40.愛することを怖がらないで




「ほぎゃあ!ほぎゃあ!」


……家中に、赤ちゃんの泣き声が響き渡る。


鼓膜が激しく揺さぶられて、アタシの母性が緊急事態だと命令してくる。


「はいは~い!どうしたのー!?」


産まれて6ヶ月になる長男の「正(ただし)」を抱っこして、小刻みに腕を揺らしながらあやす。


「ほぎゃあ!ほぎゃあ!」


「おかしいなあ……。ミルクもあげたし、おむつも変えたんだけど」


「ほぎゃあーーー!」


「はいはーい、いい子いい子~」


額に汗をたくさんかきながら、アタシは家の中を歩き回る。


もう既に、正の体重は5キロ以上になっている。マージで重い。ホンットに重い。産後にちょっと太っちゃってたアタシだけど、子育てが大変すぎて余裕で体重が落ちた。ジムに行かずとも、筋トレしてるみたいなもんだし。


「ママー!これ読んでー!」


そんな最中、四歳になる長女の「薫(かおる)」が絵本を広げて、アタシの足元にやって来る。


正を抱っこしながらその場に屈んで、「なにー?」と言って薫に聞き返す。


「ママ!絵本読んで!絵本読んで!」


「はいはい、えーと……『よし、こうなったらインドの虎狩りを弾いてやるぞと、ゴーシュは鼻息を荒くして言いました』」


「ママー!虎狩りってなにー!?」


「えーと、虎さんを倒すことだよ」


「なんで虎さん倒すのー!?」


「な、なんでかな~?」


「ほぎゃあ!ほぎゃあ!」


わんわん泣きわめく息子を胸に抱きつつ、娘の絵本を読む。ママという立場は本当に大変だ。今になってようやく、自分のママやケンジママのことを尊敬できた気がする。


「ただいまー!」


玄関の方から声が聞こえてきたので、すぐに「はーい!」と答えて、薫とともに玄関まで出迎えに行った。


そこには、これまたアタシと同じくらい、額に汗をたくさんかいていたケンジが立っていた。両手にはパンパンに物が詰められたビニール袋を持っていた。


「お帰りケンジ!」


「パパお帰りー!」


「遅くなってごめんね。おむつ、二週間分買い込んで来たよ」


「ありがとー!めっちゃ助かる!」


「ほぎゃあ!ほぎゃあ!」


「やあ正、どうしたんだい?ご機嫌斜めかな?」


「そうなのー!ミルクもあげたし、おむつも変えたんだけど、なんでなのか分かんなくて……」


「眠たくてぐずってるのかも知れないね。どれ、僕が変わろうか?」


「あーごめん!ありがとー!」


ケンジは袋を床に置いて、アタシから正を受け取った。「よしよし。とん、とん、とん」と言いながら、一定のリズムで背中を叩く。


アタシはその内に、ケンジが買ってきてくれたおむつを持って、物置部屋に置いた。


「ママ!絵本!絵本が途中ー!」


「ほいほい、じゃあリビングに行こっか」


おでこにかいた汗を腕で拭いながら、ふうとお腹にたまった息を吐き出す。


「あかいめだまのさそり~♪ひろげた鷲のつばさ~♪」


そんな家の中に、ケンジの歌声が満ちていく。彼の静かで優しい声色を聞いて、抱っこされている正も落ち着いてきた。


「あおいめだまの小いぬ~♪ひかりのへびのとぐろ~♪」


「…………………」


「オリオンは高くうたい~♪つゆとしもとをおとす~♪」


気がつくと、正はすっかり泣き止んでいて、きょとんとした赤ちゃんらしい表情で自分のパパのことを見ていた。


「さすがケンジ!あやすのもお手のものだね!」


「昔、僕がまだ小さかった頃、母さんが子守唄として『星巡りの歌』をよく歌ってくれてたんだ。ふふふ、正もこの歌が好きみたいだね」


ケンジは優しく微笑みながら、正の顔に自分の鼻を近づけた。正はにっこりと笑いながら、小さな手でその鼻先をつんつんと触った。


「あ、ケンジ、そろそろ時間かも」


アタシは壁掛けの時計を見て、彼にそう言った。時計は、お昼の11時20分をさしていた。


「お、本当だね。じゃあそろそろ出ようか」


「うん!」













……12時になる手前頃、アタシたちはとある公園に来ていた。


その公園はめちゃくちゃ敷地が大きくて、学校の校庭ほどの芝生が広がっていた。その敷地の中に何本か木が生えていて、ところどころに木陰を作っている。


敷地の中央付近にある木の下に、アタシとケンジが待ち合わせしている人たちがいた。高校の同級生だった柳原さんと藤山くん。そして……アタシの妹である、深雪だった。


三人は既に、バーベキューの準備にとりかかっているところだった。炭に火をつけて、その上に網を乗せていた。


「おーい!みんなー!」


アタシが三人に手を振ると、向こうもアタシたちに気がついたようで、各々それぞれ手を振り返してくれた。


「佳奈さーん!斎藤くーん!もう準備できてるよー!」


柳原さんが手を口の横にやって、アタシにそう声を返してきた。


「マジで!?わー!ごめん!遅くなったー!」


「いいよいいよ!」


アタシとケンジ、そして娘の薫は、三人が準備してくれた丸椅子に座った。そして、アタシとケンジの間に正の乗るベビーカーを置かせてもらった。


「みんな、準備してくれてありがとう。これ、頼まれてたお肉だよ」


ケンジは背中に背負っていたリュックからクーラーボックスを取り出して、その中に仕舞ってあった牛肉と豚肉のパックをそれぞれ一つずつ出した。


「おお!サンキュー斎藤!じゃあ、早速焼くか!」


上機嫌な藤山くんが、割り箸を使って網の上にお肉を乗せていく。じゅうっ!という激しい音が、アタシの空っぽなお腹を刺激した。


みんなそれぞれに紙皿を持って、そこに焼き肉のタレを入れている。その紙皿に、各々好きなものを取っていく。


「あ、ケンジ。この豚肉焼けてるよ」


「うん、ありがと佳奈さん」


「ママ~、ワタシ玉ねぎいらなーい」


「こら薫、ちゃんと野菜も食べないとダメだよ?」


「ふふふ、佳奈さんちはいつ見ても微笑ましいなあ」


「なあ斎藤、肉もうちょいあるか?」


「ああ、うん。まだまだあるよ。クーラーボックスから出すね」


「深雪ごめん、そこの焼き肉のタレ取ってくれる?」


「はい、どうぞ姉さん」


「そう言えば藤山くん、今日は内藤さんと長崎くんは来れなかったんだね」


「ああ。内藤さんは緊急の仕事で、長崎は彼女とデートがあるからってよ。ちぇ、長崎のヤローめ、友情より彼女を取りやがって」


「ははは、そうなんだね。いつかその彼女さんも、僕らと一緒に遊べたらいいね」


和気あいあいと、アタシたちはバーベキューを楽しんだ。本当はなんびりゆったりするつもりだったんだけど、バーベキューって結構お肉とかの焼き加減を気にしないといけないから、わりと忙しく食べていた。


「うう……ううう……」


そんな時、ベビーカーにいる正が少しぐずり始めた。


「ん……正、お腹空いたかな?」


アタシはミルクあげるために、手に持っていた割り箸と紙皿をどこかへ置いておきたいなと思って、置ける場所がないか辺りをキョロキョロした。


「姉さん、私やるよ」


その時、横から深雪がすっと現れてそう言った。


「いいの?深雪」


「うん、姉さんは気にせず食べててよ。私、もうお腹いっぱいだし」


「そう?ごめん、ありがと深雪。あ、ミルクはケンジのリュックの中に作り置きのがあるから、それをあげて」


「わかった。健治さん、リュック開けますね」


「うん、ありがとう深雪さん」


深雪はケンジのリュックを開けて、中からミルクの入った哺乳瓶を取り出した。それを持って、ベビーカーにいる正を抱っこしながら、そのミルクをあげていた。


深雪には時々、アタシとケンジがめちゃくちゃ忙しい時に子守りのヘルプを頼むことがあった。だからこうしてミルクをあげるのも、手慣れたものだった。


「さすが深雪、アタシよりミルクあげるの上手いかも」


「ふふ、何言ってるの。姉さんには敵わないよ」


深雪は薄く微笑みを浮かべながら、ミルクを飲み干した正にげっぷをさせていた。


「…………………」


これは……いつからかは分からないんだけど、深雪はいつの間にかアタシのことを『お姉ちゃん』ではなく、『姉さん』と呼ぶようになった。


最初はアタシも、深雪が大人になったからお姉ちゃんと呼ぶのが恥ずかしくなったとか、そういう理由かなと思った。


でも、なぜだか分からないけど、姉さんと呼ばれると……アタシは少し、寂しい気持ちになる。


どこか他人行儀というか、一歩引いているというか……とにかく、深雪はアタシに対してなにか壁を作っている気がした。


(……まあでも、思い返せば……深雪とは結構、ギクシャクすることが多かったからなあ)


アタシがふてぶてしくて生意気だった頃は、真面目な深雪とよく喧嘩してたし、アタシがケンジと色々あってた頃は……深雪もケンジのことが好きで、お互いライバル?みたいな状況だったこともあるし。


今でこそ、こうして一緒にバーベキューするほどの仲ではあるけど、めちゃくちゃ仲良し姉妹かと言われると……ちょっと違うのかも知れない。


アタシは深雪のこと好きだけど、深雪がアタシのこと好きかは、別問題だしね。












「……パパー!ボール投げてー!」


バーベキューをし終えた後、ケンジと柳原さん、そして藤山くんの三人が、娘の薫の遊びに付き合ってくれていた。


子どもに当たっても大丈夫なように、柔らかい野球のボールを使ってキャッチボールをしていた。


「よーし!投げるぞー!」


ケンジはふわっと、薫へ軽くボールを投げた。足元の手前で落ちたそのボールを、薫は小さな手で拾った。


「薫ちゃーん!今度は私にちょうだーい!」


柳原さんが声をかけると、薫は柳原さんに向かってボールを投げた。「上手上手ー!」と言いながら柳原さんはボールを受け取り、また薫へそれを返した。


こんな感じで、薫が大人組にボールを投げ、それをまた大人組が薫へ返すといった流れができていた。


そんな微笑ましい様子を、木陰の下でアタシと深雪は眺めていた。ちなみに息子の正は、ベビーカーの中ですやすやと熟睡していた。


「薫ちゃん!俺にもボールをくれー!」


「はーい」


「薫ちゃーん!私にちょうだーい!」


「はーい」


「よし薫~、パパにもボールをくれるかい?」


「はーい」


そうして、薫がケンジへボールを投げた。ケンジは空中でボールを受け取ろうとしたけど、上手くキャッチできずに、顔面にボールが当たってしまった。


「あいた!」


思わず声をあげてしまうケンジに向かって、薫が叫んだ。


「パパ、下手くそー!カッコ悪いー!」


その様子を、柳原さんも藤山さんも声をあげて笑っていた。ケンジは恥ずかしそうに頭をかいていた。


「ふふふ、ケンジってば。運動音痴なの変わらないなあ」


アタシは木陰の下に吹くそよ風に当てられながら、ぽつりと呟いた。全くもう、うちの旦那様は可愛いんだから。


「…………………」


その時、ふと横へ目をやると、深雪がアタシの方をじーっと見ていた。


正確には、アタシの左手を見ていた。その顔つきは、どこか不思議そうにというか、怪訝な表情といった雰囲気だった。


なんだろうか?と思ったアタシは、「どしたの深雪?」とストレートに訊いてみた。深雪は「ん……」と一瞬言葉を濁したけど、小さな声で「指輪はどうしまの?」と尋ねてきた。


「指輪?」


「結婚指輪、今姉さんしてないでしょ?外してるの?」


「ああ!結婚指輪ね!実は去年、失くしちゃってさ~」


「え?」


「海に遊びに行ってた時に、どっかやっちゃったみたいで。もうめちゃくちゃショックなんだよね~……。潜ったりしてはないんだけど、たぶん波がさらっちゃったんだろうな~」


「…………………」


「アタシ、子どもが産まれてから毎日 日記をつけてるんだけどさ、その指輪を失くした日だけ異様にテンション低いんだよね。読み返すとあからさますぎて逆にちょっとウケるんだよね。ふふふ」


「…………………」


その時の深雪の表情は、どこか切なそうだった。それはまるで、自分の中に沸き上がる気持ちを、強引に押さえつけているような様子だった。


「深雪?」


アタシが声をかけると、彼女はハッとしていた。


「な、なに?姉さん」


「何か考え込んでたみたいだけど、どうかしたの?」


「…………………」


「悩みがあるなら、アタシ聞くよ?」


「……大丈夫、心配ないよ」


そう言いつつも、深雪の表情はまだ晴れない。どうしたものかなと思ったアタシは、なるべく明るい口調で彼女に問いかけた。


「そ、そー言えばさー深雪、この前彼氏ができたって言ってたじゃん?」


「…………………うん」


「どう?その後の調子は?結婚の話とか、そろそろ出るんじゃなーい?」


「……別れたの」


「え?」


「もうその人とは、別れたの」


「…………………」


「向こうから告白されて、とりあえず付き合ってみたけど……好きに、なれなくて」


「……そ、そっか。ごめん、変なこと聞いて」


しまった、彼氏の話は地雷だったっぽい。深雪も26歳だし、そろそろ結婚とかの話も上がるかなって思ってたんだけど……。


「……姉さん」


「な、なに?」


「私、どうしたらいい?」


「……どうしたらって?」


「……姉さんと健治さんみたいな夫婦になるには、どうしたらいい?」


「…………………」


「誰と付き合っても、姉さんたちみたいに……いつまでも仲良くなれそうにないの。どうしても……結婚した後のイメージが湧かなくて……。それで結局、別れちゃうの」


「…………………」


「……姉さん、私……私ね」




───健治さんのことが、ずっと忘れられないのかも知れない。




「…………………」


深雪の声は、そよ風の中に溶けるほど小さかった。耳をすまさないといけないほど、消え入りそうだった。


この瞬間、アタシは不意に思い出した。深雪がアタシのことを姉さんと言い出したのは、ケンジが意識不明の重体から目覚めて、しばらくしてからだったことに。


(……もしかしたら深雪は、アタシのこと恨んでるのかな)


好きだった人をアタシに取られてしまったという恨みがあるから、こんな風にちょっと距離を感じるのかな。


でも、ここで謝ったりしたら、逆に失礼だよね。深雪の立場だったら、こんな時下手に謝られたくないもん。


かと言って、なんの慰めの言葉を言わないのも、それはそれでどうなんだ?ってなるし……うーん……。


「……ごめん、姉さん」


「うん?」


「変なこと言ってごめん。もう、吹っ切ったはずなんだけど……」


「深雪……」


「…………………」


「…………………」


「……どうしたら」


「ん?」


「私、幸せになれるのかな」


「…………………」


「…………………」


「……あのね、深雪」


「…………………」


「もし深雪にね、本当に心から大事な人ができたら……その人に想いを、伝えてみて」


「想いを……?」


「うん」


「想いって、どういうこと?」


「好きなら好き、愛してるなら愛してるって、伝えるの」


「…………………」


「誰かに好きだって伝えられることってね、すごく幸せなことなの」


「伝えられることが……」


「そう。人から好きだって言われることよりも、ずっとね」


「…………………」


「だから、深雪が想いを伝えたい、伝えなきゃ後悔するって思う人がいたら、迷わず伝えてあげて。それがたとえ、ケンジでもね」


「え?」


「浮気になるかどうかなんて、気にしなくていいよ。アタシはケンジの気持ちを支配できるわけじゃないから。もしケンジがそれをきっかけに浮気したとしても、アタシは動じない。アタシがケンジのこと好きだって気持ちは、少しも変わらないから」


「…………………」


「自分の大事な人が、いつまでもそばにいてくれるとは限らない。ひょっとしたら、明日にも離ればなれになるかも知れない。だから……自分の気持ちに嘘をつかず、大事な人にこそ想いを伝えて。どんな時も、愛することを怖がらないで」


「……姉さん」


「大丈夫、何かあったらアタシ、力になるから。あなたはアタシの大好きな、妹だもの」


アタシはそう言って、満面の笑みを浮かべた。深雪の方も……少しだけ口許を緩ませた。


涼しげなそよ風が、アタシたちの間を通り抜けていった。










────────────────────

後書き


星めぐりの歌 作詞作曲:宮沢賢治 https://youtu.be/HHNEhT2Ckck?si=Dd4INXAnjCsM6J5R

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