第4話『春風』


 日曜日の夜は、静寂だ。

 駅の方へと走る車の音と、しとしとと降り続ける雨の音だけが響いている。そこに、ベチャッという汚ならしい足音と、雨をはじくビニール傘の音とを書き加えながら、私は桜の木の立ち並ぶ道を歩いていた。

 

 すみれからのメッセージを確認してすぐに、ミズキはアネモネを出た。そして家に戻り、すぐに化粧を落として服を着替え、ミズキは元の私……米山よねやま望子もちこへと戻った。メッセージを受け取ってから、十五分ほど経っただろうか。すみれは、アネモネを出てすぐ右にある、用水路にまたがる橋の上で待っているとのことだった。

 

 すみれからのメッセージを見た時、私は正直、舞い上がりそうになるほど嬉しかった。と同時に、胸が張り裂けそうなぐらい辛くなった。すみれが、苦悶の末に話し相手として私を選んでくれたこと。でも、その苦悶を与えた張本人は私自身であるということ。高揚感と罪悪感、その相反する感情がグチャグチャに混ざり合って、私の心に重くのしかかっていた。ちょうど、ミルクと混ざり合って味が分からなくなってしまったブレンドティーのように。

 

 

 「……すみれ」

 

 しばらく歩いた後、私は橋の近くまでたどり着いた。はたして、すみれはその橋の上に立っていた。街灯の下、錆びた白い欄干に肘をつきながら、彼女は首を垂らして水路を覗き込んでいる。傘は、差していなかった。

 

 「モッチー……ごめんね、急に呼んじゃって」

 

 「ううん、それは良いけど……どうしたの? 何かあったの?」

 

 ……知ってる癖に。

 私は、心の中で自分に悪態をついた。白い街灯の光が、ビニール傘越しに私を照らす。一方のすみれは、ちょうど光の当たらない位置にいるためか、肩から上にかけてひっそりと影が差していた。

 

 「……実は私、失恋しちゃってさ」

 

 グッと、胸の奥を針で突かれたような痛みが襲う。私が思わず顔をゆがめると、すみれはアハハ……と力ない笑みを溢した。

 

 「ミズキさんのこと。 ……私、やっぱりミズキさんに恋してたみたいなの。

 ……でもね、ミズキさんには他に好きな人が居て……今日、その人に告白してた。 アネモネの、いつもの席で」

 

 「そう、なんだ……」

 

 「私、それを見た時、胸がギュッてなったの。 それで気づいた……あぁ、私ミズキさんのこと好きだったんだなぁ、って。 ……変だよね、こんなの」

 

 すみれは笑っていたが、次第にその表情にほころびが生じてくる。触れれば散ってしまいそうなほどにもろく、危うい。彼女のそんな表情の前で、私はどう立ち振る舞えば良いというのだろう。私は、言葉をかけることも出来ずただ立ち尽くしていた。

 

 「それで、ね……その……ミズキさんの好きな人っていうのが、その……こないだモッチーに手紙を渡してた、黒崎君っていう子みたいなの。 今日ミズキさんが、アネモネに彼のこと呼び出してた。 どういう経緯で知り合ったのかとかは分からないけど……」

 

 「……」

 

 「……私、混乱しちゃってさ。 ミズキさんは、黒崎君のことが好きで、黒崎君は、モッチーのことが好き。 ……でも、私はミズキさんのことが、好きで……」

 

 グシャグシャと髪を掻きむしるすみれの手が、私の心までもガリガリと削り取っていく。雨が、だんだん風とともに強まってきた。斜めに刺す雨粒が、私と、すみれの身体を容赦なく叩きつける。

 

 「それでね……私、ミズキさんの幸せを取ることにした」

 

 「……ッ」

 

 比喩抜きに、心臓が止まりかけたような気がした。ほんのイタズラ心をほのめかせただけの悪魔に、神様から天罰が下される。

 

 「私は、ミズキさんに幸せになって欲しかったから。 ミズキさんが、黒崎君と一緒に居れることで幸せになれるんだったら、私は……その方が良いから」

 

 でも……と、すみれは途切れ途切れになりながら言葉を続ける。

 

 「黒崎君は、モッチーのことが好きな訳でしょ? だから、今日のミズキさんの告白も上手くいってなかった。 私ね、その時に一瞬だけ……一瞬だけ、「良かった」って、思っちゃったんだ……」

 

 それが、皮切りとなった。

 すみれの目から、ボロボロと涙が溢れだす。雨でビショビショになった顔が、更に濡れていく。どれが雨粒でどれが涙なのか、私にはもはや分からなかった。

 

 「後から咄嗟とっさにミズキさんのこと励ましたけど……私、悔しくって……ミズキさんに幸せになって欲しいのに……なのに、自分のこと考えちゃったのが許せなくって……私最低だ、って……!」

 

 「……アタシを呼んだのは」

 

 一歩、すみれの方へと歩み寄る。

 街灯の白いスポットライトが、私の頭上から外れた。すみれと同じ、夜の暗いとばりへと足を踏み入れる。その一歩は重く、冷たく、そして……苦しかった。

 

 「……私に、黒崎君からのお誘いを断って貰うため? それとも……私と黒崎君をくっ付けて、ミズキさんを自分のものにするため?」

 

 ……卑怯だな、と思う。

 すみれが自身のことを最低だと称するなら、私は何?  最低の、そのまた更に下かもしれない。

 

 ……私はただ、すみれにちょっとだけ傷ついて欲しかっただけなのに。

 

 

 「分かんないよ、そんなの……」

 

 か細い声で呟いたすみれは、そのまま、足下の水溜まりへと飛び込むかのように膝をついて崩れ落ちた。まるで、ひしゃげたタンポポの花みたいだった。雨に打たれ、花弁を散らし、ボロボロになった花。その光景は、私の心に巣食っていた醜いもやを浄化するには、充分すぎた。

 

 

 「……ごめん、すみれ。 ちょっとここで待っててくれる?」

 

 「え……?」

 

 持っていた傘を、すみれに覆い被せるようにして持たせてやる。そして、すみれが顔を上げた時にはもう、私は走り出していた。

 

 

 走って、走って、夜闇を掻き分けるようにただひたすら走って。降り注ぐ雨が服を濡らし、凍てつくような夜の寒気が肌を刺しても、それでも私は走った。交差点前の道の水溜まりを踏みつけた途端、スニーカーに水が染み込んで、冷えきっていたつま先の感覚がじんわりと奪われる。赤くなった鼻の頭にぶつかる雨粒が、締め付けるように皮膚に染み渡り、私の体温を下げる。……でも、私は走ることを止めない。それが私に課せられた罰だと言うなら、むしろ安いものだと思った。

 家に着く。ベチャベチャのまま、私は着ていた服を全部廊下に脱ぎ捨てた。そして、クローゼットからいつものワンピースと、ジャケットと、カツラと、ハンドバッグと、カンカン帽を取り出す。化粧をしている時間は無かった。私は乱雑な手つきでワンピースとジャケットを着込むと、身体を拭くこともせずにそのまま家を飛び出した。

 カンカン帽に雨が染みていく。ベッタリと肌に張り付くワンピースが、気持ち悪い。ジャケットも、水に濡れて次第に重く身体を包んでいく。……それでもなお、私は走ることを止めなかった。足先の感覚が無くなってもなお、私は走り続けた。走って走って、走りつづけた。ただひたすら、すみれが待つ場所へ。

 

 


 「…………すみれっ!」

 

 やっとの思いで、私は橋まで戻ってきた。衣服も髪もグショグショで、まるでさっきまで溺れていたかのように重たくなっている。荒い呼吸は、白い煙となって夜に溶けていく。顔を上げたすみれは、私のそんな惨めな姿を見て、目を丸くした。

 

 「え……ミズキ、さん……? でも、今の声……」

 

 「……すみれ」

 

 もう一度、すみれの名を呼ぶ。そうしてやっと、すみれは目の前にいる人物が米山望子であると認識したらしかった。

 

 「……アタシの話、聞いてくれる?」

 

 真剣な眼差しをぶつける。もう私の中で覚悟は決まっていた。すみれは、ポカンとした様子で私をまじまじと見つめていたが、やがて傘の柄をキュッと握りしめて、小さく頷いてくれた。意図せず、私の口から安堵の息が漏れた。

 

 

 ━━━━━私は、全てを話した。

 

 ミズキの正体も。今までずっとアネモネに通い続けてきたのは、ミズキに扮した私であったということも。そして、今日の出来事は全て、私が仕組んだ茶番劇であったということも。

 息苦しかった。すみれが目を見開いたり、顔をしかめたりする度に、本当に溺れてしまったのかと錯覚するほど胸が苦しくなった。でも……きっと私のこの苦しみよりも、すみれが味わった苦しみの方がずっと大きい。だからこそ、私はすみれと同じぐらい苦しむ必要があった。

 

 

 「な、んで……」

 

 やがて、すみれがそっと口を開く。その声は、雨の音に消え入ってしまいそうなほどか細く、弱々しかった。

 

 「なんで、わざわざそんなこと……」

 

 「……そんなの、決まってんじゃん」

 

 私は、赤くなった鼻を擦りながら、真面目な表情で、

 

 「…………好きだからだよ」

 

 「ッ!!」

 

 ピクン、とすみれの肩が跳ねた。今になって気づいたが、橋の上に立つすみれは、用水路沿いに続く桜並木の中心に居て、まるで花弁に包まれる雌しべのようだった。

 

 「最初は、ミズキさんのままで満足だった。 私がどんな姿であれ、すみれが私のことを見てくれて、私を想ってくれていることには変わりなかったから。 ……でも、そうじゃないって、だんだん気づき初めた。 すみれが見てるのは私じゃなくて、ミズキさんなんだって。 それに気がついてから私、ずっとモヤモヤしてた」

 

 「……」

 

 ヒュウ、と風が二人の間をすり抜ける。街灯の光を乱反射させながら、雨粒が私たちの周囲を眩しく照らしていた。

 

 「……ごめん、すみれ。 私最低だ。 すみれのこともてあそぶようなことして、それで、勝手に傷ついて、しかもすみれのことまで傷つけて……」

 

 「……」

 

 「……もう止めるから、こんなこと。 すみれが傷ついた分と同じくらい、私も傷つかなくちゃいけないから。 ……だから、もう…………」

 

 

 ━━━━━その時だった。

 

 私の身体が、柔らかな温もりに包まれる。

 雨ざらしになって、すっかり冷えきっていた私の身体に、温かな優しさが注がれる。予想だにしなかった感覚に、私は思わず目を見開いていた。

 

 「す、みれ……?」

 

 「……同じだよ。 私も」

 

 耳元で響く涙声。小さすぎて聞こえないようなその声は、しかし、さらさらと流れる水の音にも、降り止まない雨音にも負けずに、ハッキリと私の意識へ届けられた。

 

 「望子が私のこと傷つけたみたいに……私だって、知らない内に望子のこと傷つけてたんでしょ? だったら、おあいこだよ、それで……」

 

 怒りとか、悲しみとか、そういう感情を全部押し殺して、必死に絞り出した言葉のようだった。少なくとも、私にはそう聞こえていた。

 

 「望子だって、ずっとずっと苦しんでたんでしょ? だから、こんな事……。 ……ごめんね。 もっと早くに気づいてあげられたら良かったのに……ごめん、ごめんね……」

 

 「……止めてよ。 そんな風に謝られたら、アタシ……自分が惨めで惨めで仕方なくなっちゃうじゃんか……!」

 

 「惨めなんかじゃないよ! そんな事、ないよ……!」

 

 ……誰よりも辛いはずなのに。

 

 ……一番傷ついてるはずなのに。

 

 すみれは、私の犯した罪を庇おうとしてくれた。自分の求めていた"幸せ"をないがしろにして、それでも私を包み込もうとしてくれた。

 

 ……ずるいよ、すみれ。

 

 すみれがいつもそんなだから、私は……そんな事言う資格なんて無いって分かってても、それでも……すみれのこと大好きだって、そう、思っちゃうんだよ……?

 

 

 「……ねぇ、望子」

 

 そっと、すみれが私を離れる。そして、涙でグシャグシャになった顔を此方に向けて、微笑んだ。

 

 「……今度は、望子のままアネモネに来てよ。 私がミズキさんと一緒に過ごしたのと同じ時間だけ、アネモネで話そうよ。 そうすればきっと……やり直せるから」

 

 「……でも、それじゃアタシだけが報われちゃう。 皆傷ついてる中でアタシだけが幸せになるなんて、そんなの……」

 

 すみれは、静かに首を左右に振った。

 

 「違うよ。 私がそうして欲しいの。 ミズキさんの為でも、望子の為でもなくて……私自身が、そうしたいから」

 

 にっこりと笑うすみれ。ほろり、と私の目からも涙が溢れ落ちる。冬の冷たい雨によって冷えきっていた私の皮膚には、涙のほのかな熱が心地よく感じられた。

 

 「……ありがとう、すみれ」

 

 「……うん」

 

 再び、身体が引き寄せられる。私はよろめきながらも、今度はちゃんと自分から、彼女の背中へと手を回した。ひゅう、と生温い風が二人の側を通り過ぎていく。かと思えば、風は私の被っていた白いカンカン帽をひょいとすくい上げて、そのまま持ち去ってしまった。それでも、二人は離れない。グショグショになったカンカン帽は、不規則な軌道を描きながら、橋の下へゆっくりと落下していった。

 

 

 ***

 

 

 「━━━━だから、ごめんなさい。 アタシは、君とは付き合えない」

 

 お昼休みの中庭で、私は深々と頭を下げた。周りに居た生徒らの視線が刺さる。それに耐えきれなかったのか、黒崎君は慌てた様子で両手を振った。

 

 「いや、気にしないで下さい! その……いきなり手紙とか贈って困惑させたのは俺の方ッスから」

 

 頬を掻きながら、そう答える黒崎君。頭を下げた状態から、チラ、とその顔を見上げてみる。彼は、困り顔を浮かべてはいるものの、どうも、そこまでショックを受けている様子では無さそうだった。

 

 「俺のことは大丈夫ッスから! ……俺には、その……ミズキさんが居る訳だし……フヘヘッ」

 

 それじゃ! と、黒崎君はあっという間に駆け出して、その場を去ってしまった。顔を上げると、彼が同級生とおぼしき男二人と合流して、何やら話しているのが見えた。お前、あの先輩だったらイケそうっつってたじゃねーかよ! まんまとフラれてやんのー! ……いや、いいんだって別に。 それよりも俺、今脈ありの美人ゲットできそうな感じなんだよ! ……とまぁ、そんな感じの会話が、微かに聞こえてくる。私は、ふぅ……と小さく息をついてから、ゆっくりと首をもたげて空を見上げた。

 

 晴れ渡った空の上を、ヒラヒラと薄ピンクの何かが飛んでいる。桜の花びらだ。風に導かれるように舞う花びらは、そのまま中庭のフェンスの向こうに並ぶ桜の木の方へと流されていった。春は、もうすぐそこまで来ているようだ。

 

 

 「おーい! モッチー!」

 

 と、外の桜並木から視線を外そうとしたタイミングで、声と共に駆け寄る一人の少女の影が視界に映った。ホッ……と、胸の内が春一番に吹かれたかのように温かくなる。瞼の裏に焼き付いた桜の色が、近づいてくる彼女の周りを彩ってゆく。

 私は、無意識に笑みを溢しながら歩き出した。そんな私の背中を、赤みがかった二枚の花びらが、ひらひらと風に煽られながら飛び去っていった。

 


 END

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春、ミズキ 彁面ライターUFO @ufo-wings

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