第45話 人に飼われた獣が仲間を呼び、
悪魔憑きをして意識を奪われる程の鮮烈な気配が、メリサンドの背後に出現した。病的なまでに白い馬は霧のように消え、剣を手にした偉丈夫が残る。金の髪と青い瞳を持ち、アイガ・モルタスの都市民とはまったく異なる雰囲気を纏う騎士だ。
「振り向くが良い。悪魔憑き」
「ほら。騎士様は正々堂々、正面から貴方を処刑してくださるわ。全力で抗いなさい。痛いわよ」
「我はフランス王に忠誠を誓い、アイガ・モルタスの城代を務めるリュシアン・ド・マルティニー。紋章を有し聖剣を持つ我に相対するに相応しい高貴なる者ならば、名乗れ」
騎士は剣を上段に構える。柄に聖ローランの奥歯が埋め込まれた、あらゆる困難を打ち破る聖剣だ。
メリサンドは顔を青ざめさせ額に脂汗を浮かべ、動かない。背後に現れた聖剣が自分にとって致命的だと直感で理解しているのだろう。
「な、なんで、聖剣を持つような騎士が、悪魔憑きの言いなりになって……」
「貴婦人から袖が送られてきたのだ。剣を振るうよりあるまい」
リュシアンの首元に、先程エリザベートがルー・ドラペに送らせた袖が掛けられている。本来なら、貴婦人から送られた手袋や袖は兜や槍に付けて飾りとするのが作法だが、平服で狼対策の指揮を執っていた彼の衣装に、貴婦人からの贈り物をかける場所はない。血文字で聖剣が指定されたのだから、槍を持つこともない。
「愛も忠誠も要らないから、洗って返してね」
「当たり前だ。妻以外に捧げる愛があってたまるか。だが、血で汚したのはお前だ。お前が洗え。赤い服に血で文字を書きおって。読む方の身になってみろ」
「あんたの首に巻かれたから汚いって言っているの。中年の加齢臭は簡単に取れないんだから、皮革職人か羊皮紙職人の工房に行って、消石灰を溶いた水につけて軽石でしっかり汚れをこそぎ落としてきてよ」
「洗濯は女の仕事だ」
「それさえなければ、髭を剃るだけでいい男になるのになあ」
メリサンドよりも遥かに力の強い悪魔憑きを倒した実績のある英雄リュシアンが現れた時点で既に勝敗は決したも同然だ。だから、エリザベートはわざわざ大声で長々と喋って悪魔憑きの注意をひきつける必要はないのだが、三年前に自分を斬った男を目の前にすると、どうしても嫌みを言わなければ気がすまなくなる。
――かつて、エリザベートは自覚のない悪魔憑きだった。
エリザベートは、トゥールーズ理髪外科医院の先代親方アンリ・ド・トゥールーズとローマで出会った。彼女は脚を負傷していたアンリを治療し、巡礼者への献身としてアイガ・モルタスへの帰路を支えた。
エリザベートがアイガ・モルタスの城門を潜ったとき、先日のヴァンと同じようにリュシアンが聖剣による判別を行った。
自覚のないエリザベートは嘘を吐く必要もなく「悪魔憑きではない」と答えた。
聖剣は反応しなかった。
夜に尋常ならざる膂力を発揮する悪魔憑きでも、日中は限りなく力が衰える。また、本人が偽りなく正直に話しているため、聖剣の反応は弱かったのだ。エリザベート自身、夜中は寝ているので己の異常な力に気づくことなく育った。
だが、リュシアンは微かな違和感を抱き、エリザベートを警戒した。
数ヶ月後の夜、エリザベートはクラゲの毒に犯された漁師を治療した。それが結果的に相手を眷属にする行為だったのだが、彼女は知らずに漁師の患部から口で毒とともに血を吸い取った。吸血により――厳密には唾液による感染により、漁師は悪魔憑きとなった。エリザベートはワインで消毒をし亜麻布の包帯を巻いて、清潔にするように指示して別れた。
その直後、漁師達は月の光を浴びて人狼に変貌した。混乱した漁師人狼は助けを求めてトゥールーズ理髪外科医院に駆けこむ。それを証拠として、エリザベートはリュシアンの聖剣に斬られた。
それ以来、エリザベートは悪魔憑きとしての能力を失っている。物心ついた頃から眷属だったルー・ドラペと、斬られる前に眷属にした漁師が彼らの善意と好意により、力を貸してくれているだけに過ぎない。エリザベートの常人より優れた身体能力は悪魔憑きだった名残か彼女本来のものかは不明だ。
青い月明かりが聖剣の刀身で跳ね返り、エリザベートの胸を照らす。かつて自分に振るわれた聖剣の痛みを思いだし、エリザベートは顔をしかめる。
その瞬間、メリサンドは無数のコウモリに分裂すると、エリザベート目掛けて飛翔。
同時にリュシアンが踏み込み聖剣を振るう。月明かりが剣を見失い、軌跡の残光が遅れる程の斬撃。落雷のような光と音が炸裂し、剣の軌道上にいたコウモリが焼失。刀身が再び月明かりを纏う間もないうちにメリサンドは異形の姿を維持できなくなる。
宝石が散りばめられた煌びやかな鞘に聖剣が収まる音と、力を失った悪魔憑きが倒れる音が重なった。
「あ、が、が……」
「我が聖剣は悪魔の異能を斬る。異能という鎧を失った貴様が、次の太刀を浴びれば肉体が裂かれるだろう。抵抗はやめよ。騎士ではない者の首を刎ねるような不名誉を我に与えようなどとは思わぬことだ」
「ぐ、が……あ……」
「苦しくて喋れないって。体に傷はつかないけど、多分、本当に斬られたのと同じ痛みよ。死ぬほど痛いから」
エリザベートは同情混じりの声を漏らすが、城代は既に明日以降のことを考えている。リュシアンは中州に倒れた者達の姿を確認し呟く。
「処刑台が足りないな。それに死体で狼を集めるわけにもいかん。地下牢に幽閉するか。エリザベート。お前の眷属に運ばせろ」
「はいはい。みんな。聞いたね? お願い。善意の市民として、城代リュシアンに労働力を提供してください。あとでお礼にパンとワインを腹一杯ご馳走してくれるそうよ」
勝手に報酬を約束したが、都市を悪魔憑きの脅威から護ったのだから安いものだ。
気絶中の者をルー・ドラペで運ぶことはできないため、人の手で運ぶしかない。
漁師人狼の姿のままなら、倒れた二十人を運ぶことなど容易いだろうが、それは途中までだ。アイガ・モルタスの見張りから視認される距離では人間に戻る必要がある。
エリザベート、リュシアン、ヴァン、マリウスの四人はルー・ドラペに乗ってアイガ・モルタスを囲む水堀に移動することは可能だが、漁師に働かせて自分達だけ早々に退散するのも気がひけた。
そこで、多忙な城代リュシアンのみ先に帰って頂き、エリザベート達は虜囚の輸送をする漁師達を励ますことにした。手伝うほどの体力がないから、隣を歩いて時折声を掛けるだけだ。
「逞しい漁師のジャンさん。どうしたらボクも皆さんみたいに強くなれますか?」
「んー? 体がちっちぇのはどうにもならないが、安心しろ。エリザベートの傍にいりゃ、嫌でも神経は図太くなる」
「どういう意味よ。大人しい私が声と身振りを大きくしないといけないのは、貴方達みたいな荒くれ男のせいでしょうに……」
城壁に近づくと、リュシアンが手配した兵士がやってきて、持参した縄で悪魔憑きとその配下を縛った。ロシュを運ぶために木の板も用意してくれた。
ロシュを板に乗せ、マリウスが頭側を、エリザベートとヴァンが足側を持った。
兵士に聞くと、都市の東側城壁周辺に狼の群れが現れたが、既に撃退されたことが分かった。西側城壁の『築堤の門』の跳ね橋を下ろした肉屋組合の者は捕縛された。彼等はロシュから金を受け取り、生きた鶏を解体して東側城壁の外に投げ捨てて狼を誘き寄せていたことを、自白したそうだ。
『ガルデットの門』から都市内に入り兵士達と別れ、三人はトゥールーズ理髪外科医院へ向かった。ロシュを二階に運び上げることは無理なので、理髪店側に降ろして寝かせる。
「えーっと。マリウス。色々と言いたいことや聞きたいことはあると思うけど明日にして」
「ああ……」
「じゃ。おやすみなさい」
「俺はギュイさんのところへ行ってロシュさんが怪我をしたとだけ伝えてくる。夜警から戻ってこないから心配しているだろうし。……そのあと、ここに戻ってくるから俺も泊まらせてくれ」
「ええ……なんでよ……」
「ロシュさんの容体を一人で寝ずに見守るのは無理だろ。俺が交代する。それに……。万が一、意識を取り戻したロシュさんが暴れだしたらお前達だけでは危ない」
「えーっと……。まあ、瀕死のロシュに暴れる元気があるとは思えないけど、確かに一理あると言えないこともないか……。泊めてあげるけど、変な気を起こさないでよ」
「ああ。聖ヨセフと聖ルカに誓って」
「……分かった」
マリウスが出ていくと、エリザベートはヴァンに先に寝るように言おうとした。しかし、彼女は震えていた。
エリザベートはヴァンを手招きして壁際に並んで座ると、彼女を抱き寄せる。
「よく頑張った。ほら。何も怖くないから、安心して寝なさい。うちの鶏達は神の子の教えに敬虔だから、明日もお祈りをするために早起き。早く寝ないと明日の仕事に支障が出るよ。まあ、今更隠す必要はないから言うけど、どうもロシュが人を雇って嫌がらせをしていたみたいで、お客は滅多に来ないんだけどね」
「あ、あの。エリザベートさん。そのことだけど、明日になったら聞いてほしいことがあります……」
「ん。……なんだろう。怖い思いをしたから仕事を辞めたいとか言わないよね?」
「はい。言いません。お店のことについてです」
「ん。楽しみにしとく」
しばらくしてマリウスが戻ってきたので、ロシュの看護を彼に任せて二人は二階に行き床につく。
意中の女性の寝室に入ることをマリウスが躊躇したらしく、交代に呼ばれることはなかった。
二人は元気な聖歌隊が合唱を始めるまで、ぐっすり眠った。
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