第38話 魔術師の過去



 ガリガリに痩せ細った少年は、荒れ果てた原野に倒れていた。着ている衣服は元の色が何色かも分からない程、薄汚れておりボロボロになっている。浅く息をする彼からは、動く気配すら見えない。


 少年の身体の上に、馬の影が掛かる。馬蹄の音も聞こえている筈だが、彼はピクリとも動かない。

「オヒョ! こんな所に小僧の行き倒れが居るぞい」

 馬上から降り立った猿のような小男が、少年に駆け寄る。

「若様! 不用意に不審な者に近づく癖は、お止め下さい。不用心ですぞ」

 二メートルはありそうな身長と、天然パーマの赤い髪。ソバカスが残る細長い顔の青年が、静止の声をかける。しかし小男の動きは止まらない。うつ伏せに倒れた少年を、仰向けにすると、腰に付けた水筒に手をかけた。


 ピクリとも動かなかった少年の手に、叩き割って切先が鋭くなった石塊が握られていた。その石塊は素晴らしい速度で、小男の首筋に吸い込まれて行く。


 ガツッ!


 後、数ミリで小男の首にぶち当たる筈だった石塊は、彼が握っていた水筒によって進路を阻まれた。土手っ腹に大穴を開けられた水筒から、バシャバシャと水が溢れてゆく。これがなければ小男の首筋から、大量の血液が同じように吹き出していた事だろう。

「グレアム様!」

「ヒョヒョヒョ。スコットよ、大事ない。死んだ風な見た目と違って、活きの良い小僧じゃて」

 若き日のアルバ国王は、ヘラヘラ笑いながら片手を振った。しかし少年の手から石塊を弾き飛ばし、片足で彼の首を踏みつけていた。


「小僧! どこの手の者だ」

「……」

 スコット青年は、少年の首筋を片手で摘み上げた。どんよりとした瞳の彼は無表情で、呆然と赤毛の青年を見つめている。

「何か薬でも盛られているようじゃな。さっきのが最初で最後の力じゃろう。もう動く気力もあるまいて。城に連れ帰るぞ」

「こんな物騒な小僧は、ここで始末した方が宜しいんじゃないですか?」

「いや何、こんな小僧でも背後の黒幕を脅かす程度には、使い道があるじゃろ。所でスコット。今日の儂の遠乗りを知っている、貴族や官僚はどの位いる?」

 悪い笑顔を浮かべたグレアムを見て、青年は肩を竦める。


「それで今回の視察は、しつこい程に極秘だと言っていたのですね。情報の入り口が狭いですから、城に戻って調べれば出口は、すぐ見つかる筈ですよ」

「これで競争相手が一人減れば、国の運営も少しは楽になるだろうて」

 グッタリとした少年は、スコットの馬に乗せられエイディーンに向かって運ばれて行った。



「……その暗殺者が貴方だったと言う訳ですの?」

「そうです。私は、暗殺集団が運営する孤児院で育てられました」



 孤児院では個人の名前すらなく、記号で呼ばれる生活を送っていた。肉親も知らず物心ついた時から、少年は暗殺者として育て上げられる。この特殊集団の中で年端のいかない少年は、諜報や暗殺仕事で頭角を現し始めた。

 対象者の思考を常人では出来ないほど早く、先読みし先手で行動を重ねる。今から考えれば魔術師としての資質を、知らずに生かしていたのかも知れない。


 そんな彼は、大仕事を命じられた。それが時期国王レースに勝ち残っている、グレアム王子の暗殺である。しかしグレアムは用心深く、決して一人で行動しない。腕利きの護衛をいつも従え、国策に関する新提案を次々と挙げていた。

 彼の唯一の弱点と言えそうな事案は、度を超えた女好きである。が、女性暗殺者を何人送っても、褥で二人きりになる事はなかった。彼の神懸った嗅覚は、暗殺者を褥に招く事が無かったからである。


 そして弱点とは言えないが、王子は好奇心が強い事が知られていた。国王レースで後塵を拝していた王族から、依頼を受けた暗殺集団は、そこを狙う事にしたのである。



「依頼を受けてから、念入りに暗殺業務の練習を行いました。ナイフなどを身に付けていると、どうしても殺気が漏れてしまうようでしたので、石塊を砕いて刃のような形に加工した物を用意しました」

「……」



 全ての用意が整ってから、少年は水以外を口にすることを禁じられた。行き倒れを偽装する為だが、体型や血色が健康そうでは警戒されるだろう。本当に何度か気を失うほどの飢餓状態に置かれた。

 実は彼と同じ訓練を受けた子供が、何人かいて幾つか別ルートに配置されていたらしい。そして少年が視察中である、グレアムを引き当てたのであった。


 朦朧とした状態を演出するために、嗅がされた麻薬で身動きすらできない少年。抱え起こされた瞬間に、渾身の一撃を加えた所で失神した。通常の人間なら避けようの無い攻撃。相手がグレアムでさえなければ、成功していたに違いない。

 ただし少年の命も、そこで尽きる。完全に相打ち狙いの作戦だった。


 次に気が付くと、そこは簡素ではあるが清潔なベットの上だった。どうやら麻薬の支配力が消え、猛烈な渇きによって目覚めたようだ。しかしベッドの上で少年は手足を拘束されていた。

「ひょひょひょ。目覚めたかいな」


 気が付くと猿に似た小男が、自分を覗き込んでいた。周りには医療担当の魔術師の若い女性、それから赤毛の大男が立っている。恐らく今回の作業の標的であろう小男が、少年の手の枷を外し上体を起こした。

 水差しを手に、冷たい水を飲ませてくれた。しかし乾ききった口内で、水の流れは肺の方へ流れたようである。力ない咳をして、少年は水を吐き出した。


 慌てたような大人たちを、冷めた目で見つめる少年。素手で人を殺す技術も練習していたが、小男と大男に隙が全く見られない。不審な動きをした所で、呆気なく制圧されてしまうだろう。

 大人しく座っていると小男が再度、水差しを使い始めた。今度は上手く飲み込むことが出来た。少年にとって高価な、ほとんど口にした事の無い砂糖でも入っているのだろうか?


 うっすらと甘い、夢のような飲み物である。


 暫くの間ガリガリに痩せ細った少年は瞼を閉じ、その甘さが口の中から消えるまで身動き一つしなかった。


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