第2話 異世界転生
次に香利が目を覚ますと、目の前には広大な草原が広がっていた。左手には岩肌の見える丘、右手には広大な湖が見える。彼女は小高い丘の上に立っており、足下は十メートル程の高さがあった。斜面を伝って崩れ落ちれば、骨折くらいで済むだろうか?
「わわわ!!」
崖の高さに驚き、尻もちを付いた。見渡せば野火の炎は消えていた。それどころでは無い。秋口の枯れススキだった季節が、初夏の草花の季節に変わっている。第一、こんなに開けた高原など、香利は見た事が無かった。
「まるでイギリスかスイスの、高原地帯のような景色だ」
服の埃を払って立ち上がる彼女。目線の高さに違和感を覚えた。
「何だって、こんなに低い位置なんだ。それに、この服装は何だ。こんな上等なスカート、私は持っていないぞ」
スカート?
スカートの裾を持つ手が小さい。さらに日焼けしていた筈の皮膚が、透き通るように白くなっていた。慌てて自分の身体を確認した。
ショートカットだった黒髪が、ボブヘア程度の長さの赤髪に代わっている。五歳くらいの少女の身体になっているようだ。
「こんな所に居たのか、カトリーナ。そこから落ちたら危ない。こっちへおいで」
振り返ると赤鬼のような大男が立っていた。二メートルはありそうな身長と、天然パーマの赤い髪。ソバカスが残る細長い顔には、優しい笑顔が浮かんでいた。声をかけられた瞬間、香利は彼の一人娘であるカトリーナになる。
大男の名前はスコット・フレミング。カトリーナの父親でアルバ地方の、地方貴族であった。彼の治める土地は典型的な農園地帯で、税収の殆どが農産物関連である。
アルバはイギリスのスコットランド地方のような土地柄だ。北国ではあるが温暖な海に面している為、冬季以外は比較的穏やかな気候である。ただし冬の低温は厳しいし、一年を通して快晴の日が少なく緯度が高い為、日照時間も短い。
瞬間的な回想でカトリーナの五年と香利の三十二年間の記憶が、あどけない少女の頭脳に共存している状態である事が理解できた。恐らく崖の景色を見たショックで、香利の記憶を取り戻したのであろう。
「あぁ、父上。今、そっちへ行く」
「どうした? 何か、いつもと雰囲気が違うようだが」
カトリーナは幼い見た目の割に、妙に慣れた仕草で肩を竦める。
「何でも無い。ちょっと昔のことを思い出しただけだ」
「話し方まで変わっている。君は誰だ?」
「ボクはボクだ。何も変わらない」
「ボク! 君は女の子なのだから……」
「あぁ、そうか。私は何も変わらない」
ボクっ娘で通っていた喪女は、あっさりと一人称を切り替えた。ただでさえややこしい時に、揉め事のタネを増やすことは無い。彼女は淡々と状況を整理する。今居るのはフレミング家の領地であり、カトリーナは父親と共に周辺の視察をしていたのであった。
スコットは少女を抱き上げると、彼の右肩に彼女を座らせた。カトリーナの特等席である、その場所から広がる草原を眺めてポツリと呟いた。
「やはりこの周辺は、貧栄養地帯のようだな」
「うん? 何か言ったかい」
「何でもない」
「そういえばもうすぐ、君の誕生日だね。何か欲しい物は有るかな?」
少女は首をコトリと傾ける。素晴らしいスピードで五年間の人生を思い出していた。
「父上は確か武道を嗜んでいたよな」
「あぁ、バリツの事かな?」
「それを習いたい」
カトリーナの要望を聞いて、スコットは生卵を殻ごと呑み込んだような顔をした。
バリツはアルバ地方に伝わる徒手空拳の護身術である。変則的にステッキ状の棒も使用した。早い話が対決の際、どんなものでも武器として使用する、喧嘩殺法である。勿論、貴族のお姫様が嗜むような技術ではない。
「そんな事より、綺麗な洋服やアクセサリーの方が……」
「バリツを習いたい。それ以外は興味ない」
少女を乗せながら大男は器用に、その肩を竦めた。
「仕方ないな。それでは近いうちに、私が手ほどきをしよう」
「もう、視察は終わったのだろう? 時間もあるだろうし今、少し教えてほしい」
「今からかい? 随分熱心だね」
彼は娘を肩から降ろし、ベタ足で右手を前に出す構えを取った。
「いいかい? 私の知っている格闘技は、相手を倒すために使うのではないんだ。バリツは身を護るための護身術だからね。先ずは足さばきと体捌きから覚えよう」
麗らかな初夏の高原で、大男と少女による格闘技の稽古が始まった。
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