第3話『破片』


 

 日曜日の昼下がり。うっすらと黒ずんだ雲の隙間から微かに漏れる光が、いつものようにミズキの座る席を照らしていた。

 カップに指をかけ、そっと香りを楽しむ。ミズキが愛する香りそのままだった。ふと顔を上げると、カウンターの方から、こっそりとミズキの様子を窺うすみれの姿が見えた。ミズキがニコッと微笑みかけると、すみれは目を丸くして、それから顔を真っ赤にして奥に引っ込んでしまった。

 

 (すみれ……)

 

 ミズキは、窓の外へと視線を移しながらため息をついた。桜は、まだ咲いていない。枝先だけをプクプクと太らせた並木の景色は、肌寒い冬空の空気を彷彿とさせ、自然とミズキの身体までをも冷やしていく。ジャケットの襟を立てたミズキの表情は、カンカン帽のつばとも重なってほとんど周りから隠されていた。

 

 

 ━━━━カランカラン

 

 その時だった。静寂を破るように入り口のベルが鳴り、一人の客が入ってきた。ひゅう、と外の冷たい風が吹き込んでくる。扉の向こうから現れたのは、アネモネでは普段見かけないような、幼い顔立ちの男子高校生だった。

 

 「いらっしゃいませ! 一名様ですか?」

 

 すみれが対応する。どうやら、新規のお客様らしい。随分と若者らしい装いに身を包んだ彼は、キョロキョロと辺りを見回しながら、

 

 「えっと、その……ここで待ち合わせしてて」

 

 「かしこまりました。 失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

 

 あっ、ハイ! と、青年はぎこちない様子ではにかむ。ミズキは紅茶を口に含みながら、その会話にそっと耳を澄ませた。

 

 「黒崎くろさきソウタです。 えっと、ここに"ミズキさん"って人が来てる筈なんスけど……」

 

 「えっ……」

 

 刹那、すみれの表情が固まった。ちょうど、ミズキがカチャンと音を立てながらお皿の上にカップを戻した時だった。ウェイトレスの業務も忘れて茫然とするすみれが、次に言葉を発するよりも前に、ミズキはそっと立ち上がる。

 

 「黒崎君、ですね? こんにちは……私がミズキです」

 

 「えっ? あ、ええと、どうも……」

 

 ミズキと目が合った瞬間、黒崎君はポカンと口を開けて固まった。そして、目をパチパチさせながら、歩みを進めて良いのか分からないという様子のまま、おずおずとミズキの席へ近づいた。ミズキは、自分の座っていた方の向かい側の椅子をそっと引いて、ここに座るようにと促した。その間、すみれは首だけをこちらに向けて、じっとその場に佇んだままだった。

 席に座り、ミズキと向かい合った彼は、視線をあちこちに飛ばしたり前髪を指で弄ったりと、目に見えて落ち着きを失くしていた。店内の照明が、彼の頭でてらてらと輝くワックスを照らす。イマドキの男子風にまとめたファッションといった所なのだろうが、グレーを基調としたブカブカのコートに華美な服飾、加えてヴィンテージ物のジーンズとまでくると、渋谷で見かけるようなチャラチャラした若者感を拭えない。ハッキリ言って、ミズキと対面して座るに値するような男ではないと、ミズキ自身、胸中でそんなことを考えていた。

 

 「あ、あのぉ……話って何スか? てか、ミズキさんって本当に米山よねやま先輩と知り合……」

 

 「しっ……落ち着いて下さい。 折角のブレンドティーが美味しくなくなっちゃう」

 

 人差し指を立てて、黒崎君の言葉を遮る。たったそれだけで咄嗟とっさに口をつぐんだ彼は、女性慣れしていないのか、はたまたミズキを前にして想像以上に緊張しているのか……。少なくとも、彼もすみれと同様、カンカン帽と化粧の奥に潜むミズキの本当の姿には気づいていない様子だった。

 

 「望子もちこさんの紹介でもう知っていると思うけれど……私、貴方には以前一度お会いしているんですよ」

 

 はぁ……と、黒崎君は首をしきりに動かしながら、必死にそのことを思い出そうとする。けれど、いくら記憶を辿ったところで、彼がミズキのことを思い出せないことは知っていた。

……以前会ったことがあるなど、嘘だからだ。

 

 「あの時から、何度も声をかけようか迷っては、すれ違って……。 恥ずかしながら私、望子さんに貴方のことを聞くまで、貴方の名前すら知らなかったんです」

 

 「そんな……き、恐縮ッス……」

 

 「けど……貴方が望子さんに手紙を送ったと聞いた時は、ちょっとショックでした。 まるで、育てていたさくらんぼの実が、ある日突然誰かに盗まれてしまったみたいに……ね」

 

 ピクン、と黒崎君がかすかに身体を揺する。それが机を伝い、カップの受け皿を伝い、半分残った紅茶の表面に波を打たせた。そっと沸き立つ甘い茶葉の香りが、今だけは嫌な香りと化して、ミズキの胸の奥で不快にまとわりついていた。

 

 「……率直に言いますね」

 

 ふぅ……と重く息を吐いてから、真っ直ぐに黒崎君と目を合わせる。ただし、ミズキはその視線の端で、お冷のグラスを持って近づいてくるすみれの姿を捉えることを忘れなかった。ゴクリと唾を呑み込んで肩を強張らせる黒崎君の姿など、ミズキには、本当は見えていなかった。

 

 

 「……黒崎君。 私と、お付き合いして頂けませんか?」

 


 ━━━━ガシャーン!! 


 

 アネモネの店内に、鋭い音が響き渡る。すみれが、お盆ごとお冷のグラスを落としてしまったのだ。優雅にお茶を楽しんでいた客たちの視線が、一斉にすみれの方へと向けられる。店主も、カウンターからひょいと顔を出して、心配そうにすみれの背中を見つめていた。「申し訳ございません!」と声を張りながら、慌てた様子でグラスの破片を拾うすみれ。濡れた床で、散乱した破片と氷がキラキラと光っている。間もなく、二本のほうき塵取ちりとりを抱えた先輩ウェイトレスさんがすみれの背後から現れた。……これで、すみれが指を切ったりする心配はなさそうだ。

 ミズキと黒崎君も、他の客たちと同じように、無言ですみれの方へと視線を向けていた。しばらくして、黒崎君がゆっくりと身体を元の向きに直すと、ミズキも同じタイミングで顔を上げて彼と目を合わせた。すみれの怪我を心配していたということなどおくびにも出さぬようにしながら、ミズキは悪魔的な微笑を浮かべた。

 

 「あ、あの……さっき、何て……」

 

 「ですから……私とお付き合いして頂けませんか、って言ったんです。 私、貴方のこと、異性として気になってるの」

 

 魚みたいに口を動かしつつ、黒崎君は目を見張っていた。カタカタと音が聞こえてきそうなくらい、彼の身体は小刻みに震えている。私は、机の端にある角砂糖瓶の隣のかごから、ミルクの入った小さいプラスチック容器を手に取り、そっと紅茶へと流し込んだ。その間、床を掃くほうきの音は一本分のみしか響いていなかった。

 

 「突然のことで、ビックリしましたよね。 ……無理もないわ。 だって、こうでもしないと貴方が望子さんのものになってしまうんですもの」

 

 くるくると、カップの縁に沿ってスプーンを滑らせる。煙のように舞い拡がったミルクが、次第に紅茶の赤と溶け合っていく様を、黒崎君はなぜかじっと見つめていた。胸を焼く甘ったるい匂いは、ミルクと混ざり合ってようやく消えた。

 

 「で、でも俺……米山先輩に……」

 

 モゴモゴと、聞き取りづらい声で呟く黒崎君。あの日、グレー色の封筒に入っていた手紙を読んだ際に感じたたくましさは、一体何だったのだろう。ため息が出そうになるのを何とかして堪えながら、ミズキは代わりに、妖艶さをはらんだ細い吐息を漏らした。

 

 「……どうしても、望子さんが良いの?」

 

 「いや、その……まだどうしてもっていう程でもないんスけど……その……」

 

 「……私、本気なんですよ? 貴方のことをいつも想って、胸を痛めて……それで、ようやく貴方とこうしてお話ができて……それなのに……」

 

 ミズキは、出来る限り切ない感じを演出した。声を細め、身体を震わせ、クリーム色に変わったカップへと視線を落とすその様子は、今までのミズキの中で一番、"ミズキ"で上塗られていた。

 どんよりとした黒い雲から零れる小粒の雨が、ポツポツと窓を打つ。薄暗く変わった外の並木道と同じように、アネモネの照明が、ミズキのカンカン帽から下に影を落としていた。

 

 

 「━━━━お、俺はッ!」

 

 ガタッ! と、黒崎君が突然立ち上がった。さっきすみれがグラスを落とした時と同じように、客の視線が一斉に黒崎君へと向けられる。床に散らばったグラスの片付けを終え、カウンターに戻ろうとしていたウェイトレス二人も、この時ばかりは足を止め、チラ、とこちらを振り返っていた。

 

 「俺は……よ、米山先輩に告白したいなって、思うんで……。 いや、ミズキさんが嫌いって訳じゃないんスけど、ただ……手紙とか一応、書いたし……。 だから、その……ちょっと、か、考えさせて下さい!

 ……ごめんなさい!」

 

 最後の方は、ほとんどまくし立てるかのような早口で聞き取れなかった。が、ミズキが黒崎君に言葉をかけることは叶わず、彼は逃げるように席を離れ、雨が降っているにも拘わらずそのままアネモネを飛び出していってしまった。カランカラン……というベルの音が空虚に響く。残されたミズキ達は皆、茫然としたまま無言でドアの方を見つめていた。

 

 これって……フラれたのだろうか?

 嵐が過ぎ去った後のような心持ちの中で、考える。まるで、白昼夢の牢獄から解き放たれたかのような感覚が、どっとミズキの身体に押し寄せてきた。それはあまりにも現実離れしていて、さっきまでの事はすべて夢だったのではないかと錯覚してしまうほどだった。気づけば、雨雲の主格とも言うべき大きな塊は分散して、綿菓子みたいな雲と混ざり合い歪な模様を描き出していた。

 


 「…………あのっ!」

 

 その時だった。虚ろな瞳で外を眺めていたミズキに、突然声がかけられた。ひどく懐かしい声色だった。ミズキが重い頭をもたげるとそこには、胸の前でギュッとお盆を抱えて立つすみれの姿があった。彼女の浮かべる笑顔はどことなく不自然で、何となくミズキに似ている気がした。

 

 「すみれさん……?」

 

 「……私、ミズキさんの味方ですっ! ミズキさんの恋が叶うよう応援してます! その、今回はちょっと上手くいかなかったかもしれないですけど……でも、きっと彼も、いつか必ずミズキさんに振り向いてくれる筈ですから! だってミズキさん、こんなに素敵な人なんですもん!」

 

 ミズキは、目を見開いた。ガシャーン! という、さっきのグラスが割れた音が、再び頭の中で響いた。すみれの瞳は、アネモネの照明を受けてキラリと小さく光っている。その白い粒のような光は、ミズキの真っ白なワンピースよりも、真っ白なカンカン帽よりも、白く目映くミズキの瞳に映った。

 

 「諦めちゃ駄目です……! 私、ミズキさんのこと応援してますから! だから……絶対、幸せになって下さいね……!」

 

 かすれたその声は、しかしミズキの胸の奥底にしっかりと突き刺さった。危うく、すみれよりも先に目から涙が溢れてしまいそうになる。沸き上がる嗚咽おえつを飲み込もうとする間に、すみれは何も言わず、ペコリと大きく礼だけをして去っていってしまった。トタトタと慌ただしく駆ける彼女の背中は、気のせいか、しおれた花のように寂しげだった。

 

 ……私は、ただ茫然としていた。

 これが、果たして私の望んだ結果だったのだろうか。私は何故、これまでミズキを演じ続けてきたんだろうか。そのどれもが、分からなくなる。カンカン帽から溢れたもやが、私の心を侵食してグシャグシャに食い潰す。鈍く、重く、じんわりと痛い……そんな感覚だった。

 ミルクの溶け込んだ紅茶は、もうすっかり冷めていた。外は依然として暗く、降り注ぐ雨が咲きかけの桜を情け容赦なく殴り付けている。きっと外はこの紅茶よりももっと冷たくて、寒いんだろうな、と思った。

 

 ━━━━ブーン、ブーン

 

 不意に、スマホが鞄の中で振動する音が耳に入った。普段なら無視するであろうその音に引き寄せられるかのように、鞄に手を伸ばし、スマホを取り出して起動する。そして、画面に表示されたメッセージウィンドウを見て、私の心臓はドキン、と強く跳ねた。

 

 『ごめん。 もうすぐバイト終わるんだけど・・・今から、ちょっとだけ会えない?』

 

 それは、すみれからのメッセージだった。

 

 

 つづく

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