第43話 聖骸布の襞

 メリサンドは内側の格子戸を同じようにして通過し、城壁の内側に姿を現した。

 黄金色の瞳と、血の色が染みついたかのような唇以外は、闇の色に覆われている。


「あら。美味しそう。都市に入って早々、若くて新鮮な血を飲めるなんて嬉しいわ」


 赤い唇から漏れた冷たい声が夜気を纏い、闇に漂った。

 メリサンドがエリザベート達の方へ歩きだす。城壁内に沈殿した空気を底からかき混ぜるような、遅い足取りだ。

 エリザベートは斜め後ろに後退してヴァンを背中に庇う。しかし、メリサンドの狙いはマリウスだった。身がすくんでいるのか、動けずにいるマリウスの眼前にメリサンドが迫った。メリサンドが抱擁するように両腕を開き、口を開けて剥きだした牙をマリウスの首筋に近づける。


「マリウス! ぼうっとしてない!」


 エリザベートはマリウスの襟を背後から鷲づかみにし、強引に引っ張る。一瞬マリウスの足が浮き、メリサンドの牙と腕から逃れる。

 獲物を失ったメリサンドはゆっくりと腕を閉じて、自らの体を抱きしめると、幽玄な音色の笑い声を響かせる。


「あらあら? どうして意地悪をするのかしら。その子、貴方のいい人?」


「むしろ逆ね。私と結婚しようとする悪い人なのよ」


「あら。素敵な男性なのに、どうして結婚をお断りするのかしら?」


「貴方には関係ないでしょ」


「まあ。なら私にくれても良いのではないかしら?」


「貴方に渡したら、トレソンやオーケンの人みたいに、血を飲んで殺しちゃうでしょ」


「あら。貴方、色々と訳知りのようね。ならこうしましょう。私達はこれからこの街を毎晩襲うつもりなの。ここには人間が大勢いるんでしょ? きっと血を飲み尽くすのに何ヶ月もかかるわ。だから、その男は殺さない。毎日少しだけ血を貰うわ」


「信じるわけないでしょ。貴方は私達を全員殺すわ。貴方達は街の何処かに隠れ潜むつもりだろうけど、そのことを知っている人が一人でもいたら困るでしょ? 私、貴方の顔、覚えたもの」


「そうね。困るわね。利発なお嬢さん」


 格子戸が半ばまで上げられ、次の脅威が都市に踏み入ってくる。

 格子戸下端の大釘をかがんで避けながら次々と侵入してくるのは、杜撰な治療で歪んだ傷跡と真っ黒な髭で顔中が覆われた男達。指のない者、顎が割れた者、耳が片方だけの者、片脚を引きずる者……誰もが争いに満ちた生を送ってきたことが分かる風体だ。

 狭い城門内を通り抜けてくるからその全容は分からないが、背の低いエリザベートから見えているだけでも両手では数えられないくらいいる。


「お前達、存分に月の光を浴びなさいくるいなさい


 メリサンドが合図すると、男達の鼻と口が前方に突きだし、毛で覆われていく。男達は瞬きの間に人狼と呼ぶに相応しい姿に変わった。

 前方に意識を集中していたエリザベートは、背後で息を吞む気配がしたので、まだヴァンとマリウスが逃げていないことを知り、背筋に冷たいものを感じた。

 メリサンドの体が浮くようにして、城壁の傍へ下がる。


「男は生け捕り。女は食べていいわよ。狼の仕業に仕立てあげるから、頭の骨だけは残しなさい」


 人狼が一斉に動きだす。先頭の者は脇目も振らずにエリザベート目掛けて突進し、後ろの者は前の者をなんとか追い越して、最も美味い部分に食い付こうと殺到する。


(どうしよ。避けたらヴァンが危ないし……)


 徒弟の身を案じていると、ようやく背後で大きく動きだす気配があった。


(よかった。やっと逃げてくれ――)


「こっち! 私の方が若くて美味しい!」


 手燭を投げ捨ててこっそり逃走してほしかったのに、ヴァンは炎を振って叫びながら走っていく。


「ヴァンンゥ?!」


 エリザベートが振り返るのと同時に、マリウスが飛びついてくる。


「エリー!」


「うわっ!」


 ヴァンの方に駆けだそうとしたエリザベートと、彼女の前に出ようとしたマリウスの進路が重なった結果、二人は衝突し、もつれ合って倒れる。


「痛ぁっ! ちょっと離れて!」


「くっ! じっとしていろ! 騒ぎになれば、すぐにリュシアン様が来る! 聖ルイと我がルネ親方に誓ってお前は俺が護る!」


「えええ……」


 人狼達は一瞬呆気にとられたようだ。マリウスを引き剥がしてからエリザベートを食べるか、気にせずに彼から食べるか迷ったのだろう。

 元からエリザベートという限られた肉にありつけそうになかった人狼の決断は早く、ヴァンの方へと体を向ける。

 エリザベートはマリウスの下敷きになったまま、走り去るヴァンの背中に人狼の鋭い爪が迫るのを見た。


「ああっ。もう。帰ってって言ったのに! おいで、聖骸布の襞ルー・ドラペ!」


 エリザベートは嘆き、右手の指先でトントンと石畳みを打つ。すると、彼女を中心にして路地が淡く幻想的に輝きだす。まるで石畳の上に月が出現したかのようだ。

 次の瞬間、彼女達はアイガ・モルタスの西に流れるヴィドゥール川の中州にいた。

 何が起きたのか理解できた者はいない。エリザベートただ一人を除いて。

 エリザベート達とメリサンド達はそれぞれ病的なまでに白い馬に乗っている。

 しかし、胴の長さが異なる。

 エリザベートの前にはヴァンが、後ろにはマリウスが乗っている。三人の乗る白馬はやや胴長だが、馬の体格をしている。

 一方、メリサンド達が乗る――強制的に乗せられた馬は、人狼に変じた悪魔憑き二十人が座れる胴長である。地上のどのような生物よりも胴が長く、短い脚が伸びた異形の大蛇のようにも見える。


「わっ。な、なんですか、これ」


「怖くないから。安心して」


 エリザベートは背後からヴァンのお腹に腕を回して軽く抱き、彼女の後頭部に軽く鼻を埋める。


「この子はルー・ドラペ。夜中に出歩いている悪い子を連れ去るお馬さん。なーんで、噂になってるんだろ。都市内で呼んだのは三年前に一回っきりなんだけど、そのときに見られちゃってたのかな。……あ。背中に乗せた人を水に沈めて殺すなんてことはしないから、安心して。ただ、水辺に一瞬で移動できるだけ。大人しい子よ」


 スコットランドのケルピーを筆頭に、水辺に出現する怪異は馬の形をとることが多い。彼等は人々を水辺へと誘い、水底へ引きずり込むという共通点を持つ。

 幻獣聖骸布の襞ルー・ドラペは、ヨハネの黙示録に登場する死を宣告する騎士が駆る白馬のような姿をしており、毛並みは病的なまでに白い。それは聖人の遺体を包む布のドレープを語源とする幻獣であり、エリザベートが物心ついた頃から彼女に従う眷属である。

 ルー・ドラペは夜間に出歩く者を強制的に背に乗せて誘拐し、最寄りの水辺に瞬間移動するという特異な能力を持つ。その背は伸縮自在で、最大で百名近くを乗せる。その能力を無効化するには、幻獣が出現する瞬間に神の子と聖母と聖人の名を唱える必要があるが、それは待ち構えていたとしても、流れ星に願いを唱えるよりも難しいだろう。

 胴長の馬は雲が散るように霧消し、背にいた者達は自らの足で中州の砂利を踏む。


「貴方、いったい何をしたのかしら? いや、何者だ?」


 メリサンドの声音に、先程まではなかった警戒心が見え隠れする。

 エリザベートは普段と変わらぬ態度で応じる。


「えーっと……。貴方の三年前にアイガ・モルタスにやってきた先住民、かな?」


「もしかして同族かい? だったら私達の苦労は分かるだろう」


「まあ、そう、ね……」


「なら話は簡単だ。お互いに縄張りを決めて、干渉せずに生きていこう。広い街だ。食糧には困らない」


 食糧って言っちゃう人とは、仲良くなれそうにないな――エリザベートがそう言うよりも先に、悲鳴じみた叫び声があがる。


「メリサンド! その女がエリザベートだ! そいつが生きていたら、俺はアイガ・モルタスで親方になれない! 約束を守れ! そいつを殺せ!」


 ロシュが掴みかからんとする勢いでメリサンドに迫る。

 その言葉でエリザベートは大凡のことを察した。


(あーっ……。そうだよね。ロシュはマリウスより年上だし、鬱屈した思いは大きかったか。街の外に理髪サービスで出掛けたとき、偶然この悪魔憑きに遭遇して利用されたのね。狼騒動もロシュの企みか)


 エリザベートの推測は正しい。だが、彼女が真相をロシュから聞く術は失われる。

 メリサンドがロシュの首を掴むと、血の臭いが広がった。親指が根元まで突き刺さっている。


「ああ。そうだったね。アイガ・モルタスに招いてもらう代わりに、エリザベートという女を都市から排除するんだったね。約束は守ろう。けどね。私に指図することは許されないよ」


 ヴァンが小さく悲鳴をあげ、マリウスが息を吞む。

 二人にこれ以上怖い思いをさせたくないエリザベートは敢えて軽い調子で言う。


「あのさ。私もけっこう、危うい立場だから、ロシュの証言が得られなくなるのは困るんだけど? ロシュには全部、私の仕組んだことですって証言してもらいたいのよ」


「あら、そう。けど、気にすることはないわ。もちろんこいつは利用するだけの使い捨てだけど、群れの長として私は部下の前で約束を守る姿勢を示さないといけないの。だから、貴方は殺すことにしたわ。貴方が何者か知らないけど、食べちゃえばただの骨。お前達」


 メリサンドの合図で、二十人の人狼が動きだす。ルー・ドラペを見たあとで警戒を強めているのか、人狼達は距離を詰めずにエリザベート達を包囲するように横へ広がる。

 エリザベート達は周囲を半円状に囲まれた。背後は川で逃げ場はない。エリザベートは泳ぎを習ったことがないから泳げるか分からないし、ヴァンやマリウスが泳げるかも分からない。


「おい、エリー。何してる。逃げるぞ! 川に飛びこむしかない。聖人の加護があれば助かるはずだ。ヴァンもぼさっとしてるな! 来い! 聖ルイと聖ルカの名を唱えて川に飛びこめ!」


「落ちついて。逃げる必要はないし、自分達の能力で解決できる試練を前にして、聖人に助けを請う必要はないわ」


「まさか、お前、あの数の人狼と戦うつもりなのか?」


「なに言ってるの。勝負にならないわよ」


「嘘だろ……。あんなのに勝てる方法があるのか?」


「逆、逆。一対一でも殺されちゃう。人狼の牙や爪は容易く、私達の肌も肉も切り裂くし」


「だったら、逃げ――!」


 左手の人狼が一体、動きだす。最も弱そうな者を小さな群れから引き離すつもりだろう。エリザベートはヴァンが慌てて変なところへ行かないように左腕でしっかりと抱き寄せる。ついでに、腰からナイフを抜いたマリウスが余計なことをしないように、彼の襟も掴む。


「おいで、聖骸布の襞ルー・ドラペ


 エリザベートがつま先で石をコンコンと打つ。

 次の瞬間足下が月の色に輝き、病的なまでに白い馬が現れる。その背には、五つの人影が乗っていた。幻獣は霧のように消える。

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