エピローグ

第46話 壁は崩壊し繁栄の扉を開く

 悪魔憑き騒動のあった翌朝。

 峠を越えたロシュを修道院横の施療院に預けたところで、マリウスの体力が尽きて眠りに落ちた。仕方ないからエリザベートとヴァンは彼を自宅に連れ帰り、書き物部屋兼書類置き場の隅に転がしておいた。

 それから二人は、パンだけで遅めの食事をとった。先日、ヴァンに友人ができたお祝いにエリザベートは一スー銀貨を渡したため、もう、ソーセージやベーコンどころか、チーズすら買うお金はない。鶏達に頑張って卵を産んでもらうか、保存用に干している魚を食べてしまうしかない。

 テーブル台と脚を壁際に片付け終えたあと、ヴァンはエリザベートに切りだす。


「水汲みを頼むと水瓶か桶に一杯で一ドゥニエです。ワインは壺一杯で四ドゥニエです」


「ん? いきなり、それがどうしたの。そんなこと知ってるよ」


 エリザベートが困惑していると、ちょうど路地を水汲み人が通りかかったらしく、外から「水汲み桶一杯一ドゥニエだよ。御用の方はいませんか?」と声がする。

 ヴァンはエリザベートに視線を戻すと、首を左右に振る。


「ボクは知りませんでした。でも、今は違います」


 察しのいいエリザベートだが、ヴァンの意図が分からない。


「お金を払えば水汲みを代わりに行ってくれる人はアイガ・モルタスに何人もいます。みんな、路地でお客を探しています」


「うん。家の前も通るから彼らの声を聞かない日はないね」


「そうです。だからボクも覚えました。アズさんが近づいてくることも、豚の鳴き声で分かります。……でも。エリザベート親方の理髪店が『自由通り』の五番地にあって、四ドゥニエで髪を切ってくれることは、誰が知っていますか?」


「んー? 誰って……」


 隣近所の人達、リュシアン、川で溺れかけた兵士、漁師達、マリウスや他の理髪職人組合、ソフィアのように水汲み場で知り合った女達、城壁の工事をしている職人……。

 数えられるほどだ。


「家畜の移動を見学した後、夜警をしていたときにマリウスさんが言っていました。エリザベート親方の店の前は、路地が綺麗に掃除されていて髪の毛が落ちていないから、そこが理髪店だと気づきにくい。だから、切った髪と髭は店の前に捨てておけって」


「あー。言いたいことは分かった……。でも、店の前を不潔にしろという助言を聞き入れるつもりはないから」


 商品やサービスを宣伝するには、店の看板や商品を実際に見てもらうか、声で言って聞かせるしかない。エリザベートの理髪店にはそれが欠けている。彼女だって、それくらい分かっている。


「あと――」


「なに。あいつ、まだ何か言ってたの?」


「はい。男の職人は、自分自身が宣伝になると言っていました。マリウスさん達は毎日、周りが仕事に出掛ける頃、お店の前で自分の髭を剃っているそうです。それから、髪の毛を整えて、街を歩くそうです」


「ぐ、ぬ……。確かに店の前で髭を剃っていたら、髭を剃りたい人がやってくる……。経験に裏打ちされた助言ね……。髭のない私には真似できない。それに、マリウスは朝っぱらからよく歩き回っている……。あれは宣伝だったのか……」


「昨日の夜は、こう言っていました。エリザベート親方は髪が綺麗なんだから頭巾を被って隠すんじゃなくて、髪を束ねずによく見えるようにして外出し、男より女の客を集めた方がいいだろうと。香水をつけて街を歩けば、誰もが目と心を奪われるはずだと、熱く語っていました」


「……一理ある。でも、男の助言を聞かないといけないなんて屈辱だし……」


「それが良くないって言っていました。エリザベート親方は頑固なところがあるから、無理矢理にでも言うことを聞かせるような強い男が夫に相応しいんだと言っていました。お前からもエリーには俺が相応しいって、さりげなく言っておいてくれ。俺達が上手くいったらお前には俺の妹を紹介してやるからと言われました」


「ヴァン。最後に『絶対にエリーに言うなよ』って言われたんじゃない?」


「いえ。話がそこで、悪魔憑きの騒動になったので……」


「あー」


「マリウスさんは言っていました。とにかく宣伝をして売り上げを増やせと。エリザベート親方の店を狙っている男は多いそうです。そこで、ボクは考えました。水汲みやワイン売りみたいに、大きな声で宣伝すればいいんです」


 ヴァンは微笑み、大きく息を吸う。


「『自由通り』五番地! 女親方の理髪店です! 四ドゥニエで髪を切ります!」


 エリザベートは耳を押さえながら、目を白黒させる。


「ボクに任せてください」


「君、そんな大きな声を出せたんだ……」


 隣の部屋から、目の下に濃い隈を拵えた男が這ってくる。


「な、何事だ……」


「あー。マリウス。ごめん。寝てていいわよ」


「いや……。仕事があるし、帰る」


「そ。……ありがと。理髪職人のマリウス。同業の親方としてエリザベート・ド・トゥールーズは髪に誓って、貴方に感謝するわ。ありがとう」


 エリザベートが普段より丁寧な口調で礼を言うと、マリウスは僅かに目を大きくした。


「あ、ああ……。気にするな。困ったときは、助け合いだからな。俺も助けられた。ありがとう。……昨晩のことは誰にも言わない。聖ルイと聖ルカと愛に誓う」


「最後の一つが余計。すぐ帰れ」


 真剣な眼差しを茶化すように、しかし、軽く笑いながらエリザベートはマリウスの背中を押す。「俺は本気だ」と言い残し、マリウスは睡眠不足の重い足を引きずって帰っていった。

 エリザベートとヴァンはマリウスの背中が見えなくなるまで見送った。


「親方。では、ボクも行きます。大きな声で宣伝してきます」


「待って。行ってきます、じゃなくて、行きましょう、でしょ?」


 エリザベートはヴァンを正面から抱き、左右の頬に唇で触れ、音を鳴らす。


「はい。ヴァンもして」


「て、照れます」


「ほらほら」


 エリザベートが少し腰を落とすと、ヴァンが頬に唇で触れてくる。

 南方特有のからっとした陽差しに包まれた街を二人は並んで歩きだす。

 大通りに出ると人々の喧騒が波のように押し寄せ、パンや肉を焼く匂いが雲のように膨らんだ。人混みを掻き分けて商品を乗せた荷馬車が通り過ぎ、豚が人々の足下を縫って走り、城壁工事の音に張りあって行商人が声を大きくする賑やかな街だ。

 ヴァンが胸いっぱいに息を吸って、仰け反る。


「『自由通り』五番地! 女親方の理髪店です! 四ドゥニエで髪を切ります!」


 なんの心配も要らない元気な声だった。商人も目利きの客も一瞬手を止めると、首を動かして声の主を探した。


「さて。ヴァンが頑張ってくれるから、私も意地を張るのを少しだけやめて、男の助言を聞くことにします」


 エリザベートは頭巾を取り、長いホワイトゴールドの髪を露わにする。手入れのよく行き届いた軽くて滑らかな銀糸が、微かな風に乗って舞い、ラベンダーの香料が僅かに漂う。

 二人は街を一周した。修道士に道を譲り蟷螂のポーズ、城壁の工事現場で先日診た怪我人の容体を確かめ、葦屋の前を通り過ぎ、仕事帰りの漁師とすれ違い、豚の排泄物を路上に掃きだしている路地を避けて、消石灰に溶けた脂肪の臭いが溜まった区画を速歩で抜けて、聖ルイ広場でペタンクをする老人達に愛嬌を振りまき、領主の館の前にある共用のパン焼き釜に並ぶ女達に宣伝し、家に帰った。

 二人が店に戻ってすぐ、出入り口ドアが開いて鈴が鳴った。さっそく宣伝の効果が現れたのかと思えば、違う。訪ねてきた男が船の形をした帽子を取ると、髪は綺麗に整えられているし髭も綺麗に剃られているから、理髪目的の客ではない。

 エリザベートは一瞬だけ考え込み、それが東側城壁の工事を監督している男だと気づいた。


「ごきげんよう。ムッシュ」


「こんにちは。レナールさん」


「ごきげんよう。エリザベート。ヴァン。今日は先日の治療費をお持ちしましたよ」


「あ。いいタイミング。ねえ、このお店の位置、すぐに分かりました?」


「ええ、もちろん。住所を聞いていたので。そこの窓から覗いて貴方の姿が見えたので、ここかなと」


「ということは、覗かないと分からないかもしれないということか……。悔しいけどマリウスの言うとおりか……」


「おや。何かお困りで? よろしければお話を聞いても?」


「それが……。うちが理髪外外科医院だって分かりにくいらしくて」


「ほう。それでしたら、この窓を大きくしたらどうですか?」


「え?」


「見たところ、この建物は元々店舗としての使用は想定していませんね。窓が小さい。外から中の様子を見にくい。ふむふむ」


 レナールは窓に近づき周辺の壁をジロジロと観察する。


「石は重いから、壁の自重で潰れないようにするため窓は小さくする必要があるんです。ですが、これなら私の設計で改築工事をすれば大通り沿いのお店より、もっと窓を大きくできますよ。開口部を大きくし、パリのおしゃれな商店のように、上下開閉式の鎧戸ヴォレ・バタンを設けましょう。上の扉は日を遮る庇になり、下の扉は商品を陳列する棚になります」


「それは凄く魅力的なお話だけど、お金がないわ」


「お安くしますよ。というのも、大量の石を使って工事していると、どうしても城壁では使いにくいような薄い切片や表面がツルツルした石が出てしまうのです。そういった石を採用すれば、工賃はお安くすむでしょう。それと、これから夏が来て暑くなってくると東側の城壁外で、午前中は働けません。職人の手も開いてきますからね。ここなら日陰で工事をすることもできる」


「それでもまだ厳しいわ。明日のパンは買えてもベーコンは躊躇うくらいの懐事情なのよ」


「そこでどうでしょう。これから半年間、石工や大工など工事に関わる職人を、この店に優先的に通わせます。理髪料金の四ドゥニエを支払うので、代わりに二ドゥニエを工賃として職人に支払ってください。つまり、職人は半額で理髪サービスを受けることができ、同時に貴方は工賃を支払うことができる。しかも、工事中の期間、貴方は店を営業し続けることができる。職人が客なのですから」


「え? それは……。ありね。でも、話が美味すぎるわ」


「ふふっ」


 レナールの笑うタイミングが不自然だったため、エリザベートは訝しむ。


「……あ、いえ。失礼。リュシアン様の仰るとおりでしたので」


「んー? なんであいつの名前が出てくるんですか?」


「あの女は疑ってくるだろうから、そのときは正直に話して良いと言われていますので、言いましょう。壁面のリニューアルを提案しろと仰ったのは、他ならぬリュシアン様なのです。昨晩の礼だと言えば通じるとのことでしたが、いかがでしょう」


「なるほど」


 つまり、悪魔憑きの脅威からアイガ・モルタスを護ったことへの謝礼として、城壁を造る際に余った材料や余剰の労働力を提供してくれるということだ。


「納得した。じゃ、遠慮なくお願いするわ」


「エリザベート嬢が契約書を書けると聞いておりますが?」


「ん。公証人だからね。契約書はラテン語でいい?」


「ええ。もちろん」


「じゃ。さっそく書きます。ヴァンもおいで。文字の書き方を教えるから、見学しなさい」


 こうしてトゥールーズ理髪外科医院のリニューアルが決定した。



 半年後。

 壁は崩壊し繁栄の扉は開かれた。

 亡き先代親方への誓いは果たされ、理髪店は大勢の客で賑わう。

 明るい店内と、理髪後の髪に香水をかける女親方ならではの配慮は女性客に好評だった。

 女性客を目当てに男達が集まり、意中の相手を射止めたい彼らは女親方に相談する。

 女親方は「私に任せない。女の子に好かれるように、髭を剃って顎をツルッツルにしてあげる」とカミソリを握る。

 徒弟が中庭で育てたハーブから抽出するお茶は数が限られているから、振る舞われた者は幸運だ。

 トゥールーズ理髪外科医院。そこは、いつも二人の看板娘が笑顔で出迎えてくれる、市民の憩いの場。

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1310年南フランス城塞都市の理髪外科医と悪魔憑き ~同業者からの嫌がらせになんか屈しない! 私は「理髪外科医」兼「公証人」でラテン語だって話せるんだから~ うーぱー(ASMR台本作家) @SuperUper

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