29.佳奈の覚悟(1/2)
……アタシの生活は、ケンジが事故った日を境に、大きく変わることになった。
毎日毎日、学校帰りに必ずケンジの病室へ行き、面会時間ギリギリまでそばにいる。
眠っている彼の横に椅子を立てて座りながら、ずっと話しかける。それがアタシの、新たな日課になった。
「おはよう、ケンジ」
今日も今日とて、アタシはケンジの元へとやって来た。
「今日はね、国語のテストがあったの。アタシ、国語って昔っから苦手でさ、全然点数取れなかったんだけど……」
そう言いながら、アタシは学校の鞄からテストの答案用紙を取り出して、「じゃんっ!」と言って、用紙を大きく広げて見せた。
「なんと!53点!赤点じゃなかったの!」
「……………………」
「しかも、半分以上点が取れててさ!アタシにとっては最高得点だった!」
「……………………」
「ケンジが好きな銀河鉄道の夜を頑張って読んでるから、ちょっと国語得意になったかも!なんてね、えへへ」
「……………………」
「……………………」
アタシは空元気を止めて、静かに黙ることにした。頑張って笑顔を作っても、虚しいだけなのは分かってる。でも、今ここで踏ん張ってないと、絶対また泣いちゃう気がする。
(……ケンジ)
テストの答案用紙を、ぎゅっと強く握り締める。くしゃりと音を立てて、用紙にシワがよる。歯が口の中でギリギリと、痛いくらいに噛み締めている。
「佳奈ちゃん」
ふと、入り口の方から声をかけられた。振り返ってみると、そこには女性の看護師さんがいた。
その人はケンジの担当の人で、名前は朝日さん。この人はアタシがケンジのところへよく来るのを知っている。
アタシが初めてケンジの病室へ訪ねに行った時に、静かに背中を撫でてくれたのが、この朝日さんだった。
「もうそろそろ、時間になるよ」
朝日さんは申し訳なさそうに、アタシへそう言った。時間というのは、面会時間のこと。この病院は午後残る5時以降は面会できないので、そのことを朝日さんはアタシに伝えに来たのだった。
「うん、わかった」
アタシは朝日さんへそう答えてから、静かに席を立ち、帰り支度を始めた。
「……………………」
そして、もう一度だけケンジのことを見つめた。穏やかに眠る彼の姿を、この目に焼きつけた。
「……またね、ケンジ」
そうして、何分か経ってようやくくるりと彼へ背中を向けて、アタシは病室を出た。
コツンコツンと、アタシと朝日さんの歩く音が廊下に響き渡る。
「……朝日さん」
アタシは顔をうつむかせながら、隣にいる朝日さんへ声をかけた。
「なに?佳奈ちゃん」
「朝日さんって、恋人いる?」
「……うん。今は恋人じゃなくて、夫になったけどね」
「……………………」
「去年の夏に、籍を入れたの」
「……そっか、おめでと朝日さん」
「うん、ありがとう」
「……………………」
「……………………」
「……結婚ってさ」
「うん?」
「結婚ってさ、楽しい?」
「……まあ、そうね。楽しい時もある」
「……………………」
「もちろん、ヤな時もあるよ。めっちゃ喧嘩しちゃう時もあるし」
「……いいな」
「え?」
「喧嘩できるの、羨ましい」
「……………………」
アタシは一旦立ち止まり、顔だけを振り向かせた。
遠くに見えるケンジの病室を見つめながら、アタシはぼそりと呟いた。
「喧嘩でもいいから、ケンジと話したい」
「……それじゃあ、気をつけてね佳奈ちゃん」
「うん、いつもありがとう朝日さん」
朝日さんから見送られながら、アタシは家へと向かう。
すっかり日が落ちて、真っ暗になった夜道を、アタシはとぼとぼと歩いている。はあ~と息を吐くと、白い息が夜の闇の中にぼんやりと見える。
鼻先に、冷たい感覚が突然訪れる。それは、雪が鼻に落ちたからだった。ちらちらと降り注ぐその雪に向かって、ふっと息を吹きかけてみた。するとその雪は、白い息の中に飲み込まれて、消えてしまった。小さな雪だったから、溶けてしまったのかも知れない。
そんな様子を見ていると、なんだかすごく切なくて、とても儚い気持ちにかられた。
「……ただいま」
家へと帰りついたアタシは、靴を脱いで自分の部屋へと向かう。
その途中で、ふとリビングに目を向ける。そこでは椅子に座って、机に突っ伏している深雪がいた。
「……………………」
深雪はあの事故以来、不登校になってしまった。
ケンジが自分のせいで事故に遭ったことがあまりにもショックすぎて、すっかり覇気がなくなってしまった。
もう家から一歩も出なくなったし、家族の誰とも口を聞かなくなった。
いつもは部屋に籠りっきりなのにで、彼女の姿を見るのですら、かなり久しぶりだった。
「……………………」
アタシは深雪のいるリビングを横目に、静かに自分の部屋へと向かった。
そんなに自分を責めないでほしいという気持ちがある一方で……アタシは、「お前のせいでケンジがあんな目に!」と怒鳴りたい気持ちもあった。
ケンジは深雪を庇って車に轢かれた。それに関してあんなに罪悪感を抱えている深雪へ、さらにムチ打つようなことはしたくない。でも、アタシがもし今口を開いたら、深雪への罵詈雑言になってしまう気がしてならなかった。
だからアタシはアタシで、深雪と何も……言葉を交わすことができないでいた。
……学校は、いつもと変わらない毎日が繰り返されていた。
ケンジが事故に遭ったというのに、みんなそこまで気にしていない。時々、「そう言えば斎藤くんって大丈夫なのかな?」という会話が出る程度だった。
ドラマみたいにみんなで千羽鶴を折るとか、お見舞いに行くとか、そんなことは起きなかった。
先生からホームルームで事故に遭ったということを聞いているのにも関わらず、このドライな反応であるクラスメイトたちに、アタシは心底ムカついていた。
(ケンジは一緒に劇を頑張った仲間じゃん……。なのに、こんな程度なの?)
そういう風にアタシは思っていた。でも正直……昔のアタシだったら、このクラスメイトと同じ反応だったような気もする。
大して付き合いのない人に何か酷いことが遭ったところで、そんなの全部対岸の火事。他人が隣で苦しんでいても、自分にはカンケーないって言って、知らんぷり。スマホをいじってぼーっと動画を漁るだけ。
もちろん、ケンジ自体があまりクラスに馴染めていたタイプじゃないから、そんなものと言えばそうかも知れないけど……。
「……え?お見舞いに行きたい?」
ケンジが事故に遭ってから、三週間ほどが過ぎた日の放課後。
アタシはいつものように学校からケンジのいる病院へ向かおうとしてた時、教室の入り口で、四人のクラスメイトから呼び止められた。
「そう、斎藤くんのお見舞いに行きたいの。田代さん、病院の場所知ってるみたいだから、教えてもらおうかなって」
保健委員の柳原さんが、アタシの眼を真っ直ぐに見つめて言った。
彼女の後ろには、劇でBGMを担当した藤山くん。クラスのお調子者で、劇ではザネリ役を演じた長崎に、『さそりの火』の話を語った少女かおる役を演じた内藤さんがいた。
「……………………」
この時アタシは、自分の中に三つの感情が生まれていたことを自覚していた。
一つ目は、三週間経ってようやくケンジのお見舞いに来てくれる人がいて、嬉しい気持ち。ケンジは友だちがいないなんて言ってたけど、でもこうして、何かあったら心配してくれる人たちがいる。それがアタシには嬉しかった。全員が全員、薄情じゃなかったんだと思えた。
二つ目は、「それでもたったの四人?」という気持ち。三週間も経ったのに、ようやく来てくれるのは四人だけ……。なんでもっと来てくれないの?という苛立ち。
そして三つ目は……お見舞いに誰も“来ないでほしい”と思う気持ち。
なんだか矛盾しているように思うけど、実際そう思ってる節がある。
“私だけ”が。
“私だけ”がケンジを心配している女の子でありたい。
お見舞いに来ようとしてるクラスメイトは、柳原さんと内藤さんと、少なくとも女子が二人いる。それがちょっとだけ、アタシにやきもちを焼かせた。
特に柳原さんは、昔ケンジが熱中症で倒れた時、ケンジのことを気にかけていた保健委員の子だった。柳原さんとケンジが触れ合うのがイヤで、アタシが咄嗟に間に割って入ったのを、よく覚えている。
(お見舞いに来ないクラスメイトを薄情だと思いながら、同時に来なくていいって思うなんて。アタシ、もしかしたら結構めんどくさい性格してるかも……)
自己嫌悪を抱えながら、その三つの感情が胸の中に沸いていた。
「……田代さん?どうしたの?」
そんなアタシを見た柳原さんは、心配そうにアタシへそう尋ねる。
「……病院は」
「え?」
「ちょっと学校から遠いけど、みんな大丈夫?」
「うん、もちろん」
「……わかった、じゃあ行こっか」
こうしてアタシは、クラスメイトたちを連れて、ケンジの元へと向かうことにした。
……学校の前にあるバス停からバスに乗って、そこからおおよそ20分でその病院には着く。
その道中で、クラスメイトたち四人の反応は、人それぞれだった。
神妙な顔でうつむいてる人もいれば、「意識戻んないってやばくね?」と、焦った様子で話す人もいる。
アタシはそんな四人のことを、ぼんやりと眺めていた。
「なあ、田代さん」
バスから降り、四人で病院へと歩く途中で、アタシは長崎から声をかけられた。
「なに?長崎」
「田代さんってよお、斎藤と付き合ってんの?」
「……………………」
「いやほら、なんか前から噂があってよ。斎藤と田代さんが付き合ってるって噂。お見舞いも毎日行ってるらしいしよ」
「……………………」
アタシは長崎の方は見ず、ただ真っ直ぐに前へ続く道を見つめながら答えた。
「今は、付き合ってない」
「今は?」
「でも、ケンジのことは好き。それは間違いない」
「……………………」
アタシの答えに、他の四人はざわついていた。
「ねえ、田代さん」
今度は、内藤さんがアタシへ質問してきた。
「その、今は付き合ってないっていうのは、どういうこと?昔は付き合ってたってこと?それとも、これから付き合うかも知れないってこと?」
「……………………」
「あ、ごめん。ちょっとデリケートな……」
「……昔は、ってこと」
「……………………」
「アタシはそれでも、今でもケンジが好きだから、こうして毎日……通ってる」
「…………すごいね」
「え?」
「あ、いや。だって、そんなに堂々と好きって言えるなんてすごいよ。私だったら恥ずかしくて、そんなこと、とても……」
「だって、ここでみんなにケンジが好きなことを言う勇気がなかったら、ケンジ本人に好きだって……言えるわけがない」
「……………………」
「いつかケンジが起きた時、必ずアタシは“また”、告白する。今度こそ絶対……本当の告白を」
「……………………」
アタシの言葉に押し黙ってしまった四人へと顔を向けて、「ほら、あそこ」と言って病院を指さした。
アタシを含めた五人で院内に入り、ケンジの眠る12号室へと向かう。
「病院って、なんか落ち着かねーな」
真っ白な廊下を見渡しながら、長崎がぼそりと、独り言を呟いた。
「ここだよ」
アタシは12号室の前に立ち、みんなに部屋番号を指さして言った。
「ケンジ、おは……」
いつものように、アタシは304号室の扉を開けて、中を覗き込んだ。
「……………………」
その瞬間、アタシはとんでもないものを見てしまった。
見知らぬ女が、寝ているケンジの首を絞めていたのだった。
女は、髪はボサボサで服もよれよれ。そして50代くらいの老けた……もうババアと言ってもいいくらいの年齢に見えた。
そのババアは、顔中を涙で濡らしながら、言葉では言い表せないくらい必死の形相で、ギラギラとケンジを睨んでいた。
「止めて!!」
アタシは直ぐ様そう叫んだ。女はびくっと身体を震わせて、アタシの方へ顔を向けた。
「なにしてんの!?なんでケンジにこんなこと!!」
女の方へ近づき、ケンジの首にかけられている手を、必死にもぎ取ろうとした。
でもそのババアは、アタシに肩をぶつけてきて、手を取ろうとするのを邪魔してきた。
「こうするしかないのよ!!健治は!!健治はもう助からない!!だから今ここで!!私の手で殺してあげた方がいいのよ!!それがこの子の幸せのためなのよ!!」
ババアの怒号が、部屋中に響き渡る。
「意味わかんない!!ねえ止めて!!ケンジから離れて!!」
アタシとそのババアの押し合いになっていたところに、他の四人が加勢してくれた。
藤山くんと長崎がババアを後ろから羽交い締めにし、動けなくした。
そして柳原さんと内藤さんが、ケンジの首にかかっていた手を、指の一本一本取っていき、ようやく剥がすことができた。
「このババア!!」
アタシは思い切りその女にビンタをかました。パーンッ!という破裂音が耳の奥まで木霊した。
「何考えてんの!?ケンジを殺そうとするなんて!!何様か知らないけど、こんなことして許されると思ってんの!?」
罵声を浴びせながら、アタシはぼろぼろと泣いていた。高ぶる感情が抑えられず、もう一発ビンタを食らわした。
「絶対警察呼んでやる!!そして死刑になればいい!!死ね!!死ね!!死んでしまえクソババア!!」
ぜーぜーと息を切らすアタシのことを、そのババアはじっと睨んでいた。
「……あんたこそ、なんなのよ」
「……なに?」
「あんたこそ!!健治のなんなのよ!?健治とどういう関係なのよ!!」
「……………………」
その女がそう叫ぶ言葉に、アタシはすぐ言葉を返せなかった。
それは、このババアにビビったからじゃない。どういう関係だと言えばいいのか……分からなかったから。
「……ふんっ!アタシがケンジとどんな関係かとか、あんたに教えるつもりないし!」
考えた末に捻り出したのは、結局何も答えないということだった。
「そもそもあんたこそ誰なわけ!?ケンジの部屋に勝手に入ってきて!!ええ!?なんなのあんたは!?」
「…………やよ」
「は?」
そのババアは、全身を震わせながら、はっきりとこう言った。
「健治の、母親よ」
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