第30話

 USライフに移って一か月ほど経った頃だった。

 午後十時過ぎ、翌日の企業プレゼン用の資料の確認をしているとスマホが鳴った。なんと、久しぶりの荒川だ。

「めずらしいな。どうしたい」

「夜分にすまない。報告しておきたいことがあって電話した」

 頭の中心部がきゅっとしまる感じがした。面倒くさい理屈を聞いても腹を立てないよう、脳みそが身構えたのだ。思い出したぞ、この感覚。

「おれはもう東西の人間じゃない。守秘義務はだいじょうぶなのか」

「会社とは関係ないところでのことだからその心配はない。ただ、成り行き次第では今後君にも影響があるかもしれない」

「おれの客からの苦情か」

「青木案件だ」

「切っていいか」

「待て。君に不利な話ではない。むしろ興味深いはずだ」

「なら聞いてやるよ。早く話せ」

 荒川の話はこうだった。

 原田の退職から少し後、荒川のところに弟の配偶者から連絡があった。広美ちゃんだ。新しく義姉になったエリカさんとぜひ親しく交流を持ちたいから連絡先を教えて欲しいというのだ。

「個人情報保護の観点から教えられないと答えた。彼女はかなりしつこく食い下がってきたが、結局あきらめた」

 ――まだ終わっていなかった――

「意外だね。あの広美ちゃんが」

「彼女を知っているのか」

「騒動の最中に、自宅の前で待ち伏せされたことがある。弟に払ってくれと頼まれた」

「君もだったのか。じつはぼくもだ。大吾さんに言って止めさせてもらった」

「人は見かけによらないね」

「同感だ。その後、広美さんは夫をともなって小笠原弁護士のもとを訪れたそうだ。そして義姉の連絡先を教えるよう強く求めた」

「そうか。あの弁護士、ショーちゃんの幼馴染だったら弟のダイちゃんとも面識があったはずだな。おそらくユミちゃんも」

 荒川はうなずいた。最後の会合で遅刻した小笠原弁護士が現れたとき、ユミちゃんは驚いた顔をしていた。何故あんたが、ってことだったのか。

「小笠原弁護士は最初は当然、断った。しかし二人はとにかくエリカ氏本人の意向を聞いてみてくれ、と詰め寄ったそうだ。それで……」

「教えちゃったの? あの弁護士」

「エリカ氏の同意を得たうえであれば問題はない」

「あの家族だぞ。いくらか分け前を寄越せって言い出すかもしれない」

「まさにそれが起こったようだ」

 ――オー・マイ・ガッ。だろうな、ここは――

「それで、また荒れてるのか」

「荒れてはいない」

「これから荒れそうってか」

「いや、おそらく荒れることはない」

「太平洋を挟んだ一億円戦争の始まりじゃないのか。日本側に勝ち目はないと思うが」

 荒川はこう言った。

「エリカ氏は連絡先を教えることを許可しただけでなく、保険金の一部を広美さんに渡すことに同意したそうだ。自分も子育ての大変さはとてもよくわかっている、ましてや子が難病なら親としての心配と苦労は計り知れないだろう、これからは親戚なのだから遠く離れていても助けあっていこう。そう言ったそうだ。その後、子の世話の合間にいろいろと手続きを進めて、先日、まとまった金額が広美さんに届いた。今日、そのことを小笠原弁護士がぼくに伝えてきた」

 原田はしばし言葉を失った。

「意外な展開にもほどがあるぞ」

「同感だ。今回は勉強になった」

 ――世界はとてつもなく広くて、さまざまな人がいる――

「それにしても……」

「その通り。一番したたかなのは広美さんだったということだ。あの信憑性のない遺書攻勢も彼女の指示だったらしい。何かよい方法を思いつくまで、とにかく東西生命に対して意思表示を続けろと。手続きをできるだけ遅らせるために」

 か弱そうに見えて一番強かった。彼女だけが母親だったのだ。

「そういやおまえ、法務部はどうよ」

「近々、保険金部に戻ることになった」

「何をやらかした」

「仕事に問題はない。支払サービス課長が倒れたんだ。新しい課長が慣れるまでの期間、実務経験の長いぼくが呼び戻された」

 不健康な巨体が目に浮かぶ。倒れたと言われて何の違和感もない。

「課長はだいじょうぶなのか」

「すでに退院済みで、回復状況を見て復職時期を検討するそうだ」

「あの体型だからな。痩せなきゃ第一線には戻してもらえないぞ」

 荒川が意外そうな声を出した。

「君は少し変わったようだな。以前なら、課長が倒れたと聞いたらもっと不謹慎な発言をしていただろう。今のせりふは課長の健康と仕事上のポジションを気遣う内容だ」

 そういえば先日、長田先輩にも同じようなことを言われた。

 ――よく嘘を告白したな。以前なら言わなかったんじゃねえの。でもすっきりしたろ。おまえはそっちのやりかたでもいけるよ。きっとそっちのほうがいいよ――

「ふん。人は成長するからな」

「ぼくの指摘を素直に認めた」

「うるせえ」

 そこで思い出した。ちょうどいいや。

「話は変わるが、今度飲みに行かないか」

「唐突だな。別にかまわないが」

「青木ユミちゃんに呼び出されたホテルのバー。最近あそこ気に入っているんだ」

「何故ぼくを誘う」

「そこのバーテンと約束したんだよ。いずれおまえを連れて行くって」

「ふむ。話がよく見えないが」

「そのときに説明してやる。また連絡する。時期はそうだな、来週くらいでどうだ」

「わかった」

 通話終了。

 あんなやつと再会を約束することになるとは、十分前には予想もしていなかった。青木家のケースもそうだが、人生はまったく意外なことの連続だ。

 改めて翌日の資料を点検する。問題なし。これでおそらく明日、USライフでの大口第一号が決まる。よし、シャワーを浴びて寝よう。

 服を脱ぎ、熱い湯を浴びながら思った。

 待てよ、さっきの話だと……。

 ――広美ちゃんは金を持っているってことだよな――

 一応、頭の隅に置いておこう。間違えちゃいけないのは、持っているのは広美ちゃんであって、ダイちゃんではないということだ。

 ――荒川との飲み会には笹口佳奈子も誘ってやるか――

 会社は辞めたがプールでは今でもときどき顔を合わせるのだ。そのたびに、迷惑だと言っているのに仕事の愚痴や相談ごとを聞かせてくる。初めての転職で張り切っているが、当然ながら苦労もしているようだ。とはいえ話を聞く限り、いま目の前にあるのは彼女なら乗り越えられる程度のハードルに思える。

 ――ちょっと息抜きするのもいい頃だろう――

 転職は三回目だが、顧客ではなく、前の会社の人間とのつながりがこれだけ残るのは初めてだ。これも少し余裕が出てきたせいか。人脈になれば大歓迎だが、しがらみはお断りだ。

 ――こいつらは、どっちだ――

 相手次第。

 いや、おれ次第かな。

 

 (了)


・この物語はフィクションです。


 【参考図書】

「Q&A渉外戸籍と国際私法」南敏文編著 日本加除出版

「法律学全集 戸籍法〔第三版〕」谷口知平 有斐閣

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