第3話 初夜の儀(1夜目)
「お嬢様!」
イファルド家の重厚な玄関扉を開くと、ホールで待っていてくれたばあやが、こちらに駆け寄ってきた。
「まさかこんなにお嫁入りが早いと思わず、当座のものしか用意できませんでした。準備の悪い
トランクを受け取りながら、涙ぐむばあやの肩を抱く。
「いいの、十分よ」
幼い頃から身の回りの一切を世話してくれたばあやは、家族の誰よりも身近だ。
だから今日から突然、彼女と離れて暮らさなければならないということが、実は一番心細い。
「出来の悪い私に今日までよく仕えてくれたこと、感謝しているわ。ありがとう」
「……何をおっしゃいます。お嬢様とすごした日々は婆の宝物にございます」
私がトランクを持ち上げると、ばあやはおろおろと時計を見上げた。
「せめて坊ちゃんたちのお戻りまではお待ちくださいまし。今日は旦那様も早く帰られるでしょうし……」
上の4人の兄と、温厚な父に、別れの挨拶をしたくないわけがない。
しかし母は「夕方に」荷物を取りに来いと言った。家人が仕事から戻った後に、余計なイベントを持ち込むなという意味だろう。
私が最後の魔導士試験に落第したことで、イヤミったらしい
さらに、追放同然に恩爵家に嫁入りしたことが知れ渡ったら、これからもどれだけ恥をかかせることか。
正直に言って、兄たちにあわせる顔が無い。
今の私にできるのは、ただ静かにこの家を去ることだけだと思った。
「皆にヴェルラクシェが心から感謝していたと伝えてちょうだい。お嫁に行くと言っても、同じ国に住んでいるんだもの。心配ないわ。では、行くわね」
扉に向かって歩き始めた私に、あぁ、と涙声でばあやが追いすがるから、鼻の奥がツンと痛くなった。
「またすぐに会えるわ。ね、そうでしょう?」
たぶんばあやは、母からもう二度と私がこの家に戻らないことを聞いている。
けれど聡明な彼女は、あらゆる感情を飲み込んで、いつもどおりニッコリと微笑んでくれた。
「そうですわね、お嬢様、いってらっしゃいませ」
「ええ、いってくるわ」
手入れの行き届いた庭を早足で歩きながら、重いトランクを持ち替える。
門を出る前に振り返ると、まだばあやは玄関前で見送っていてくれた。
小さな声で、聞こえないように。だけど届きますようにと「さようなら」を囁く。
これで私の嫁入り前の挨拶は終わりだった。
別れの感傷にひたる暇も無く、恩爵家に戻ると夕飯の支度だ。
本当に掃除も料理も何でも自分でやらなければいけないらしい。
「皮むきも満足にできねぇのか、あーあ、食うところが無くなるっつーの」
「……練習中よ、少し黙っていてくださらない?」
ブツブツ文句を言う恩爵に、必死でナイフを動かしながら抗議する。
「そもそもナイフの持ち方からして、なってねぇんだよ、危なっかしい。右手がこうで、左手はこう!」
「こ、こう? むしろそのほうが危ないでしょう!」
だーかーらー、と私の真後ろに椅子を引き寄せて座ると、後ろからそれぞれの手を包むように握られた。
「脇をしめろ、刃の先に指を置くな。そう、少しずつ」
ちょ、ちょ……ちょっと! いきなり近すぎるわ。
私、殿方とこんなに接近したことは、人生で一度も無いのよ!
自分の背中に彼の胸が当たっていて、時々耳に息がかかる。
ナイフを持った私の指を、彼の親指がぐっと抑えているのを見ると、どくどくと心臓の音が騒がしくなった。
「もう少し、離れてくださらないかしら」
「はぁ? 説明だけでおまえができるなら、俺だって苦労しねぇわ」
「す、少しでいいの。なんだか胸が……」
「胸がどうかしたのか?」
急に心配そうにのぞきこんできた黒い瞳を、おずおずと見上げる。
「ドキドキして……」
頬に血がのぼったのを見られないようにうつむくと、彼は私のセリフをそのまま繰り返した。
「ドキドキ……して……?」
ガッと私の額が、乱暴に彼の腕にホールドされる。
「ドキドキしてる場合か! 掃除もできん、メシも作れんくせに百年早いわこの色ボケがっ!」
「いたたた! 何ですって? 今私に『色ボケ』とおっしゃったの? 信じられないわ。離してちょうだい!」
腕は離してくれたが、バカにしたように私を見下ろしている。
「信じられなくて結構だから、早いとこ皮むきを終わらせてくれ。この調子じゃメシを食えるのが真夜中になる」
少しは良い人かと思った私が大間違いだった。
2人きりになってから、ますます口は悪いし、レディの扱いは全くなっていない。紳士さのカケラも無い男だわ。
まぁ今のところ、野菜の皮むきは私より少し……だいぶ上手いみたいだし、その後も手際よく料理ができる技術はあるようだし。そこは認めてもいいでしょう。
できあがったスープは、素朴でおいしい。お祈りもせずに食べ初めてしまうほど、彼はおなかをすかせていたらしい。
悪いことをしてしまったなと思いながら、温かいスープを飲み込むと、胃のあたりから、ポコンと別の感情が沸いた。
「代わり映えしないメシでも、独りより2人で食うほうが美味いな」
まるで心を読まれたようにそう言われて、顔に出さないようにギュッとスプーンを握りしめる。
魔導士の修練場は、
無様に失敗する姿を見られたくなくて、家族と食卓を囲む時間を犠牲にして夜間練習に励んでいた。
夜中にひとりきりで食事をするようになれば、朝は食欲が無い。
そんな生活をはじめてもうずいぶんと経つから、誰かと食卓を共にすること自体が久々だった。
「そうね」と言った声がそっけなく聞こえたのではないかと、慌てて顔色を伺ったけど、ゴクゴクスープを飲み干している彼はそれほど繊細ではなさそうで安心した。
湯浴みを済ませて部屋に戻ると、恩爵はまだ濡れた髪のまま、だらしなくソファに座っていた。
新婚初夜にすべきことを思うと、否応なしに緊張が高まる。
ソファの空いていた方に腰掛けると、彼の瞳がツイとこちらを向いた。
「初夜の儀を、はじめましょう」
「……真面目そうに見えて、積極的だな。この国の女は皆そういう気質か?」
彼の言葉よりも、腰に回された手に戸惑いながらも、誓いの言葉を紡ぐ。
「この先いかなる時も、あなたを信じ、共にあると誓います。その証として『ヴェルラクシェ』をお捧げいたします」
魔石ストーブの赤い光が、漆黒の瞳の中で踊るように揺れて、彼の口元にずっと浮かんでいた余裕の笑みが消える。
気づけば並んで座っていたはずのソファに、私は仰向けに寝転がっていた。
自分の上にいる恩爵を見上げて、男性に組み伏せられているのだという事実を認識したら、足が勝手に震えはじめる。
「さすがに今日会って、今日どうこうなろうってほどがっついてない。焦ることは無いんだぜ?」
震えに気づいた彼が、気遣わしげな優しい声を出す。
いや、ダメだ。夫婦になったけじめとして、初夜の儀を投げ出すことはできない。
「いいえ。あなたの……をください」
緊張に息を詰まらせながら告げると、水気を含んだままの黒髪が恩爵の表情を隠した。
「はじめからトバすねぇ」
かきあげた前髪から、雫が私の頬に落ちる。
その水滴が熱いと勘違いしたのは、今にも唇が触れてしまいそうなほど彼が顔を寄せてくるからだ。
このへんで、ようやく私は、お互いの認識に食い違いがあることに気づく。
たぶん、いや絶対、私のしたい初夜の儀と、彼のしようとしていることは違う。
問題は今からでも、この誤解が解けるかということだった。
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