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 スリーは濡れた脱脂綿の上で、俺のことを不思議そうに見つめていた。その瞳に吸い込まれて顔を近づけると、まだ微かに雨と田んぼの匂いがした。


 突然蛙を拾って帰ってきた甥を、叔父は頭ごなしに否定するでもなく、湿らせとけ、とそれを渡してくれた。小指で頭を撫でてやると、スリーは大きな目を瞬かせていた。足が使い物にならないから、こいつは跳べない蛙だ。脱脂綿が置かれた学習机の上をうろちょろすることはできても、違うどこかへ行くことはできない。俺は自身をこの哀れな両生類に重ねていた。お互い両足があるのだから、仕方ないと思う。



 歳月の中で、俺は自らの過去を客観的に受け入れ、真っ当に(とは言いたくないけれど)母を恨むようになっていった。過去を忘れておきながら恨みを持つというのも変な話だが。その母が吸った煙草の煙で肺を悪くし、入院した。叔父伝いにそれを聞いたとき、ただの少しも心配する感情がわかなかったとき、俺はとうに母への愛を浪費してしまったのだと気づき、寂しかった。あの頃俺は、それが一方的であるとしても愛というものの持つ力を信じ、どれだけ時間がかかろうとこの距離を縮めようという、闇雲だが殊勝な心がけをしていた。洗脳じみたものを強制的に解かれた今、俺の手元には何も残らず、母との間に横たわる溝は底が見えなくなるほど深くなっていく。俺は結局ただの一度も、母の見舞いには行かなかった。


 そのうち母の癌が進行しているだとか、危篤状態にあるのだとか、深刻な面持ちで言う叔父に生返事をしているうちに、母は死んだ。夫に逃げられ、息子を奪われ、母は一人で死んだ。その衝撃は、枯渇した俺の心をそれでも十分に揺るがし、俺は肉親の逝去が持つ意味をはっきり認識することになる。


 この世界だけだ、と俺は思った。母をここまで苦しめ続けたのはこの世界だけだ。人生に存在する夥しい数の転機における選択が、何か一つでも違ったならば、俺に身近な誰か(といえば虫が良すぎるだろうか)が何かを背負うようなこともなかっただろう。そういう世界はどこかに、というよりはそこら中にあるはずで、ただ唯一、この世界では上手くいかなかった。運が悪かった。でも多分、人生というのはそういうものだ。



「あの蛙、元気か?」


 ある朝、いつもの登校集団からそんな声が挙がった。もともと「スリー」とは、あいつを引き取った俺が勝手につけた名前であって、その名が我が家を飛び出すことはない。

 俺は変に考え込んでしまう。あいつは、元気か?そこでまた俺たちは重なる。


「元気さ」


 脳裏に浮かんだ様々な見解も、中学の同級生などでは脳でも共有しない限り伝わらないと思い、俺は言葉を飲み込んだ。


「蛙ってずっとぬるぬるしてんのかなー」


「爬虫類ってことは、どっかに鱗あんのか?」


「バカ、両生類に決まってんだろ」


「片足だけでもコービって出来んのかな!」


 仲間たちの笑いの輪に、その日は加われなかった。再び俺は考え込む。ひょっとして、俺と蛙は少し違うのかもしれない。あいつは既に、その欠如を受け入れている。俺はどうか。多分、今はまだ。だがいつの日か、決断の瞬間はやってくる。俺は蛙になるのか、あるいは少女になるのか。

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