1310年南フランス城塞都市の理髪外科医と悪魔憑き ~同業者からの嫌がらせになんか屈しない! 私は「理髪外科医」兼「公証人」でラテン語だって話せるんだから~
第41話 エリザベートは、都市に潜む悪魔憑きの手先の正体に気づく
第七章 悪魔憑きを招く
第41話 エリザベートは、都市に潜む悪魔憑きの手先の正体に気づく
「はい。これ。アンリさんの帽子。今日は満月だからあまり月の光を浴びすぎないでね」
「ありがとございます。では、行ってきます」
「ん。いってらっしゃい」
牛追いを見学した日の夜、エリザベートは夜警に赴くヴァンを見送った。
エリザベートは彼女の姿が闇の中に消えてから家を出ると、音を立てずにあとを追う。
(ああっ、もう、自己嫌悪。信じてるのにあとをつけていくなんて……。聖ルカ、聖ルイ、アンリさん。新しい家族を信じ切ることのできない弱い心をお許しください)
白い月明かりが亡者の冷たい手のように伸びてヴァンを闇夜の中に誘う。時折、手燭の灯りが揺らめくと、彼女の影は悪魔が踊るかのように見えた。
ヴァンの気配に驚いた痩せこけたネズミが、捕食していた昆虫の足を口から落とし、家屋の壁の亀裂に逃げ隠れる。その土壁には既に、夜陰に紛れて這い出したナメクジの粘液痕が不気味な筋を描き始めていた。
(うー。暗いの平気なのに、なんで今日はこんなにも心細いのよ……)
城壁に囲まれた底に澱んだ空気が冷たく沈殿し、夜の街は静寂に包まれている。
エリザベートは、いつの間にか生きた者はヴァンと自分の二人きりになってしまい、死者の街に迷い込んでしまったのではないかと錯覚に襲われた。
(死者が彷徨うのは異端の教え。そんなこと考えたら駄目。聖者は人助けが忙しくて私を見てる余裕はないかもしれないけど、アンリさんは絶対に空の上から私を見守ってくれている)
ヴァンは道に迷うことなくギュイ理髪店の前に辿り着いた。
既にマリウスが待っていて、時をおかずにロシュが店の中から窮屈そうに出てくる。
三人は挨拶を交わしたあと『エミール・ゾラ通り』のある北へと歩きだす。エリザベートは距離を空けて慎重にあとを追う。
夜警はロシュを先頭にして、後ろにヴァンとマリウスが並ぶ。二人は声を小さくしているためエリザベートには聞き取れないが、悪い雰囲気のようには見えない。
ヴァンが何かに躓いて転びそうになる。
マリウスが慌てたように手を差し伸べる。
しかし大事に至らずヴァンは数歩よろめいたあとに体勢を立て直す。
そんなドジをからかうようにマリウスがヴァンの肩を押す。小柄なヴァンが路地の端に押しのけられるも、すぐにマリウスの隣に戻って並んで歩く。
(生まれたての子豚がじゃれあっているようにしか見えない……)
夜警は『新しい町の塔』がある角を右に回り、南へ進んでいく。姿を隠すエリザベートは家の角に潜み、顔だけ出して三人の様子を窺う。特に不審な様子はない。
(近隣の村が襲われているから、悪魔憑きが存在するのは確か。けど、本当にアイガ・モルタスの近くにいるの? 侵入するならこの東側城壁が最も簡単そうだけど……)
荷車で通路を塞いだだけの城門は防備が薄く、悪魔憑きを呼びこむには絶好の場所だ。しかし、ヴァンに普段と違った動きはなく、停められた荷車やその下を確かめているようだ。
三人はやがて南東に位置する『粉の塔』の手前で右に曲がり、南側城壁に沿って西へ進む。
他の夜警らしき手燭の明かりが近づいてきたため、エリザベートは道を変えてヴァン達を追う。
南側城壁のすぐ外は家畜の避難場所になっている。エリザベートは詳細な人数を知らないが、塔にはそれぞれ何人かの男が見張りについている。城代に仕える兵士や、農家から募られた有志だ。獣油を使った松明に特有の、オレンジ色の炎が塔の上で揺れている。
塔の屋上にいる兵士達はクロスボウを高い位置から撃てる。クロスボウは近距離から真っ直ぐに突き立てば騎士の甲冑すら貫通する恐るべき武器だ。悪魔憑きも容易には侵入できないだろう。
手引きする者が外部と連絡が可能なら、見張りの多い南からの接近は避けるように指示するはずだ。
(都市の警備が強くなったから、悪魔憑きは侵入を諦めた可能性ってあるかな? 遠くの村に行った?)
夜警の三人は足を速めて進んでいく。南は見張りが多いから、自分達の出る幕はないと判断したのだろう。
エリザベートは路地を隠れながら進み、自分が潜んでいる木造家屋の板の隙間から微かに豚の鳴き声を聞いた。アズが住み込みで働く豚飼いの家だ。
(こんな夜中に非常識だけど……。どうしても気になる……)
エリザベートがヴァンの様子を思い返すと、都市に来てから不自然な点は何もない。だが、都市に来る直前は違う。どうやって、ヴァンは狼に追われながら無事にアイガ・モルタスに辿り着いたのだろうか。狼に変身した悪魔憑きが、ヴァンを都市に潜入させるために一芝居うったのだろうか。それこそが、唯一残ったヴァンに対する不信感だ。この、足に刺さった棘さえ抜ければ、エリザベートはヴァンを完全に信頼できる。
エリザベートは木のドアをそっとノックした。中の誰にも聞こえないかもしれない。しかし、大きな音を立てるわけにもいかない。何度かノックを続けると屋内で何かが動く気配がした。
「いったいなんですか?」
アズの声だ。雇われ人だから小間使いも兼ねているのだろう。
「『自由通り』のエリザベートよ。アズ。こんな夜中に急で悪いんだけど、話を聞かせて」
「エリザベートさん? 別に構いませんが……」
アズが外に出てこようとするから、エリザベートは体で遮る。
「大きな声を出さないから、中で話させて」
「え、ええ……。なんですか?」
エリザベートは豚の逃走防止用の板を跨いで家の中に入る。
「教えて。水汲み場から城門まで、もし狼に追いかけられたとして、アズは逃げ切れる? 変なこと聞いてごめん。でも大事なことなの。教えて」
「無理ですよ。狼が飛びこんできたら豚が暴れて好き勝手に――」
「ごめん。聞き方が悪かった。アズが手ぶらで一人でいる場合。狼が一頭追ってくる状況で」
「え? えっと……。矢が届くのよりも長い距離を走って逃げるんですよね? 十中八九逃げ切るのは無理です。狼の方が速いです」
「そうよね。やっぱり無理だよね……」
それは、ヴァンを追っていた狼が普通の狼ではなく、悪魔憑きの変身した姿だったことを意味す――。
「……けど、条件にもよりますが、運が良ければできないこともないかと……」
「え? 不可能じゃないの?」
エリザベートが声を大きくするから、アズが肩を強ばらせる。足下の豚が鳴きながら去っていった。
「え、ええ。不可能とは限りません」
「可能なの?」
「はい。狼は基本的に群れで狩りをします。けど、交配相手を探すために群れから出ていった若い雄や、群れの移動についていけなくなった弱い個体は一匹になります。いわゆる一匹狼です。若い雄から逃げるのは難しいですが、歳をとって群れから落後した狼は狩りをする能力も衰えていて、群れの食べ残した死体を漁るしかありません。当然、脚も遅いです。狼はハシバミとかの植え込みが苦手だから、灌木に張りつくようにして走れば逃げ切れるかもしれません」
(ヴァンも、狼はハシバミの棘が苦手だって知ってた! つまり、水汲み場から城壁までヴァンが狼から逃げ切ることは可能。そうよ。あの子が悪魔憑きのはずがない。ヴァンは悪魔憑きとは関係がなかった! 私の勝手な思いこみ! ごめん! でも、リュシアンは確かに、トレソンやオーケンの村人が血を抜かれて殺されていたって言っていた。トレソンの犠牲者が最後に遺した言葉「痩せた男」が関わっているのは間違いないとして、リュシアンがうちに来たってことは、ヴァンが疑われているってことだし……)
「エリザベートさん?」
「あ。ごめん。ありがと。今度お礼に髪を切るから来てね。おやすみなさい」
エリザベートは一方的に会話を打ち切り、アズの家を出た。
アズが語りきれなかった理由の他に、親が子に狩りを教える場合がある。獲物が疲弊しきるまで親が追跡し、最後のトドメのみ子に任せる。また、エリザベート含めて全員が、狼犬を狼と勘違いしていた可能性もある。狼と犬の交雑種が犬の性質を強く受け継いでいれば、人間を恐れずに近づき懐くこともありうる。
つまり、ヴァンを追った狼が最初から彼女を打ち倒すつもりがなかったなら、逃げ切ることは可能だ。
「おっと……!」
豚飼いの家を出たエリザベートは何か小さな物を踏んで足が滑り、転びかける。
「ん? これは……。サクランボの種。ロシュがいつも捨ててる……。あっ!」
偶然、すべてが繋がった。いや、月と星座の配置による天の摂理と、守護聖人とアンリの加護によって、エリザベートはアイガ・モルタスに潜む悪魔憑きの正体に気づいた。
「しまった。『街に来たばかりの者が悪魔憑きを手引きする』って前提が違っていたんだ。悪魔憑きを呼びこむなら、都市の誰でもいい」
最近、近隣の村を訪ねた痩せている男。
ロシュだ。背の高さが印象に強いが、痩せている。エリザベートはヴァンと出会う前日の水汲みからの帰りに、出掛けるロシュとすれ違っている。あの後、ロシュはトレソンに行き悪魔憑きを招いたのだ。
彼は血になるとされる赤い果物を頻繁に食べていた。悪魔憑きに血を吸われて貧血になっているからだ。殺されかけて、命と引き換えにアイガ・モルタスを売ったのだろうか。それとも自ら進んで首筋を指しだし、悪魔の儀式によって異端に堕ちたのだろうか。
他にも痩せた男や、近隣の村へ定期的に出掛ける者はいるかもしれないが、一度疑いだすとロシュとしか考えられなくなった。
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