第29話

 休憩時間にベンチで呼吸を整えていると、背後から声をかけられた。

「原田さん」

 振り返ると笹口佳奈子がいた。青系の鮮やかな水着に、ゴーグルを額に上げている。 

「おまえ、ここの会員なのか」

「そうです」

 にっこりと笑う。

「青山だろう」

「祖父の家が浅草なんです。ここは会員ならどこの施設も使えるでしょう。だからよく来るんです」

 思わず全身に目をやる。曲線に乏しい子どものような体型。

「あ、いま馬鹿にしたでしょう。幼児体型って」

「そんなことは……」

 ふと倉田遥香の体を思った。

「いいんです。本当のことだから。あちらのお姉さんとかうらやましいです」

 プールの反対側を指さす。出るところは出ている女がいる。周囲のおやじたちの視線を集めているが……まったく迷惑そうではない。本人がそういうことなら問題はない。

「いつから来てんの」

「二年くらい前です。原田さん、ぜんぜん気づきませんでしたね」

「コンタクトを外すからな。知り合いがいるなんて思わなかったし」

「おかげでずっと観察できました」

 やっぱりこいつ油断がならない。くそ、無様な泳ぎも見られていたのか。

「で、何か用か」

「友だちの小説、完成したんです。明日、会社に持っていくので読んでくださいね」

 取材は先日受けていた。ご馳走しますからその場でと言われるのかと思っていたら、腹が立つほどカジュアルなメールで身長・体重・腹回りと好きな食べ物やら映画やらを訊いてきた。最小限の文字数で答えてやった。一応、お礼のメールはきた。

「感想もぜひ聞かせてくださいって」

「感想を強要されると人はその本が嫌いになるんだ。長いの、それ」

「どうなんでしょう。原稿用紙で五十枚くらいって言ってました」

「短編か。面白ければあっという間だが、つまらなかったら拷問だな」

「あの子のはだいじょうぶですよ。絶対面白いから」

「おまえの感想は」

「読んでません」

「それで人に勧めるのか」

「だって、あの子は原田さんに読んでほしいんですよ」

「だとしてもだな……」

「そうだ。原田さん、私、転職するんです」

「な。本当か」

 さらりとそんなことを。

「外資系の生保に、総合職で採用されることが決まったんです」

 それはステップアップだろう。ふむ。こいつならたいていの組織は泳いでいけるか。

「営業か」

「事務です。でもいずれはセールスをやりたいって伝えています。私、原田さんを見てやってみたいって思ったんですよ」

「おれのせいにするなよ」

「感謝してるんです。すっごく迷ったんですけど、荒川さんにも相談して決めたんです」

 ――職場の上司に転職の相談かよ――

「その先にもっといい人生が待っていると思うなら行くのが義務だ、って言われたろ」

 笹口佳奈子は目を丸くした。

「すごーい。さすがバディですね」

「一緒にすんな」

 そこで休憩時間が終わった。

「じゃ、おれは帰る」

「お疲れさまでした。私はもうひと泳ぎしてきます」

 笹口佳奈子は手を振り、ゴーグルをつけると、身軽な動作で水中に戻って行った。想像以上に滑らかなフォーム。速い。水中では少年のようだ。

 ――荒川はさびしがるかな――

 優秀なほうから二人もいなくなるんだから。


 小説は面白くなかった。かなりの拷問だ。冒頭で三人ほど人が死ぬが、その後は高校生の身辺雑記のような記述が続き、唐突に現れた探偵があっという間に解決してしまう。警察はまったく無能に書かれている。

 モデルを頼まれたくらいだから主役かと思ったが、お話の主役は女子大学生だ。では探偵かというと、イケてるオジサンという設定ではあるが四十代後半の既婚者で、どうも自分とは思えない。冒頭で殺される三人のうちの一人が三十そこそこのサラリーマンだ。こいつか。

「やっぱり。すぐわかったでしょう」

 何だ、読んでいるじゃないか。

「おれはこんなふうに見えてるのか」

「仕事ができて、周囲のことなんかお構いなしに自分のやりかたを貫いているじゃないですか。そのせいで殺されちゃうんですけど」

 人物像は地の文でまるっきりその通りに説明されていて、その次のページで死体となって発見される。

「感情移入する暇もないな」

「そこがハードボイルドっぽいじゃないですか」

「やっぱり感想は言わない」

「どうしてですか。彼女、楽しみにしてるのに」

「聞いたら傷つくからだ」

「ひどーい」

 そんな調子で三週間ほどを過ごし、笹口佳奈子は笑顔で東西生命を去って行った。


 原田が退職を申し出ると、課長は意外なことに慰留してきた。

「青木家のケースへの対応で、常務と部長が君のことを高く評価している。これまで顧客折衝は支社や営業現場に任せてきたが、うちの部にも難度の高い折衝に対応できる要員が必要だと気づいたとのことだ。もうしばらくいてもらえないか」

「お断りします」

 一か月後の退職を決めた。不本意な慰留をし、しかも一瞬で断られたのだから、課長ははらわたが煮えくり返っているだろう。いい気味だ。

 さて、荒川先生が何を言ってくるかと待ち構えていたら、何とその日に荒川の異動内示が出た。部内に衝撃が走った。とくに若手連中の動揺は相当なもので、午後には若手の代表らしき二人が、決死の面持ちで課長を会議室に呼び出していた。

 本人は至って平然としている。そうこなくちゃ。

「どこだって」

「法務部だ。江川さんに引っ張られた」

「これからおまえに担当される部署は気の毒だなあ」

「ぼくは支払いに関する訴訟や苦情を担当すると聞いている。主な担当部署は保険金部だ」

「おまえが苦情を。東西生命も思い切ったな」

「まったくだ」

 ――え?

「冗談だ」

 ひゃあ。荒川直樹が冗談を言ったぞ。

「今のひと言でますます心配になってきた」

「それには及ばない。君は自分の転職に集中すべきだ」

「言われなくてもそうするよ」

 荒川の異動のインパクトが大きかったせいで原田の退職はすっかりかすんでしまった。望ましい。送別会とか最終日の挨拶とかは無駄だと思っているし、苦手だ。はっきり言えば嫌いだ。かといって波風を立てて去ることもない。最後まで平均的に儀式をこなした。最終日はこれぞ定番という挨拶をし、東西生命での仕事を終えた。

 若手が何人か原田のところにやってきて、社交辞令より少し熱い送別の辞を述べた。その中にちょっと涙目の男がいて、そいつが合田だった。原田さんはすごいっすね、やばいっすよを繰り返すので、おまえはまず語彙を鍛えろと忠告してやった。合田はびっくりした顔をして、はい、がんばります、とうれしそうに答えた。

 荒川は自席で端末を叩いていた。原田が少ない私物をカバンに詰め、そんじゃお先に、と最後の挨拶をすると、手を止めて立ち上がった。

「活躍を祈る」

 そう言って右手を差し出すから、

「東西の客をごっそり奪ってやるさ」

 握手くらいはしてやった。


 長田先輩を食事に誘った。転職を決めた後、青木家の騒動があり、長田が長期の海外出張に出ていたので、まだきちんとお礼を言っていなかった。

 渋谷の雑居ビルの七階にある小さなイタリア料理店は、値段は安く料理はうまい。長田の馴染みの店だ。夏の夜、店内は若い女性たちの嬌声で満ちていた。感謝の言葉を述べ、いいってことよと返されたら、あとはただの先輩と後輩の飲み会になった。

「ふうん。赤の他人の未亡人にねえ。世の中、いろんなやつがいるなあ」

「家族はたまりませんよ。面倒な人たちでしたけど哀れな気もします」

 人気メニューだというゴルゴンゾーラのパングラタンを頬ばりながら、長田が言う。

「そいつ、生きている間に会ってみたかったなあ」

「変人ですよ。部下として使うのはむずかしいでしょう」

「いまうちのシステム開発を委託しているベンダーの担当者が、引きこもり仙人みたいな外見なんだけど、天才なんだよ。あんな感じなのかなあ」

 長田は機嫌がいい。ワインと牡蠣のオーブン焼きを追加する。

「あ、そうだ。弟の婚約者ってのはどんな女性だって?」

「広美ちゃんですか。外見は清楚な美少女タイプですね。ダメダメ弟くんにはもったいないくらい。どうして二人が結婚することになったのかは謎です」

「これから金がかかるんだろう」

「そう言ってました。長田さん、心配してるんですか」

 長田は新しいワインをちびりとなめて、

「心配っていうか、しっくりこないんだよな。何となく中盤で倒されて終わりの雑魚キャラじゃないような」

「長田さんは昔っからカワイイ系ですもんね。ロリというか」

「自分にはカワイくないものしかないからな。女性にはカワイさを求めたい」

「それ、職場で出してませんか」

「気をつけてるよ。セクハラ、パワハラ禁止。職場でカワイさを求めるの禁止」

 その後もしばらく、くだらなくも楽しい会話が続いた。

「USライフは九月からだっけ」

「そうです。一週間後」

 転職先の話題になったところで原田は座り直した。今日はこれを言いに来たのだ。

「長田さん、じつは話しておかないといけないことがあります。お詫びです」

「何だよ。改まって」

「長田さんに外資系の人事を紹介してほしいと頼んだとき、ぼくの保険金部への異動は会社の意向で無理やりのことだと言いましたが、あれは嘘です。ぼくがコンプラ違反を起こしたせいで飛ばされたというのが本当のところなんです。ほかでの面接がうまくいっていなくて、伝手がほしくて焦っていたんです。すみませんでした」

 原田は頭を下げた。長田はちょっと真顔になってワインのグラスを置いた。

「やっぱり。そんなことだと思った」

 原田は顔を上げた。

「えっ」

「会ったのは久しぶりだったけどさ、いつからのつきあいで、おれを誰だと思ってるんだよ。視線とか声の調子でだいたいわかるよ。心配すんな。そんなの承知のうえだ」

「どうして……」

「おまえが軽薄な振りをしてるけど本当は真面目で繊細なやつだってことは、おれはむかしっからお見通しだぞ。むしろ、何故みんながおまえのことをチャラいとか軽いとか言うのか、おれにはわからなかった。他人のことは理解できないっていうのは一面で真理だが、人の本質は意外と見抜かれているっていうのも、もう一面の真理だ。わかる面とわからない面がいくつも多層的に重なっているのが人間とか人間関係ってもんだ。おれはおまえの面をいくつも知っていて、知らない面もあるかもしれないけど、トータルで信用している。あのときはな、何か言ってないことがありそうだけど、まあたぶん許容範囲のもんだろう、そう思ったから紹介したんだ」

「……」

「その代わり結果を出せよ。採用はあっちの責任だから、うまくいかなかったら知らん顔するけどさ、いい人材だってことになったら、思いっきり恩着せがましく商売してやるんだから」

 長田は頼んだぞ、と言って豪快に笑った。

 ――やっぱりまだこの人には敵わない――

 原田はほっとした。うまく乗せられた気もするが、乗ってしまえという気にもなった。

 絶対に成果を出してやる。そう決意を新たにした。

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