春、ミズキ

彁面ライターUFO

第1話『秘密』


 喫茶アネモネは、駅から高校まで続く一本道の、そのひとつ隣の道沿いに佇む小さな喫茶店。シックな木造の外観によく合うオシャレな白塗りのドアから足を踏み入れると、そこは現実から隔たれた別世界となる。そこから、カウンターを抜けて右へ進んだ先にある、四角い窓から射す光がちょうど当たるその席が、ミズキの定位置だった。

 真っ白なカンカン帽から覗くサラサラした長い髪を揺らめかせ、ミズキは今日もその席に座る。初老のアネモネ店主は、ミズキと目が合うと即座にニコッと柔和な笑みを返した。ミズキは、軽く会釈してからいつもの席へと腰を据える。すると、彼女が鞄を向かい側の椅子に置いたタイミングを見計らって、紫色の可愛らしい制服を身に纏ったウェイトレス━━━━藤木ふじき すみれがやって来た。コトン、と机に置かれたお冷のグラスは、外の光を受けてユラユラと白く輝いていた。

 

 「いらっしゃいませ! えと……ご注文はもうお決まりですか?」

 

 「ええ。 いつものセット……お願いできる?」

 

 顔を少し上げて、帽子のツバ越しにすみれと目を合わせる。そうすると、彼女はパッと瞳を輝かせて、

 

 「かしこまりました! 少々お待ち下さいませ!」

 

 注文のメモすら取らずに、すみれはトタトタと軽快に靴を鳴らしてカウンターへ戻っていった。彼女の背中を見つめながら、ミズキはふぅ、と小さく息をつく。窓から見える大きな桜の木は、ポツポツとその蕾を大きく膨らませながら、穏やかな春の到来を今か今かと待ちわびているようだった。

 

 「お待たせしました! こちら、オリジナルブレンドティーのセットになります!」

 

 五分ほど待った後、すみれがティーセットを持ってやって来た。カップとお皿は、擦れるような音を立てながらミズキの目の前へと運ばれる。その瞬間、紅茶の湯気がフワッと浮き立ち、ミズキの鼻腔へとその甘やかな香りを漂わせた。すぅ……と優美に呼吸をしてから、ミズキは一言、

 

 「今日の紅茶……いつもより香りが甘くて素敵ね。 茶葉を変えたの?」

 

 刹那、すみれの肩がピクンと跳ねた。彼女は、丸いお盆を両手で抱え込むようにしてギュッと握りながら、

 

 「はい! じ、実はその……今日のブレンドティーは、私がブレンドしたんです!」

 

 「すみれさんが……?」

 

 「はい! ミズキさん、前にさくらんぼが好きだって言ってましたよね? ですから、いつものブレンドティーにドライチェリーを少し足して、香りづけをしてみたんです! 普段のものよりもフルーティーさが増して、美味しいと思います!」

 

 すみれの瞳は、まるでバレンタインデーの無垢な少女のようだった。ちょっと早口で、お転婆で、それでも真っ直ぐで穢れのない彼女の澄んだ瞳を見つめる度に、ミズキの胸は満たされた。しかし、そのような素振りを見せることはせず、ミズキはもう一度カップに視線を落とすと、ゆっくりと両手でそれを持ち上げ、一口。赤く光る紅茶の海の中で、小さな茶葉の破片がくるくると踊っていた。

 

 「……もしかして、お気に召しませんでしたか?」

 

 眉の尻を下げて、心配そうに見つめるすみれ。ミズキは、ゆっくりとカップを元のお皿に戻すと、また小さくふぅ、と息を吐いた。その甘い香りと混じり合った吐息を感じてか、すみれは目をパチパチさせて固まっていた。

 

 「……とっても美味しい。 いつものブレンドより、こっちの方が私は好きかもしれないわ。 ありがとう、すみれさん」

 

 窓からの光が、ミズキの微笑んだ顔を淡く照らす。すみれは、朝日を浴びた芽のように生き生きとした笑みを浮かべると、そのままペコリと大きく礼だけをして去っていった。トタトタと慌ただしく駆ける彼女の両耳は、気のせいか、少し赤みを帯びているような気がした。

 

 カランカラン、とベルが鳴って、若いカップルが店へと入ってくる。そのベルの揺らめく音に合わせて、ミズキは再びカップを手に取った。愛しそうにカップの縁を見つめるその姿に、カップルや、他の客たちの視線が注がれる。白いカンカン帽と、オフホワイトのワンピース。それらが、春色のスポットライトを浴びてキラキラと輝いていた。また一口、甘い香りのするブレンドティーを口に含んでから、ミズキはふぅ、と小さく息をついた。

 

 ***

 

 「━━━━はあぁ~……。 ミズキさん、素敵だよぉ~……素敵すぎるよぉぉ~……」

 

 「すみれ、朝からずーっとそればっかじゃん。 そんな嬉しかったの?」

 

 「だってだって! ミズキさん、私が説明するよりも前に紅茶のブレンドが変わってるって気づいてくれたんだよ!? しかも、『美味しい』って言って貰えたし……! 嬉しかったなぁ~……」

 

 お昼休み。多くの生徒が購買へと出向き、いつもより静かになっている教室の中で、すみれの感嘆の声が響いた。彼女は、朝用意したというお弁当のおかずを頬張りながら、いつまでも恍惚とした表情を浮かべている。そんな緩みきった顔のすみれに苦笑を返しながら、私はコンビニで買ってきたハムサンドイッチにかぶりついていた。

 

 「ふーん。 じゃあ、こないだ言ってた作戦、成功だったんだ。 良かったね」

 

 「うん! しかもしかもっ、『ありがとう、すみれさん』なんて言われちゃったりもしてさ! もう昨日は興奮しすぎて眠れなかったもん!」

 

 「あははっ! 恋は盲目って感じだねー」

 

 「えぇっ!? い、いや、別に恋とかそんなんじゃ……第一、私もミズキさんも女だし!」

 

 惚けた顔でニヤケていたかと思えば、今度は顔を赤くしてわたわたと慌てる。コロコロと万華鏡みたいに変わる彼女の表情を見ていると、なんだかホッコリした気分になるのだ。フルーツジュースのパックにストローを刺しながら、私はからかうような口調で、

 

 「いやいや、今の時代女性同士の恋愛なんて普通じゃん? そのミズキさんとかいう人も、そんだけすみれに優しくしてくれてるんなら、意外に脈アリなのかもよ?」

 

 「うぅ~……そんな事言われても……」

 

 ムムム……と、今度は腕を組んで真剣に悩み出す。心と身体の動きが直結しているのかってぐらい純真な仕草に、可愛い……なんて言葉を危うく漏らしそうになってしまう。

 昔から、そうだ。中学一年生の時に知り合ったあの時から、すみれは素直で明るくて……ずっと変わらないままだった。

 

 「あ、そうそう! 私今日もシフト入ってるんだけど、実はね、今日たまたまミズキさんも午後からお休みらしくって、今日もお店に来てくれるんだって!」

 

 「へぇーそうなんだ。 いつもは日曜日のお昼しか来てくれないんだったよね?」

 

 「そうなの! 週三シフトのうち二回もミズキさんに会えるなんて……今週の私、めっちゃツイてるっ……!」

 

 白ご飯にお箸をつけながら、すみれは本当に幸せそうに笑っていた。

 

 「……あ! そういえばモッチー、今日部活休みって言ってたよね? もし暇だったらさ、アネモネおいでよ! サービスするよ?」

 

 「残念。 部活は無いけど、アタシ今日は別の用事あるから。 悪いけどまた今度ね」

 

 素っ気なくそう言うと、すみれは子供みたいに頬をぷくーっと膨らませて、

 

 「えぇー!? モッチーそう言って結局二、三回ぐらいしかアネモネ来てくれてないじゃんかー! 私もうバイト初めて四ヶ月も経つのに……。 モッチーだって、ミズキさんがどんな人なのか気になるでしょ?」

 

 「そんなに言うんなら、写真でも撮って送ってくれれば良いじゃんか。 ミズキさん単体で撮るのが無理なら、こう、ツーショットとかで」

 

 「え、いやぁ……それはちょっと、緊張しちゃって頼みづらいというか……。 いつかお願いしたいな~、って気持ちは、確かにまぁ無くはないんだけど……」

 

 サンドイッチを食べ終えた私は、包装とナプキンとをコンビニの袋に詰めてギュッと縛った。気づけば、購買から帰ってきたのであろう男子たちが、教室の数ヶ所で群がっている。私は、時計と自分のお腹とを交互に見つめてから、結局、鞄に入っていたシリアルバーに伸ばしかけていた手を引っ込めた。

 

 「まぁ、とりあえず頑張りな。 すみれが色々頑張れば、ミズキさんともっと仲良くなれるだろうし。 そうなりゃ、写真でも何でも気軽に応じてくれるよ」

 

 「そう……だね。 うん! 私、もっとミズキさんと仲良くなりたい! 仲良くなって、連絡先とか交換して、プライベートとかでも会えるようになって、それから……」

 

 「あははっ、完全に恋だぁね」

 

 「あぅ……もう、からかわないでってば~!」

 

 何の変哲もない、他愛ない女子高生同士の会話。明るい声で笑い合う二人の間を、春一番になり損ねた肌寒い風が吹き抜けていく。私は、握りつぶしたコンビニの袋を制服のポケットに突っ込んで、いつものように笑っていた。飲みかけのフルーツジュースのパックから、どこか懐かしさを感じるような甘い匂いが微かに漂っていた。

 

 ***

 

 「━━━━ただいまー、っと」

 

 電気を点けながら、誰も居ない部屋に向かって挨拶をする。靴を脱いで、鞄を置いて、制服を脱ぎ捨てて……それから、私は机の上の置時計に目をやった。

 

 「……今から準備すれば、向こうに着くのはざっと五時すぎってとこか」

 

 Yシャツとブレザーを、順にハンガーにかけていく。それから、スカートをスルリと床に落として、私は下着姿になった。汗はそんなにかいてない筈だけど、一応、ボディシートで軽く首とか脇とかは拭いておこう。そう思って、サラサラした手触りのシートを一枚手に取ってから、クローゼットを開いた。ふぅ、と軽く息を吐きながら手に取るのは、いつものワンピースと、ハンドバッグと、それから、長髪のカツラ。クシャッ、と手の中で丸めたボディシートをゴミ箱へと投げ入れてから、私は、慣れた手つきでそれらを身に纏っていった。

 

 「……」

 

 着替えが終わると、次は化粧に移る。見よう見まねで始めた化粧も、今となってはもう板についてきた。ただこうして、鏡越しに自分の顔が変わっていくのを見るのだけは、どうしても慣れない。

 ……けど、きっとそれで良いのだろう。これから私は、私でない人物へと変化する。そう思う方が、スッと自分の中で気持ちを切り替えられるような気がするからだ。ふと、壁に掛けていたブレザーがバサッと床へ落ちる音がした。丁度化粧を終えた私は、しかし、ブレザーを掛け直しに行くことはせず、

 

 「おっと、帽子帽子」 

 

 クローゼットに手を伸ばし、白いカンカン帽を手に取った。それを被った瞬間、私は、米山よねやま 望子もちこでなくなる。

 鏡の前で優美に佇むのは、白くて可憐な『ミズキ』の姿。ミズキは、くるりと鏡の前で回ってワンピースを揺らめかせてから、小さく頷いた。

 

 「……そろそろ時間ね」

 

 チラリ、と置時計に目をやる。時刻は、四時五十分。アネモネへ着く頃には、ちょうど五時ぐらいになる計算だ。

 ミズキは、ハンドバッグを手にゆっくりと家を出た。外は、僅かに暗くなりかけており、白く淡い光を放つ半月が、アネモネがある方角の空にぼんやりと浮かんでいた。ふぅ、と小さく息をつくミズキ。家を出てすぐの川辺で、ノースポールの花が風に揺られながらミズキを見送っていた。

 


つづく

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