第40話 ヴァンは同職の若手と仲間になる
牡牛と見つめあっていれば、そのうち騎馬隊が戻ってくるだろうし、時間を稼ぐ方が良いと判断した。
しかし、興奮した牡牛が鼻から吐く息の白い塊が、騎馬隊の帰還を待つ時間はないと告げている。沈みかけた夕日が長く伸ばすエリザベートの影、その頭を牡牛は蹄で削ると、突進し始める。
「わお。こっち来た。慌てずに引き寄せてから避けるよ、ぉっ?」
エリザベートはヴァンの手を引こうとして、空振りした。
小さなヴァンは腕を広げてエリザベートの前に跳びだした。
「ヴァン、危ないよ?」
「う、うわあっ!」
ヴァンは前に進み、牡牛の横から飛びつき両腕で首を抱える。
しかし、牡牛の勢いはまったく衰えない。
「エリザベートさん! 逃げて!」
「えええ……。ヴァンこそ逃げてほしいんだけど」
死すら覚悟したような悲鳴をあげるヴァンと違って、エリザベートは周囲を観察できるくらいには余裕がある。
(周囲にはまだ逃げ遅れた人がいる。牛が灌木に突っ込んだら、首にしがみついたままのヴァンが怪我しちゃう。かといって今更ヴァンが手を離して地面に落ちたら牛に踏まれちゃうかもしれない。よし。決めた。周りの人にぶつからないように、ゆっくり下がっていこう。そんで、いい感じのタイミングでヴァンを抱っこして助ける)
エリザベートは慌てず、背後の気配を探りながら灌木の生け垣を左手にして後退する。
「ん?」
背後から誰かが走ってくる音がする。牛飼いの馬にしては随分と軽い音で、人が走っているように聞こえる。
次の瞬間、エリザベートの横を男が気勢をあげ駆け抜けていった。
「うおおおおおっ!」
マリウスだ。彼はヴァンの反対側から牛の首に抱きついた。
城壁の上から、わあっと歓声が上がり口笛が響く。
二人の人間を首に提げても牡牛は勢いを落とすだけで、脚を止めない。
じゃあ、あとは私が手伝って終わりかな、とエリザベートは考えたが、行動に移す必要はなかった。
彼女の背後からさらに何人もの若者が飛びだし、暴走牛に飛び掛かる。いずれも、名前までは知らないが見たことがある。ルネ親方の徒弟、つまりマリウスの後輩や教え子に相当する者達だ。それだけでなく、ギュイ親方の徒弟もいるようだ。理髪職人組合の若手勢揃いといったところか。
エリザベートは傍観することにした。
「掴め! 掴め! 踏ん張れっ! 止めるぞおッ!」
マリウスは仲間達に檄を飛ばす余裕があるようだが、ヴァンはそうはいかない。眦に涙を浮かべながら「わあああっ」と叫ぶのが精一杯。
「女みたいな情けない声を出すな、ヴァン! 気合い入れろ!」
「は、はいぃぃ! ボクは男ですぅぅぅ!」
マリウスの後輩二人が左右から角を掴み、それでも引きずられ、一人が胴体にしがみつき、両腕が回りきらないので振り落とされて牛か馬の糞の上に転がり、次の若者が牛の尻尾を握って腰を落とし、ようやく行進の勢いは老婆のごとく衰える。
牡牛を止めるために、実に六人の若者を要した。脚を止めた牡牛は気勢を削がれたのか急に大人しくなった。
「し、死ぬかと思った……」
ヴァンは牛の首から手を離して崩れ落ち、泣き言を漏らす。
「だが、最高に生きた心地がしたな!」
肩で息をし、額に汗を浮かべたマリウスがヴァンに手を差し伸べる。
「あ。ありがとうございます」
マリウスがヴァンを立ちあがらせていると、牛飼いの騎馬が三騎、戻ってきた。
「よーし。お前達、よくやった。でかしたぞ。牛から離れてくれ」
ヴァン達が飛び退くと牛飼いは巧みに騎馬を操り、三騎の小さなV字隊列で牡牛を挟み連れ去った。
「おい。ヴァン」
「は、はい」
「ヒョロヒョロの泣き虫だが、真っ先に牛に飛びついた度胸は認める。前は女みてえな面しやがってとか言って、悪かったな」
「い、いえ、気にしてません。ボクは男だから、からかわれてもまったく気にしません」
ヴァンがマリウス達に囲まれている。険吞な雰囲気とはほど遠く、和気藹々としている。エリザベートは晴れているのに雨が降ったときのような、言いようのない複雑な気分になった。
アイガ・モルタスにおいて、いや、都市生活において作られるコミュニティは縦社会になりがちだ。人々は物心ついた頃から家事を手伝うか、工房に弟子入りして住み込みで働く。だから、年長の親方の下で少年は修行し、年端もいかない弟子を得る。こうして、縦社会が作られていく。
ただし、同年代による横社会のコミュニティが作られることもある。それこそ今まさにエリザベートが見ているもので、それは仕事が休みとなる聖人の祝日や日曜日に、ミサや行事が終わったあとに、同年代や同職の者が集まって自然と出来あがる仲間の輪だ。
マリウスを中心にして徒弟達が仲間グループを作っていて、今、その中にヴァンがいる。
(ああ……。ヴァンは受け入れられる。間違いなく、仲間として認められる。そうしたら、悪魔憑きを都市に招く条件を満たしてしまう。……今ならまだ間に合う。私が『用があるから帰るよ』って声をかけてあの輪から連れだせばいい。ヴァンは二度と理髪職人組合の仲間にはなれないかもしれない……。けど、そうすれば、都市は護られる。しょうがないよね……)
エリザベートはヴァン達に近づく。ヴァンが彼女に気づく。その視線の動きを見たマリウスが振り返る。エリザベートは彼が口を開く前に、ヴァンを手招きする。
「ヴァン。お使いを頼みたいから、来て」
「は、はい」
「はい。これ。お金」
エリザベートは腰に提げた袋から銀貨を出して、ヴァンに手渡す。次に、ヴァンの服を叩いて、砂埃を落とす。
「あの。これは……」
「今までのお給料。みんなで牛を取り押さえた記念。あっちで焼いた鶏を売り歩いている人がいるから、みんなと一緒に食べて。新入りの貴方が、仲間に食事を振る舞うの。いい? お金は貯めずに使っちゃうものだからね」
「は、はい」
エリザベートはマリウスに向き直る。皮肉めいたことを強い言葉でぶつけようかと思っていたのに、つい口元は緩む。
「ワインはマリウスの奢りね。若い子達に気前のいいところを見せてあげて」
「ちっ。言われなくても最初からそのつもりだ。これじゃあ、お前に言われたから俺がこいつらにワインを振る舞うみたいじゃねえか」
「あらごめんなさい。私の髪に誓って、貴方の誇りを傷つけるつもりはなかったわ」
「おい、お前等、行くぞ」
「うっす!」
「はい!」
「ありがとうございます! マリウスさん!」
マリウスが肩で風を切って歩きだすと徒弟達が付き従い、ヴァンが一歩送れる。
彼女は首だけ振り返りエリザベートを見つめる。一緒に行きませんか、そういう目だ。
「ほら。男同士の友情を深めて来なさい。職人と徒弟の集まりに、親方が行けるわけないでしょ。私は先に帰ってるから、遠慮せず楽しんできて」
エリザベートはヴァンの華奢な背中を両手で押しだした。
ヴァンは一歩よろめくように進んでから、自分の足で歩き始める。
(同年代の仲間と仲良くなってよね。さて……)
エリザベートはヴァンの背中から視線を外すと振り返り、東の空を見上げる。
夕焼けで赤く染まった空に、薄らと青白い満月が浮かんでいた。
悪魔憑きは満月の光を浴びると狼に変身するという。この言い伝えが本当なら、悪魔憑きにとって絶好の襲撃日和である。
(あっ……。今、都市の外に大勢の人がいる。悪魔憑きが紛れ込んでいても気づかない!)
エリザベートは慌てて首を振り周囲の様子を確かめるが、それはすぐに杞憂だと分かった。
城壁の上に立つ兵士は顔を上げ、家路につく人々の行列ではなく、遠くを警戒している。畑を横切るあぜ道にも兵士が立っている。
城代リュシアンは抜かりなく、軍事を司る者としての責務を果たしていたようだ。
エリザベートは安堵して家へ帰る。
だが、家の前で隣人ジュールの姿を見かけると、彼がヴァンを占った結果を思いだす。
『君に隠せることはない。だが安堵せよ。君の秘密を知る者は、君の窮地に救い手とならん。人に飼われた獣が仲間を呼び、壁は崩壊し繁栄の扉を開く』
君の秘密を知る者とは私のこと。うん。私はヴァンが困っていたら助ける。
人に飼われた獣が仲間を呼び、というのは、牛を切っ掛けにしてヴァンがマリウス達と仲良くなったこと?
まさか、悪魔憑きのことを意味していないよね?
さっき兵士達が見張っていたけど、監視の目を掻い潜って、悪魔憑きが都市に侵入した?
なんで、壁の崩壊が繁栄に繋がるの?
エリザベートは薄暗い室内で、ヴァンが帰ってくるのを待った。
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