1310年南フランス城塞都市の理髪外科医と悪魔憑き ~同業者からの嫌がらせになんか屈しない! 私は「理髪外科医」兼「公証人」でラテン語だって話せるんだから~
第44話 君の秘密を知る者は、君の窮地に救い手とならん。
第44話 君の秘密を知る者は、君の窮地に救い手とならん。
「うわっ! なんだこりゃ!」
潮風に灼かれた上半身を夜風に晒し、動物の皮を腰に巻いた男達は、眼前に迫り来る人狼に面食らったようだ。
人狼は素早く反応して、爪で男の顔を引き裂こうとする。
しかし、筋骨隆々な男は人狼の手首を掴み、ねじり上げ、腹を蹴飛ばし転がす。
「エリザベート。急に呼ぶな、急に」
振り返った顎は数日前に剃ったはずなのに、もう髭に薄く覆われている。
その顔に見覚えがあったヴァンが目を白黒させる。
「あ。漁師のジャンさん」
「おう。嬢ちゃん」
「こら。そこに理髪職人のマリウスがいるでしょ。ヴァンは男の子! いや、まあ、さっきヴァンが『私の方が若くて美味しい』なんて口走っちゃったから、もうバレてるかもしれないけど……」
「はっはっはっ! 確かにヴァンの方が若くて美味そうだ! 大人の豚より子豚の方が美味いからなあ」
漁師が腹を押さえて笑いだす。ヴァンを頭から食べられそうなほど、大きくて豪快な口だ。
「ヴァンを怖がらせないで。あと、私も子豚でしょ」
「違いねえ! 品のない狼どもが涎を垂らして狙ってやがる!」
狼どもの向こうでメリサンドが笑う。エリザベートと漁師の会話が面白かったわけではない。エリザベートを馬鹿にするための嘲笑だ。
「あらあら。貴方、眷属の躾けができていないようね。力のある悪魔憑きかと思ったけど、見た目どおりの子供のようね」
「そうね。貴方の言うとおり。だから、減らず口を叩けないように、ちょっとこいつらを躾けてくれない?」
「いいわよ。たっぷり痛めつけてあげる」
「話は纏まったわ。じゃ、狼退治よろしく」
「おいおい。五人で二十人を相手にするのか?!」
漁師は不満げに目を見開く。
「そうよ。行きなさい! 私とヴァンの髪と肌に指一本たりとも触れさせないように」
「一斉にかかりなさい。若い男以外、全部殺せ」
エリザベートとメリサンドが眷属に指示を出す。
メリサンドの人狼は五つの四人組に分かれ、一人が前に立ちもう一人がそのすぐ傍らに控え、残る二人が距離を置いて隙を窺う体勢だ。集団で個を狩る動きに慣れている。
一方の漁師は欠伸をするか、胸元を掻きむしるか、尻をかくか、髭をしごくか、鼻毛を抜くかしており、危機感は微塵もない。しかし、その背中に勢いよく灰色の毛が生えたかと思うと、肩が膨らみ、脚が伸び、あっと言う間に人狼に変貌した。
体格があまりに違いすぎて、漁師人狼はメリサンドの人狼とは別種の存在にさえ見える。
メリサンドの配下は狼の頭を持つ人間である。それに対して、漁師が変身した人狼は太ももがヴァンの胴体より太く、背丈はエリザベートがヴァンを肩車したとしても、それりも大きいだろう。
その巨体が作る影で月明かりを隠し、前衛の人狼二人を闇に覆いながら漁師人狼は嘯く。
「五人で二十人の相手とはなあ……。聖ペトロに誓って言うが、相手が足りなすぎて弱い者イジメになるぞ?」
戦いの始まりと同時に、その言葉に嘘はないことが分かった。
人狼が姿勢を低くし、まるで最初から四つ足の獣だったかのように、素早く漁師人狼の背後に回りこんで足首に食い付く。機動力を奪おうというのだろう。
しかし、人狼の短い牙は、漁師人狼の厚い毛皮を貫くことは叶わなかった。漁師人狼はまったく気にした様子もなく、人狼ごと足を上げて、地面に振り下ろした。その衝撃で人狼の牙が外れる。
倒れた人狼が踏みつぶされないように、二体めが正面に立ち注意をひく。さらに三体めと四体めが左右に広がりつつ距離を縮め、牽制する。
そうしているうちに最初の人狼が立ちあがり、仲間達のもとへ下がって体勢を整える。
漁師人狼は端から倒れた人狼を踏みつぶすつもりはなかったのだが、人狼達は自分達の集団戦法が通じていると判断した。
「図体がデカいばかりで動きは遅い。老いた鹿を狩るのよりも容易いぞ」
「囲め。倒してしまえばこちらのもの」
人狼は勢いづき、近づいたり離れたりかがんだり背伸びしたりしながら、漁師人狼への包囲を狭めていく。
「ヴァン。マリウス。見てないで。こっち」
エリザベートは二人を促し、打ち捨てられていたロシュのもとへ駆け寄る。
主の意図を汲んだ漁師人狼達は立ち位置を変え、人狼が近づけないように空間を確保する。
エリザベートはロシュの傍らに座り、口元と首筋に手を当てた。
「よし。息はある。けど、あまり動かせないか……。意識を失っているから、ルー・ドラペで運ぶのは無理……」
ルー・ドラペは意識のない者や睡眠中の者を運ぶことはできない。夜中に起きている者を水辺に運ぶことにのみ特化した異質の存在だ。荷車を曳かせることも、乗用馬にすることもできない。
「決めた。ここで治療する。家に連れ帰るより、ここの方が明るいから治療しやすい。マリウス。ロシュの頭の方で膝を立てて座って」
「分かったロシュさんの上半身を起こして、俺の脚にもたれさせるんだな?」
「そ。ヴァン。左腋に腕を回して。トロワで引っ張るわよ。アン、ドゥ、トロワ!」
「トロワ!」
エリザベートはヴァンとともにロシュの上半身を起こす。マリウスが尻を動かして前進し、脛にロシュの背中をもたれさせる。
エリザベートはロシュの顎を持ち上げて仰け反らせる。
「マリウス。手でロシュの顎を引いて。ヴァンは私と代わってマリウスのお手伝い。ロシュの額を押さえて動かないようにして」
「はい」
「じゃ、そのまま。マリウスは瞼を閉じる。そして許可するまで開けないように」
「なんでだよ」
「私の袖を止血帯にするから脱ぐの。分かりなさいよ。あんたのそういう鈍さが色々と誤解の原因だったかもしれないでしょ」
エリザベートは文句を言いながらエプロンを外し頭巾を取り、服を脱ぎ、糸で軽く縫い留めてあるだけの袖を両方、引っ張って千切る。
マリウスが裸を見るかもしれないとか、糸も高いから勿体ないとか考えている余裕はない。
エリザベートはロシュの血を指に付けて袖に文字を記す。これは悪魔憑きの首領を退治するための布石だ。足下を指先で軽く二回叩いてルー・ドラペに袖を託す。
次にエリザベートは裸のまま川の水でエプロンを濡らしてくると、すぐに戻り、ロシュの傷口に触れないように首の周りから血を拭い取る。
「この血の量なら太い血管は切れてない。助かるかも。マリウス。袖を首に巻くから、膝を開いてあたらないようにして。ヴァンはしっかりロシュの首を押さえていて」
「分かった。肩の辺りを支えれば……」
「こ、こうでしょうか?」
「ん。二人ともそれでいい。そのまま」
エリザベートは袖をロシュの首に巻く。
「これで、よし。マリウス、そのまま押さえておいて。薬もワインも果物もないけど、ここで出来るだけのことはした。あとは本人次第。ヴァンは左手をロシュの口と鼻の上に持ってきて。そう、そこ。息をしているか常に確かめて。息が止まったら教えて」
「は。はい」
「さて」
エリザベートは立ちあがり手早く服を着ると、中州の中心へ体と視線を向ける。
人狼達はすべて地に倒れ伏し、漁師人狼五人がメリサンドを囲んでいた。
「よし。偉い。よく、『待て』ができました。君達じゃ絶対に勝てないからね」
漁師人狼が一歩下がり包囲を緩める。
配下が打ち倒されたのに焦る様子もなく、メリサンドは退屈そうに欠伸を漏らす。
「代わりなんて補充すればいいんだから、別に殺してくれても良かったのよ?」
「さ。降伏してくれないかしら?」
「降伏? どうして? 私はまったく窮地に陥っていないのよ。貴方自身が言ったでしょ。彼らでは絶対に私に勝てないと」
服に付いた綿埃を払うような仕草でメリサンドが右腕を振る。右腕は崩れるように形を失うと、数十のコウモリに変化して飛翔。
漁師人狼が地に伏せるように低く飛び退くと、コウモリはその先に倒れていた人狼に向かう。コウモリの一群が飛び去ったあとには、人の頭部と足首しか残っていなかった。
コウモリはメリサンドの元に戻り右腕を形成する。
「誰も私から逃れられないし、誰も私を傷つけることはできない」
「えええ……。ジャンが今、思いっきり避けてたよね……。頑張れば逃げ切れるんじゃないかな……。というか、貴方は狼に変身しないの?」
「貴方、生意気だけど顔は綺麗だから、私が食べてあげる」
メリサンドがエリザベートに向かって歩きだす。漁師人狼達が行く手を遮ろうと爪を振るうが、メリサンドの体を突き抜ける。爪が触れた瞬間、彼女の体はコウモリに変化し、即座に元の形を作っている。
「ふふふ。この娘を食べたあと、お前達を飼ってあげるから大人しく待っていなさい」
「さっき見なかったの? こいつら、髭もじゃのおっさんよ」
「屈強な男がひれ伏して言いなりになるのが楽しいのよ」
「あ。それ分かる。やっぱ、これからの時代は、女が男に命令してこき使ってやるべきよね」
両者の距離は一杖。メリサンドがその気になれば瞬時に無数のコウモリがエリザベートを襲い、彼女の肉体は僅かな骨を残すのみとなるだろう。
「ええ。本当にそう。貴方とは分かりあえそうだったから、残念だわ」
「ほんと、残念。これからもっと分かりあえるから。聖剣には勝てなかったよ、って」
「何を言って――」
突如、メリサンドは雷神トールの槌に打たれたかのように硬直する。
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