第28話
久しぶりの帰省の日は、あいにくの雨だった。六月の末、気温はそれほど高くないが、湿度が高く、空気が重い。駅からの道で吹き出した汗をタオルハンカチで何度も拭いた。
隅田川沿いから町田に行くだけだから何時間もかかるわけではない。通勤で電車を間違えればついてしまう程度の距離だ。駅から二十分ほど歩いた古い住宅街の一角に、築四十余年の実家がある。申しわけ程度の狭い庭には、母親が植えた季節の花が咲いている。トマトの鉢植えはどこに置いたのか、庭からは見えなかった。
父親は自宅に戻っていた。母親が言った通り、切ったわけではないので回復も早いのだろう、もうふつうに歩いている。ざっと三年半振りの対面だった。
「ただいま」
「――おう、帰ったか」
ぎこちない近況報告と、母親のボランティアにまつわる噂話で夕食までの時間を埋めた。メニューのハンバーグは息子の好みに合わせたつもりか。たしかに懐かしい味ではある。
「体調はどうなの」
「問題ない。歳相応だ」
「手術はどうだった」
「どうということはない。お母さんは大げさに言ったんだろうが、もともと心配するようなことじゃないんだ」
「そうか。じゃあ――よかった」
父親は息子のグラスにビールを注ぐ。
「仕事はどうだ」
「まあ、ふつう」
「手を抜かずにやれよ。丁寧に。長い目でみればそれが一番だ」
「久しぶりだな、それ」
教師時代からの口癖だった。原田は思い切って言ってみた。
「――また転職するかもしれない」
父親は一瞬の沈黙の後、
「そうか。決めたのなら頑張れ」
「どこへだって聞かないのかよ」
「聞いたってどうせ行くんだろう」父親はそう言ってグラスを干した。「もう親がそんなことを訊く歳でもない。どこ行こうと頑張ればいい。ただし手を抜くな。絶対に」
母親は黙って聞いていた。少し微笑んでいたかもしれない。
翌週、九月一日付の組織改正が発表された。社内イントラの掲示板に貼りだされた通知を見て、原田は目を疑った。コンサルティング営業推進部が廃止されるという。
――何だと――
理由は販売チャネル戦略の見直し。今後、直接営業は営業職員――従来のおばちゃん部隊――に回帰し、新しく代理店とネット販売に経営資源を投入していくという。大卒男性の高能率のセールス部隊は、欧米では広く普及している営業スタイルだが、日本への導入は時期尚早と確認できた。現在の部のメンバーは他部署に配置換えとなる。通知にはそうとも書いてあった。
少しばかり早かっただけで撤退はシナリオ通りという言い方だが、そんなのは表向きだ。実際の理由は人の減少と成績不振に違いない。営業組織の業績は毎日、社内イントラで見ることができる。コンサル営推の業績はこのところ不調を極めていた。
――エースを放り出したせいだ――
などと言うつもりはない。そこまでうぬぼれてはいない。自分がいても同じことになったのではないか。営業部隊なのだから人が減れば売り上げも下がる。売り上げが下がれば給料が減り、人が辞めていく。コンサル営推は負のスパイラルに吞み込まれたのだ。
原田の後任としてセールスの筆頭になった内田精二は自派閥を優遇する運営を推進しようとして若手の不興を買い、ほどなく総スカンに近い状態になったらしい。
魅力の消えた職場は力のあるやつから抜けていく。内田は焦ったのだろう。派閥の手下に無茶をさせた。原田がくらったレベルの処分が頻発したという未確認情報がある。原田のときのように人事がリークしないのは、件数が多すぎて洒落にならないからだという噂も聞いた。そんな組織は上から見ればリスクでしかない。畳んでしまえとなるのは当然だ。
ざまあみろという気分ではない。自分は逃げ切ったという安堵もないし、三年間は無駄だったのかという徒労感もない。しいて言えば、
――時間が経ってお話がひとつ終わった――
くらいか。そんなふうに感じると言うことは、やはり潮時なのだろう。
内田も辞めるだろうなと思っていたら、案の定、次の日に発表された人事通知で自己都合退職となっていた。一方、コンサル営推を作った営業企画部の津田次長は、法人営業部の担当部長に昇進するという。彼は荒波をうまく泳ぎ切ったらしい。
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