第50話 バレットの悪い蟲



「おい、ジーヴス! 何処に居る。誰かいないか」


 マクレガー家の広大な敷地。その庭でバレットは一人きりになってしまった。明るい火元から逃げるように暗い場所、暗い場所を選んで移動しているうちに、木立の多い人工の林のような場所に迷い込む。


「おい、バレット。お前何で、こんな所にいるんだ?」


 木立の影からカトリーナが現れた。月明かりに照らされた、赤髪が美しく輝く。薄暗い闇の中でも彼女の魅力は、浮かび上がって見える。

「これはこれは。こんな所でどうも。マクレガー家で火事が起きまして、逃げ出して気が付いたらここにいました。貴方はどうして此処へ?」

「王宮への帰り道だ。マクレガー家が騒がしいから、様子を見に来た」

 そうか、火事だったのかと赤髪の美女は呟いた。風向きが変わり煤けた空気から、彼女の良い香りを感じるバレット。他の女貴族のように香水で誤魔化さない、成熟した女の匂い立つような雰囲気。


 ゾワリ


 彼が持つ、性質の悪い蟲が蠢き始める。スッと身体をカトリーナに寄せ、肩に手を置いた。

「……何の真似だ?」

「貴方は美しい。まるで月の化身のようだ」

「私は既婚者だ。夫は王族だぞ」

「こんな素晴らしい夜に、無粋な話を。これも貴方の魅力が過ぎる事が罪なのですよ」


 歯が浮き上がるような世辞おべんちゃらを口にしながら、彼女を後ろから抱きしめた。流れるように手慣れた動き。これで大抵の女は、恐怖で動けなくなってしまう。今頃、母屋では消火活動に忙殺されており、こんな所に足を延ばす邪魔者など居る訳もない。

 コイツはツキが巡って来たようだ。こんなに小さくてか細い女など、あっという間に組み敷いて……


 ズシン!


 この後の行為の予習に勤しむ男の、左足甲部分にカトリーナの踵がメリ込んだ。余りの激痛にバレットは思わず頭を下げる。すると狙いすましたように、月の光に照らされた美しい赤髪の後頭部が、彼の顎にぶち当たった。その衝撃でバレットの腕から力が抜け、彼女はスルリと身体を抜け出す。


「グッフ。な、何をする……」

「何をするは、こちらのセリフだ。私に触るな」

「うるさい! 大人しく俺のモノになれ」

 フラつく足取りで再度、彼女に近づく。もう遠慮はしない。二〜三発お見舞いして、反抗する心をへし折ってやろう。握り締めた右の拳を振り上げた。


 ガシッ


 バレットの右腕が誰かに取り押さえられた。邪魔者か。左手裏拳を見当つけた場所に叩き込む。しかし裏拳は敢え無く空振りし、半回転した身体に捻った右手を押し付けられる。キッチリとアームロックの形に極められた。

「グガガッ! は、放せ!」

「僕のお嫁さんに、何をする」


 いつも和かな笑顔を浮かべているクリスが、能面のように無表情な顔で公爵を押さえ付けた。右腕への力の入れ具合で彼が、本気で怒っている事が分かる。恐らく少しでも抵抗すれば、このまま右腕をへし折られるのだろう。バレットは舌打ちして、脅し文句を吐いた。

「お前、誰だ? 俺がブリテン大王国の、バレット公爵と知っての狼藉か」

 これがブリテンなら、この狼藉者はその場で打首である。しかし公爵にとっての不幸は、ここがアルバである事であった。

「僕はアルバ王族のクリス。君は僕の妻に乱暴を働いたね」


「乱暴されたのは、俺の方だがな」

 口元をへの字に曲げたバレットは、苦々しく呟いた。残念ながら、その発言に反応する人間は此処には居ない。哀れな公爵は痛む左足を引き摺りながら、マクレガー家の母屋に連行された。



 ボヤ騒ぎのあった母屋は消火活動が功を奏し、ほぼ火元を消し止める事が終わっている。まだ煙臭い現場ではマクレガー家の家人と、バレットの従者たちが互いの働きを讃え合い、エールで乾杯をしている所だった。

「あら公爵様、どうされましたの?」

 甲斐甲斐しくエールを注いで回っていたダイアナが、暗闇から現れた三人組に目を留めた。顎を盛大に腫らしたバレットが、後ろ手を固められてクリスとカトリーナに連行されていた。


「コイツが襲い掛かって来たから、自分の身を守った。どうやら私は月の化身で大人しく、彼のモノにならなければならなかったらしい」

「この女は狂っているんだ。この俺に暴行を加えて、それを誤魔化す為に訳の分からない事をほざいているんだ!」

 公爵は更に言葉を続けようとするが、右腕の拘束が強められ歯を喰い縛らなければならなくなった。

 そこにヒョコヒョコとイワンが現れ、ダイアナに耳打ちをする。今までの控えめで清楚な笑顔が消え、彼女本来の勝気な表情が浮かび上がった。


 豹変した彼女を見て、ブリテン大王国の人間は息を呑んだ。その中でバレットのみが大声を上げ反抗する。

「いいからお前ら! 俺の後ろにいる馬鹿野郎をぶちのめせ!」

「あら、貴方の後ろの馬鹿野郎とは、アルバ王族のクリス様の事ですの?」

 ダイアナの言葉に身動きが出来なくなる従者たち。王族と分かって危害を加えれば、国際問題だ。誰かが生贄羊となって罪をなすり付けられ、良くて百叩き悪ければ斬首だろう。二の足を踏もうモノである。


「早くしろ! 国に帰ったら、どうなるか分かっているんだろうな!」


 公爵の会心の決め台詞が決まった。悲しい事に従者たちは、このまま何もせず帰国すれば、どんな目に遭わされるか容易に想像できるのである。現在三人欠けているとはいえ、十七人の成人男性が暴れ始めれば、鎮圧にかなりの労力がかかるだろう。

 バレットは右腕の拘束さえ解ければ、どうにでもなると踏んでいた。最悪、従者たちを見捨てて自分だけ逃げ出せれば良い。

 確かエイディーンには、ブリテン大王国の出先機関があった筈だ。そこまで逃げ込めば、立場の逆転も可能だろう。


 マクレガー家の家人とバレットの従者たちが、二手に分かれる一触即発の緊迫した場面。両集団のにらみ合いの間隙に、ヒョコヒョコとローブの魔術師が足を踏み入れた。



「あの…… 物騒な事は止めましょう。暴力では何も解決しませんよ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る