13.夏の終わり



……9月1日。夏休みは、終わりを告げた。


重い身体を引きずりながら、僕は学校へと向かう。こんなにも学校へ行きたくないと思ったのは、生まれて初めてだった。


僕は内気で陰キャで、友だちも大して多い方じゃないけれど、幸いにもいじめられたりすることはなかった。だから学校で「◯◯さんに会いたくないな」と思って足取りが重くなる……という経験はしたことがなかった。


「……………………」


それがまさか……あんなに大好きだった佳奈さんに会いたくないという理由が生まれるとは、夢にも思わなかった。


できることなら、全部幻だったと思いたい。佳奈さんと過ごした日々は、僕が一夏の間に見た、眩しいほどの幻……。そういう風に思いたい。


でも、それは叶わない。僕の胸は佳奈さんを思い出す度に、泣きたくなるほど痛み、苦しくなる。その痛みと苦しみが、あの楽しかった日々が本当であったことの証明として刻まれている。



ミーンミーンミンミンミンミン……



蝉時雨を浴びながら、僕は夏の空を見上げる。入道雲が遠くの方に見えていて、妙に切ない。あんなにも大きくて近くに見えるのに、どれだけ手を伸ばしても届かない。


それはまるで、僕を惑わす蜃気楼のよう。


儚い夏の夢のよう。










「……さて、長い夏休みも終わって、これから二学期に入る。みんな気を引き締めて授業に望むように……」


担任の先生が、HRで僕たち生徒にいろいろと語りかけている。でも、僕の頭に内容が全然入ってこなかった。


僕の席は、一番廊下側の列の前から四番目に位置している。そして佳奈さんの席は、僕の席の左隣から数えて二つ前にある。そのため、僕の席から彼女の背中が視界に映るようになっている。


そうなると、否が応にも意識させられる。佳奈さんのことを。


「……………………」


そしてたまに、佳奈さんはちらりと顔を後ろに向けて来る時がある。すると、どうしても僕と目が合う。


「……!」


そうして目が合った途端、彼女はふいっとまた顔を前に戻してしまう。そんなやり取りを何回か繰り返していた。



……二学期が始まった初日、授業はまだなく、簡単な式とHRだけで一日が終わった。そのため、午前11時にはもう帰宅できるのだ。


「なあなあ!これからカラオケ行かねー!?」


「行こうぜ行こうぜー!」


まだ夏休み気分が抜け切っていないクラスメイトたちは、HRが終わった途端にそうやってはしゃぎ出す。


がやがやと騒がしい教室を、僕はうつむきながら出ようとしていた。


「ケンジ!」


その時、僕に向かって声をかけてきた人がいた。それが佳奈さんであることは、後ろを振り向かずともすぐにわかった。


僕は歩みを止めて、しばらく黙っていた。佳奈さんがそんな僕へ、しきりに話しかけていた。


「ケンジ……あの、あの、アタシ、どこかで話がしたいの……」


「……………………」


「時間、作れない?ねえ、お願いだから」


「……………………」


僕はゆっくりと顔を上げて、全身を後ろにいる佳奈さんへと向けた。


佳奈さんは口をぐっとつぐんで、僕のことを真っ直ぐに見つめている。


「なあなあ田代さーん!今日ヒマー?」


「俺らカラオケ行くんだけど、どう?行かねー?」


その時、クラスの男子たちが佳奈さんをカラオケに誘っていた。明るくて元気で、まさに陽キャと言ったら、こういう感じの人をさすんだろうと言わんばかりの人たちだった。


「え、いや……アタシは……」


佳奈さんが眉をひそめて逡巡していると、彼らはふいに僕の方へ目を向けた。


「お?斎藤くんじゃん。チースっ!」


「……うん、久しぶり」


「もしかして、俺らのカラオケ興味ある?あれだったら斎藤くんも一緒行こうや!」


「僕も?」


「おう!どう?時間空いてる感じ?」


「……………………」


……爽やかな彼らの誘いを受けて、僕は佳奈さんの方へ目を向けた。彼女はじっと黙ったまま、息を飲んでいた。


「……いや、遠慮しておくよ。僕は今日、外せない用事があるんだ」


「マジかー!じゃあしゃーねえな!」


「誘ってくれてありがとう。みんな、楽しんできてね」


そう言って、僕はくるりと背中を向けた。そして、人混みの中を独り肩をすくめて歩いていった。




……学校から出て、家へと向かう帰路。僕は足元を見つめながらとぼとぼと帰っていた。


『さーて!お次のリクエストはなにかなー?』


ふと、赤信号で止まっている時、窓を開けている車が隣で同じように信号待ちをしていた。


その車の中でラジオをかけているらしく、外までそのラジオの音が漏れていた。


『おっと!お次の曲はオフコースの「秋の気配」!いいですね~、まだ少し早いかも知れないが、夏休みが終わったみんなにはタイムリーな曲だ!』


『それじゃあいってみよう!オフコースで、「秋の気配」』



「……………………」


そうして、車内からその音楽が流れ始めた。僕はぼんやりとその曲を、黙って耳に入れていた。


気がつくと、もう信号は青に変わっていた。窓を開けた車は先にもう発進していた。


僕はゆっくりとまた脚を前に出して、進み始める。


「……はあ……はあ、はあ、はあ!」


その時、僕のすぐ隣に、佳奈さんが走って来ていた。息を切らして、汗を額にいっぱいかいている。どうやら学校から僕を追いかけてきたらしい。


「田代さん……」


「ケ、ケンジ……あの!アタシ……あの……」


「……カラオケは良かったの?せっさく誘われてたんだから、行ってきたら良かったのに」


「や、やだ……だってアタシ、ケンジと……」


「みんな、僕よりも爽やかで、明るくて、素敵な人たちだよ。僕みたいなのにも気さくに話しかけてくれてさ……。田代さんは、僕よりもそういう人たちと一緒にいるべきだよ」


「…………ねえ、ケンジ。怒ってる?」


「……………………」


……僕は彼女の問いかけには一切答えずに、そのままスタスタと歩いていった。


「ねえ!待って!待ってよケンジ!」


「……………………」


「お願い、話を聞いて!アタシの話……!」


「……………………」


佳奈さんの声がずっと後ろで聞こえている。僕は目を瞑り、聞こえないフリをしてどんどん歩く速度を早めていく。


「あっ!いつつ……」


「…………え?」


でも、いきなり佳奈さんの声は、何か痛がるようなものに変わった。僕は後ろを振り返り、佳奈さんの様子を確認した。


彼女はどうやら、歩道の段差につまづいて転んだらしく、地面に座り込んでしまっていた。


「……………………」


一瞬だけ、僕は彼女の元へ行こうとした。怪我をしていたらいけないと思って。でも僕は……そうしなかった。


また身体を前へと向けて、スタスタと歩き出す。いいよ、彼女のことなんて気にしないで。だって……佳奈さんはずっと僕を騙してたんだ。僕に嘘をついて、僕の気持ちを弄んだ。彼女のことを気にする義理なんか……少しも……。


……少しも……。




『ケンジと一緒に卒業したいし、アタシ頑張る』




「……………………」


目を瞑れば瞑るほど、目蓋に映るのは彼女の笑顔。


僕に向けられた、嘘偽りの顔。


でもそれは、あんまりにも眩しくて……今も心に焼きついている。


「……………………」


僕は来た道を引き返して、佳奈さんの元へと走った。


自分で自分に、すさまじく嫌気がさす。なんでこんなにも、お人好しなんだろうって。なんでこんなにも、貧乏くじを引くような人間なんだろうって。


……だけど僕は、居てもたってもいられなかった。


「佳奈さん」


僕が声をかけると、彼女はハッとした顔で僕を見上げた。


「……足、大丈夫?」


「……………………」


「……見たところ、怪我はなさそうだね。はい」


そうして僕は、彼女に手を差し伸べた。その手を受けた佳奈さんは、ゆっくりと立ち上がった。


「……怪我がなくてよかったね、佳奈さん」


「……………………」


僕がそう言った瞬間、彼女は口をへの字に曲げて、その場で泣き出した。


「うう……うう……」


「……………………」


僕は……なにもしなかった。ただじっと彼女が泣いているのを眺めるばっかりで、指一本、ぴくりとも動かさなかった。


本当なら、その丸まった背中を擦ったり、ぎゅっと優しく抱き締めたりしたいけれど……今の僕には、そんなことができるほど優しくなかった。


「ケンジ……ケンジ……」


「……………………」


「アタシ……アタシのこと……“佳奈さん”って……」


「……………………」


そう言われて、僕は確かに彼女のことを名前で呼んでいたことに気がついた。


「……別に、ただの癖だよ。癖が……抜けきれてないだけだ」


「……………………」


「……ごめん、僕もう……君とは……」


「……ケンジ」


「ん?」


「好き……大好き……」


「……!」


佳奈さんは、僕のことを真っ直ぐに見た。その濡れた瞳で、たくさん溢れ出す涙を拭うことすらしないまま、僕に向かって言った。




「大好きなの……ケンジ……」




……僕は、その目差しから逃れるために、彼女に背を向けた。


そしてそのまま、泣いている彼女を置き去りにして、その場を後にした。ズキズキと罪悪感で痛む胸を、必死に押さえながら。


(……ずるいよ、ずるいよ佳奈さん)


今になって、好きだなんて言わないでよ。


そんな眼で僕を見ないでよ。


君を……君を、信じたくなる。君の言葉を受け入れたくなる。


でも、もう無理なんだ。怖いんだ。それもまた、僕を弄ぶためのゲームだったらどうしようって、どうしても頭を過ってしまう。それも嘘だったなら、いよいよ僕は本当に立ち直れなくなる。


だから……だから……。


「……………………」


僕は、唇を噛みしめた。


今の時期にしては異様な……ひんやりと冷たい風が僕の足元を吹き抜ける。


夏の終わりが訪れていた。






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