、それには心の準備が、めいっぱい必要だわ。私、そっちはまるで勉強不足なの」
今まで静かに降っていた雨が、急に強く窓を叩き、稲光が光る。
「裸の男を堂々と胸に抱き寄せる
クスクス笑って、頬に触れてくるジオは、私が逃げられないように絶妙なポイントで体重をかけてくる。
今度は全然どこも痛くないのに、心臓がバクバクして、死にそう。
「のんびりやるつもりだったが、横からかっさらわれるのは面白くない。最初はとびきり優しくしてやるから、心配すんな」
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