第42話 悪魔憑きが城門をくぐる

 夜警の三人に追いつくため、エリザベートは音を立てないように早歩きをする。

 アイガ・モルタスから他の村や街に陸路で移動する場合、必ずヴィドゥール川に沿った道を北上して、森の中にあるカルボニエル塔を通過しなければならない。

 カルボニエル塔は周辺の領地を監視し、不審者の出入りを防ぐために設けられた塔だ。見張りの兵士が常駐し、異常があれば松明の灯りや煙でアイガ・モルタスに連絡する。塔を通らずに移動すれば、深く暗い森の中で遭難するか底なしの沼に落ちる危険が大きい。切り開かれた道を通らずに移動できるほど周囲は優しい自然環境ではない。

 当然、アイガ・モルタスの門番も、カルボニエル塔の番人も、通過する人を確認する。もし不審人物がいたのなら兵士が捕らえる。仮にやり過ごしたとしても、リュシアンの捜査線上に浮上するはずだ。

 カルボニエル塔を普段から出入りする者は、穀物商人やワイン商人など、近隣の村で商売をする者だ。もしくは逆に近隣からアイガ・モルタスに出稼ぎに来る者だ。他に巡礼者や遍歴職人といった旅人が通る。もしそれらの中に、トレソンやオーケンの虐殺に関わっていそうな人物がいたとしたら兵士が警戒するし、必ずリュシアンが特定する。

 村での虐殺が伝わる前のことだから、ヴァンはカルボニエル塔を通過できたのだろう。貧しい農民にしか見えなかったから、さして警戒もされなかったはずだ。

 行商人が兵士の目を避けてカルボニエル塔を通過することはできない。何故なら、アイガ・モルタスの城壁を造るための資金源にするため、カルボニエル塔を通る際に関税がかかるからだ。塔を通る商品は、番人が厳しい目で確認する。仮に荷車に乗せた樽の中に不審者が隠れていても見つけだす。

 ということは、アイガ・モルタスの商人がトレソンやオーケンに向かった場合、そこで商品を卸すから帰りは荷車が空になるはずだ。降ろした荷は当然、村に残っているはずだ。もし、小麦袋が大量にあればリュシアンは小麦商人を疑うだろう。塩があれば塩商人を疑う。

 行商人が事件に関わっていれば、必ず何処かに不審な商品が見つかるか、関税の徴収記録に不自然な箇所が表れる。それがないなら、つまり悪魔憑きの手脚となって動いている者は、荷車に乗せるほどの大量の荷物がなく、必要最低限の商売道具のみ持って出掛けて、帰りも同じ手荷物で帰ってきても不自然ではない者。

 すべての条件を理髪職人のロシュは満たす。


(理髪職人なら少ない荷物で都市と村を往復しても不自然じゃない。ハサミと櫛とカミソリと、胡桃かオリーブから抽出した髭剃りクリームがあるだけで十分。悪魔憑きと襲撃の段取りを話すために、短期間に何回も出掛けたとしても、別の村に行ったとか散髪希望者が多いと言えばいいだけ。リュシアンがうちに来て本当に疑っていたのは、ヴァンじゃなくて私だ! リュシアンは私が理髪職人組合からの嫌がらせで、村での営業担当から外されたことを知らないから、私を容疑者に加えていたんだ!)


 ロシュが悪魔憑きの手先だと確信したエリザベートは石畳を蹴って走りだす。都市南西の『ブルゴーニュ塔』がある角まで来たが、三人に追いつけない。

 角を右に曲がると、西側の城壁に唯一存在する出入り口『築堤の門』の前に人影を見つけた。

 都市の東側から狼の咆哮が轟いた。細く長く響く遠吠えではない。まるで戦いの始まりを告げる鏑矢のように、高い位置で爆ぜる音が闇夜を裂いた。最初の獣声に続き、二つ目、三つ目と東側から別の獣声が空を突く。

 狼騒動があったため、警備兵の意識は東と南側へ向いている。おそらく兵士は東の建造中城壁を警戒しつつも、南の家畜を護るために動くだろう。ロシュのいる西側から警戒の目が外れる。

 嫌な予感は確信に変わった。人に見られる怖れは少ないため、エリザベートは全力で走る。高級住宅街の石畳は彼女の力を存分に、地面に伝えた。数回の小さな足音で駆けつけたとき、『築堤の門』の前に人影は二つしかなかった。


「ヴァン! マリウス!」


「エリザベート親方?」


「エリー? 何しに来た」


「とりあえず、ヴァン、ごめん!」


 エリザベートは疑ってきたことが申し訳なくて深々と頭を下げる。


「え? な、何がですか?」


「あとでしっかり説明して謝るから! で、ロシュは何処?」


「えっと……」


「ロシュさんなら、さっき肉屋の夜警と一緒になって、兵士に伝えたいことができたから中に」


「あいつらもグルか! 夜警のときに血の付いた包丁を持っていたのは、鶏か何かの肉を切って城壁の外に投げ捨てて、狼を東に誘き寄せていたんだ!」


「何を言っているんだ、エリー?」


 そのとき、鉄の軋む音がエリザベートの耳をつんざく。音の聞こえた方向へ視線を向けると、完全に暗闇と化していた門下路の先に、薄い線が現れる。城門の向こう側、二枚の格子戸を隔てた先で、昇降式の跳ね橋が降ろされて城門内に僅かな光が射しこんだのだ。

 闇に沈んでいた通路がゆっくりと輪郭を現していく。

 エリザベートは『築堤の門』を見上げる。彼女は塔の構造を知らない。三階に射撃室兼兵士の詰め所があることも、二階に跳ね橋や格子戸用の昇降機があることも知らない。

 だから、何処へロシュを止めに行けば良いのかが分からない。


「夜なのにどうして、跳ね橋が下りるんですか?」


「おい、エリザベート。何か知っているのか?」


「……詳しいことは分からない。けど、ロシュがトレソンやオーケンの事件に関わっていたのは、これで確定。彼は、悪魔憑きをアイガ・モルタスに招き入れた」


「なんだって? 嘘だろ?」


「じゃあ、なんで跳ね橋が降りているの?」


「くっ……。真実は分からないが、夜中に城門を開くのはまずい。止めよう」


「危険よ。肉斬り包丁と、家畜撲殺用の棍棒で武装した肉屋が二人待ち構えているのよ?」


 エリザベートは腰に吊るした革の袋から鍵を取りだし、ヴァンに渡す。


「家に帰って。閂をして、蝶番の革紐をキツくしっかり結ぶように。二階は駄目。逃げ場がなくなるから。一階で私が帰るまでお留守番してて。外から誰かが侵入しようとしたら、丸まって地下貯蔵庫の中に入りなさい」


「え?」


「マリウス。あんたも特別に家の中に入ってもいいから。ヴァンと一緒に逃げて」


「おい。何を言っているんだ。エリー」


「いいから早く。人狼が二十人くらい、侵入してくるの!」


 エリザベートが説得のためにマリウスの目を見て話そうとしたとき、視界の隅で城壁の影が動いた。エリザベートが反射的に見上げると、城壁の上に細長いシルエットが立っていた。


「おいおい。マリウス。どうした。エリザベート親方の言うことには従え。お前は職人に過ぎないが、エリザベートは他店とはいえ親方様だぞ」


 ヴァンとマリウスから目を離すわけにもいかないため、エリザベートは塔内に踏み込んで跳ね橋の昇降機を止めることはできなくなった。


「ロシュさん。親方の言うことを聞くべきだって言うなら、私の言うことを聞いてくれないかしら。今すぐ跳ね橋を戻して、リュシアンの下に両手首を差しだしなさい」


「それは聞けないな。これからお前は行方不明になって、明日から俺が親方になるんだから」


 ロシュが城壁の階段を下りてくる。蝋燭を持っていないのに足取りが確かだ。階段が見えているのだろう。彼自身が悪魔憑きになって、夜目が利くようになったということだ。それは、吸血されて死ぬ前に命乞いをしたのではなく、自ら望んで悪魔憑きの眷属になり、力を与えられたことを意味する。


「どうしてこんなことするの?」


「お前が悪いんだぞ。さっさと親方の身分から退いてくれていれば良かったものを……。これでも色々と穏便に進めようとしていたんだがな」


(ん? この言い方、まさか……)


 エリザベートはロシュから視線を離さず、背中越しにマリウスに小声で尋ねる。


「ねえ、人を雇ってうちに嫌がらせしていた?」


「なんのことだ……。惚れた女にそんなことするはずないだろ」


「あっ、あーっ……。ごめん……。完全にあんただと思ってた……」


「どういことだ?」


「いや、それは私の髪に誓って後日改めて説明するから……」


 ロシュが階段を降り終えるのと時を同じくして、巨岩が倒れるような音が鈍く鳴る。見れば跳ね橋が降りきっていた。

 ロシュは背筋を真っ直ぐにすると、その日最初の客を迎える理髪職人のように、格子戸の奥に向かって恭しく頭を下げた。


「高貴にして偉大なる月下の支配者メリサンド・ノクターナ様。ようこそアイガ・モルタスへ。歓迎いたします」


 二枚の格子戸を隔てたところで、黄金色の光が二つ蝋燭のように浮かびあがる。その光はまるで闇を引き寄せているかのように、不気味な存在感を持つ。

 エリザベートが、まさに悪魔の瞳だと思った次の瞬間、そのシルエットは崩れて無数のコウモリに分裂した。そして、外側の格子戸をすり抜けるようにして、城門内に入る。

 コウモリは暗い隧道の中で集結して裸の女を形作る。女が進む間もコウモリが集結して、やがて踝を隠すロングスカートと首筋まで隠す上着に変わる。最後のコウモリはヴェールとなり彼女の髪を包んだ。

 注視していなければ女が格子戸をすり抜けたように見えたであろう一瞬のことだった。

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