第28話 日本語を話せないカニ



 山根氏の自宅を訪ねてから一ヶ月後。同僚はトロ箱一杯の冷凍ズワイガニを担いで、農業試験場に現れた。

「香利! これを食べて」

「凄い量だな。一体どうした?」

「山根のジーサンが元気になったのよ! アンタのお陰で」


 彼女は半泣きしているガチムチマッチョを無視して、カニの数を数え始めた。これなら、この部屋の職員全員に行き渡るな、と呟いている。この部屋の丸眼鏡を掛けた上長は、無感動な香利の肩をガクガクと揺らし始めた彼に声を掛けた。

「ウチの子が何かしたのかな?」


「奥様に先立たれて生きる気力を無くした、篤農家の気概を香利さんが取り戻してくれたんです。それで酷かった脚気もビックリする位、良くなって」

「加藤君。一体何をしたんだい?」

 頭を振られ過ぎて脳震盪を起こしかけた香利は、同僚の手を振り払い倒れないように机にしがみ付いていた。

「山根氏の食生活と生活態度は滅茶苦茶でした。しかし庭先の新品種の原木の手入れは、完璧に行っています。彼の梨栽培に対する情熱は、無くなっていないと感じました。そこで大学の果樹研究室、若手農家などに声をかけただけです」


 キョトンとした顔の上役。後をガチムチマッチョが引き継いだ。

「今まで高名過ぎて近づけなかった山根さんに、若い子たちが質問に寄ってくれるようになったんです。初めはお座なりな対応だった山根さんですが、彼らが本気で質問に来ていると分かると、真面目に回答してくれるようになって。

 若い子たちが持参して来る軽食にも、手を付けてくれるようになったんです」


 元は現役の農業従事者である。栄養ある物を食べて作業などの運動を行えば、あっと言う間に体調は本調子に戻った。

「若い子たちに彼の技術を伝承することが、今の生き甲斐だと笑って下さいました。もう大丈夫です」

「加藤君、やるなぁ」

 微笑む上役に、香利は肩を竦める。

「山根氏は寂しくて、軽度の鬱状態になっていただけです。訪問者にはビタミンB1を多く含む食品を差し入れるように依頼しただけで、大した事をした訳ではありません」


 余りに淡々とした回答に鼻白む二人。しばらくして我に返った同僚は、厳つい頬に手を当てて上役に囁いた。

「そのお礼のカニですが…… この子は、日本語が話せないんです。ですからこの事は、どうかご内密に」


 『日本語が話せない』


 これはこの地方公務員独特の隠語である。ロシア領などから違法に漁獲したカニは、当然ながら当局に没収される運命にあるのだ。没収された収穫物はのが決まりである。

 しかし一部の食品で物は、いつの間にか闇から闇へと消えて行く。これが日本語の話せないカニの経緯である。少し不公平な感じはするが、フードロスの観点からは考える余地があるのではないだろうか?


 丸メガネの上役は微笑むと、トロ箱の中身の分配を始めるのだった。



 ……ちょっと話が立て込み過ぎて、時空が歪んでしまいました。ガロウェイの街に戻る事にいたしましょう。


 カトリーナは前世界の記憶を辿っていた。脚気であれば栄養不良が主原因であるから、伝染病ではない。その旨を伝えて医療スタッフたちと、脚気の症状が出ている患者を選別して行く。

「患者の大半が海路から来た、カムリ公国の難民か。船で海にいる間は新鮮な食材は無いから、ビタミンも取れなかったのだろう。その前から難民状態で恒常的な栄養不足では、脚気になっても仕方ないか……」

「ビタミンって何です?」

「人間が体内で、合成出来ない微量成分だ。この場合のビタミンはB1で、チアミンという水溶性物質になる。 ……何で、そんな変な顔をしているんだ?」」

 淡々と説明する彼女を見て、ローブの魔術師は肩を竦めた。


「ご自分がご存じの事は、皆が知っていると思わないで欲しいですねぇ。で、そのチアミンという物が不足しているせいで『ベリベリ』になると」

「そうだ。チアミンは豚肉や牡蠣などに多量に含まれている」

 イワンは周辺の医療用テントや、難民の集団を見渡した。それからため息を付いて肩を竦める。

「『ベリベリ』に罹患している全ての方に行き渡る程、豚肉も牡蠣もありませんよ」


「それもそうか。今、作っている麦粥は精麦している麦粒を使っているのだろうか?」

「そりゃそうでしょう。皮が付いていたら食べられないでしょうから」

 カトリーナの質問に答えるイワン。赤髪の美女は小首を傾げている。

「麦を常食にしていると、脚気になり辛い筈なんだがな。精麦の時、皮は剝いていいから、ふすまを残してくれないか?」

「ふすま? ……ブランの事ですかねぇ。それも取らないと美味しくないでしょう?」

「米でいう所の糠の部分には、ビタミンが多量に含まれている。それを摂取すれば、栄養状態も改善されるはずだ。パンを焼く時は、必ず全粒粉にしてくれ」

 ローブの魔術師は何かを言おうとして、諦めたような表情を浮かべ口を閉じた。


「はいはい、仰せのままに。詳しい原理は後で教えて下さいねぇ。おや? あちらで何か揉めているようです」

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