第2話『暗霧』


 「喫茶店でバイト始めたの! モッチーも今度お茶しに来てね!」

 

 三学期が始まってすぐの頃、すみれにそう声を掛けられた。それが、全ての始まりだった。

 ハッキリ言って、最初はイタズラのつもりだった。どうせ行くなら、変装して別人のふりでもして、すみれを驚かせてやろうと。そんな無邪気な思いつきから、雑貨店でカツラと化粧品を、古着屋で自分が滅多に買わないであろう女性らしいワンピースと帽子を買ったのだ。ちょっと高くて、買うかどうかギリギリまで迷いつつ結局買ってしまったあのカンカン帽を、まさかこんなに長く使うことになるなんて、その時は全然思ってもみなかった。

 

 純真無垢で、人を疑うことを知らないすみれは、ミズキの正体に気づかなかった。それどころか、「お名前伺っても良いですか……?」なんて聞いてくる始末。すぐにバレるだろうとたかを括っていた私は、慌てて咄嗟とっさに『ミズキ』と名乗った。そうして、『ミズキ』という女性が生まれたのだ。

 ミズキは、毎週日曜日にアネモネへ行く。部活やバイトの兼ね合いで、日曜日の午後ぐらいしか時間が取れないからというのがその理由だったのだが。私にとっても、すみれにとっても、日曜日の午後というその時間は、いつしか特別なものになっていた。本当は、二、三回やったらネタバラシをするつもりだった。けれど、名前を聞かれてからというもの、完全にタイミングを見失ってしまった私は、それからずっと秘密を打ち明けられずにいた。それどころか、ミズキに思いを馳せ、ミズキに好かれようと一生懸命アルバイトに励むすみれの姿を間近で見ていると、秘密を打ち明けることは余計にはばかられた。繰り返し会う中で、ミズキはすみれにとって必要な存在となってしまったのだ。

 だから、私はミズキを演じ続ける。すみれの思いを踏みにじるような真似は、絶対に出来ない。たとえ、自分の何を犠牲にしてでも、私はこの秘密を秘密のまま守り抜くと決めた。

 

 (何を、犠牲に……)

 

 しかし、何故だろう。いつからか私は、ミズキでいることに対して、もやのような、不確かな重苦しい感覚を抱くようになっていた。私は、知らず知らずの内に自分の何かを犠牲にしていたのだろうか。すみれを喜ばせることが私の目的だった筈なのに、どうして私は……。

 けれど、いくら考えたってもやもやのまま。だから私は、溢れるもやにカンカン帽で蓋をして、今日もアネモネへと向かう。すみれのれたブレンドティーの香りに包まれている時間だけは唯一、そうした呪縛から解放される心地がするのだ。

 

 ***

 

 あの日。事件が起こるきっかけとなったあの日の朝、私とすみれはいつものように肩を並べて学校へと向かっていた。

 

 「はあぁ~……ミズキさんと会えた日の次の朝って、なんでこんなに清々しいんだろ~」

 

 「はいはい。 元気で良いねぇ、すみれは」

 

 なんて、いつも通りの会話を交わす。校門前に立ち並ぶ桜並木は、ビーズくらいの大きさの蕾をつけて頭上から私たちを見守っていた。校舎の前に立つ先生たちに挨拶をして、そのまま下駄箱へと向かう。そうして、上靴を取り出そうとした私は、その上に何か小さい厚紙のようなものが置かれていることに気がついた。手に取ってみると、それは厚紙ではなく、グレー色の封筒だった。

 

 「わっ、何それ!? 手紙?」

 

 封筒に気づいたすみれが、私の肩にちょん、と顎を乗せる。

 

 「みたいだね。 宛名は書いてないっぽいけど……」

 

 「何だろう……? もしかして、果たし状とか?」

 

 「えぇ……アタシってそんなヤンキーっぽい?」

 

 まぁ確かに短髪だし色気も無いケドさ……などと文句を垂れながら、教室へ向かう。その間ずっと、すみれは私の手にある封筒に興味をそそられっぱなしだった。手紙の中身が気になるのだろう……そんな当たり前のこと分かってる。分かってる筈なのに、ずっとすみれに視線を注がれている私の右手は、変に力が込もってじんわりと汗をにじませていた。

 

 ……………………

 

 …………

 

 ……

 

 『米山よねやま望子もちこ 様

 

 初めまして。 突然こんなお手紙を送ってしまって、ごめんなさい。

 僕の名前は、黒崎くろさき ソウタです。 一年生です。 米山先輩とは、去年の体育祭で一度顔を合わせたことがあります。 徒競走の召集場所が分からず困っていた僕に、先輩が優しく手を差しのべてくれたんです。 先輩は覚えてないかもしれませんけど、僕はよく覚えてます。 あの日もずっと、僕は色んな競技で大活躍する先輩の姿を目で追ってましたし、先輩がバレー部のキャプテンを務めていると知ってからは、何度か試合も観に行きました。 僕は、いつの間にか先輩に惹かれてました。

 

 率直に言って、僕は先輩のことが好きです。 でも、いきなり付き合うなんてことは無理だと分かっています。 なので、もしよければ、僕とお友達になってもらえませんか?

 

 メールアドレスを載せてありますので、ここに連絡いただければ嬉しいです。 それでは

 

 黒崎ソウタ kurosou@××××-×××』

 

 ……

 

 …………

 

 ……………………

 

 「すごぉい……これ、正真正銘ラブレターじゃん!!」

 

 「ちょっ、馬鹿! 声がデカい!」

 

 朝休みの教室に、すみれの声が響いた。クラスメイトの視線が一斉にこちらに注がれるのを感じて、顔がじわりと赤らんでしまう。私は無意識のうちに、机に置いた鞄を壁にするように姿勢を低くした。

 

 「何なのこれ……アタシみたいなのに惚れるとか、いや、有り得ないでしょ、そんなの……」

 

 「モッチー、この黒崎君って子のこと知ってるの? 一度会ったことあるって書いてあるけど」

 

 「いやぁ……覚えてないなぁ。 ……てか、この子も文頭に「初めまして」って書いてるし」

 

 筆圧の濃い、しっかりとした筆跡を見返しながら答える。字は力強いのに、文面はとても繊細で……純粋な乙女ならばきっと、この字を見ただけでたくましさとかを感じて胸を高鳴らせたりするのだろう。けれど、私はそんなことを考えたりはしなかった。モヤモヤと頭を渦巻く重たい感覚にさいなまれ、ため息混じりのうめき声を上げてしまう。

 

 「どーしたの? 折角ラブレター貰ったってのに、なんか全然嬉しそうじゃないねぇ?」

 

 「いやだって、見ず知らずの男子からの手紙だしさ。 それに、アタシこういうのよく分かんないっていうか……。

 ……すみれはどう? これ、連絡するべきだと思う?」

 

 チラ、とすみれの様子を窺う。ほとんど、助けを乞うかのような調子だった。しかし、苦い顔の私とは対称的に、彼女は瞳をキラキラと輝かせていた。

 

 「そんなの、連絡した方が良いに決まってるじゃん! モッチー、今までそういう色恋沙汰には全然興味ナシって感じだったからさ。 一回くらい、こういう経験しとくべきだと思うよ? 大丈夫、きっとモッチーにお似合いだって!」

 

 

 ズキ……と、鈍い痛みが走ったような感じがした。

 

 無垢な笑顔を向けるすみれが、私の中で、セピア色に沈んでいく。何がそうさせるのか分からないままに、私の意識は暗い世界へと突き落とされた。カンカン帽にしまっておいた筈のもやが、不意に周囲を覆って視界をかすませる。握りしめていた手紙の文字が、私の親指の圧力に負けて微かににじんでいた。

 

 私は、何が嫌なのだろう。


 すみれが私のことを思って言ってくれたその言葉の、何に傷ついたというのだろう。

 分からない……分からないのに、ただ心だけが枯らされていく。雨でドロドロになった土に足を踏み入れた時のような不快感が、私を脅かす。けれど、純粋なすみれは、私がそんな場所に佇んでいるということになど、露ほども気がついていなかった。

 

 

 「……そうだね」

 

 ……だからだろうか。

 

 私はこの刹那、泥だらけになった思考で恐ろしいことを考えついていた。すっかりもやに浸食された視界の中では、すみれのキョトンとした顔も、手紙の文字も、全てが白黒だった。私は口端くちはから渇いた笑みを溢し、そっと手紙を元の封筒に戻した。

 

 「今度、話してみても良いかもしんないね。 ひょっとしたら、そのまま彼氏持ちに、なんて展開も有り得るし。 ……すみれは、私にそうなって欲しいんでしょ?」

 

 「もちろん! モッチーに素敵な彼氏が出来たら、私だって嬉しいし!」

 

 「そっか……すみれがそう言うなら、そうしてみようかな」

 

 私は、グレーの封筒をグッと鞄に突っ込んだ。丁度、授業開始五分前のチャイムが鳴って、あちこちで喋っていたクラスメイトたちが自分の席へと戻っていった。すみれも、他の子たちに合わせて自分の席に帰っていく。その後ろ姿は、まるで色づいた一面の花畑ではしゃぐ子供のように、嬉しそうに見えた。

 

 鞄から手帳を取り出す。パラパラとページを捲っていき、今週の予定を確認した。……やっぱり、決行するのなら日曜日になりそうだ。

 私は、手帳を鞄に戻すのと同時に、さっきしまった手紙をもう一度取り出した。いつの間にか端がよれてしまったその封筒を、再び開く。ふっと、親指の先からにじんだインクの匂いがした。その指先を押し付けるようにして、私は、ポケットから出したスマホのメモ帳に、黒崎ソウタのメールアドレスを打ち込んでいくのだった。


つづく

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