レシピ・15「食われる鯨は食べられない」

「…あれ、クジラかな?」


「ああ、くじらだな」


 ――水槽の中には、巨大な鯨の死体があった。



 水族館に入ってすぐ、私たちは下の階にある異変に気がついた。


「おじさん、水槽の底に何か沈んでいるよ」


 一階から階下まで伸びる巨大な水槽。

 そこにはなぜか魚が一匹も入っておらず、下には巨大な影が落ちている。


「行ってみようよ」


 嫌な予感がしつつも先導を切る千春に続く形で私は階段を降りるも、そこには底に倒れ、目の白濁した鯨の死骸しがい


「…どうしよう。あれ、そのままにして良いの?」


「うーん、正直まずいと私は思うな」


 ――そう、鯨の遺体はそのままにしておくとまずい。


 陸地にあげておくと体内のガスで体が膨張し、最悪破裂。

 悪臭を放ちながら体内のものをぶちまけるので、周囲は被害甚大ひがいじんだいとなる。


「今死んだなら、ワンチャン食べるとか?」


「いや、どうやって引き上げるんだよ」


 室内には入り込んだ即身仏が徘徊し、どこか冗談とも悪夢ともつかない光景。

 ――そこにダンッ何かを叩くような音が響き、千春は音のする方を見る。


「あ、おじさん!」


 壁を指す千春。

 いつしか巨大なサメの頭部が生え、勢いよく飛び出してくる。


「いかん!」


 とっさに千春のリュックをひっぱり、こちらへと引き寄せる。

 サメは近くにいた即身仏の頭を砕き、そのまま床へと潜り込んだ。


「あ。何体もいる。壁、すり抜けてるじゃん!」


 そう、大なり小なり複数のサメが壁や床から出現し、水槽の中や私たちの周りへと縦横無尽に動き回る。


「まずいな、外に出よう!」


 見れば水槽の中にいる鯨もサメによって派手に食い散らかされていた。


「上の階に…あれ?」


 一階に戻ったはずの私たち。

 だがそこは先ほどと同じ鯨の死体のあるフロアで、上に続く階段が見える。


「――戻っているのか?」


 背後の階段はすでに壁へと変化し、私たちは嫌がおうもなく同じ階にいることを認識させられる。


 水槽の中の鯨の死体からすでにサメは離れており、代わりに白く長いウナギのような魚がボロけた肉を食いちぎっている様子が見えた。


 ボタッ、ボトッ


「――おじさん、この天井!」


 見れば、天井や床から水槽の中と同じ種類のウナギのような魚が出入りを繰り返し、コンクリートの壁や鉄骨に穴を開けていく。


「水槽の鯨とこの建物…まさか、リンクしているのか?」


 悪夢のような考えに思わず足を止めそうになるも、早く脱出しなければならないことは確かで「おじさん、上に行こう」という千春のかけ声と共に、私は上へと向かう階段へ走る。


「――やだ、足元!何この触手。カニ、カニがいる!」


 階段を上った足元にはいつしかパイプ状の生物が無数に生え、そのあいだを虫のように蟹がはいずり、壁や天井にも生えた生物群のせいで室内はもはや原型をとどめないほど様変わりしていた。


 鯨も同じくパイプのような環状生物に包まれており、今や触手が生えた異形の生物と化している。


「…もしかして。これって、鯨骨生物群集げいこつせいぶつぐんしゅうかも?」


 ふと、何かに気づいたかのように鯨を見つめる千春。


「え、鯨の…なんだ?」と私。


「うん、前に図鑑で読んだことがあるんだけど。鯨の死骸が海に沈むと色々な生物に順繰じゅんぐりに食べられて、生態系を形成するの」


 階の途中で足を止め、千春は指折り先ほど見てきたことを確認する。


「最初にサメとか魚に肉を食べられて、骨に甲殻類や貝、環状生物かんじょうせいぶつが住み着いて、最後に細菌が付いてって感じで、時間と共に鯨の体が海の動物の楽園へと…海へとかえっていくんだ」


「楽園…それを鯨骨生物群集と呼ぶのか」


「そう言うこと」と言いつつ、隣の環状生物まみれの階段に尻込みする千春。

 

 私は彼女のために道を作ってあげながらも(…だが、なぜだ)と疑問がわく。


(――なぜ、この鯨が【トコヨ】の島にいる必要がある?自然へと帰っていく存在が、どうしてこの場所に…)


 いや、理由はわかり切っている。


 ここは終着点。

 死んだ存在ものが来る場所。


「…そうか、水槽にいるのは【エビス】だ!」


 私の言葉に「恵比寿えびすって――」と千春。


「あの、七福神の中にいるたいを持っている人?」

  

 千春の言葉に「そうだ」と私は答える。


「あの姿はイザナミノミコトが生み出したヒルコという未熟児みじゅくじが形を成したものだと言われているんだが――そこに至る経緯はともかく、海岸沿いに住む集落では海に漂着したものを【エビス】と呼び、まつる信仰が存在するんだ」


「海からの漂着物ひょうちゃくぶつ…となると、あの鯨も?」


「――おそらく」と言いつつ、私は次の階へと足を踏み入れる。


 足元はいつしかぬめに覆われ、残った蟹が藻を食べていた。


 …それは隣の水槽も同じ。

 もはや鯨は緑色の骨と這い回る蟹の住処すみかとなっていた。


「これは鯨の記憶であり【エビス】として祀られたときの記憶なんだろう」


 ――そう、床の間にしめ縄を張り鯨やイルカの骨を祀る風習。

 漁師の元締めであった祖母の家で私はその光景を見ていた。


「となると、最後にこの場所は…」


 さらに上階へと続く階段に足を置くと、いつしか段は巨大な鯨の背へと変化し、高所から見下ろす先には白い海底の砂が広がっていた。


「ちょっと。ヤバくない?」

 

 千春が進むごとに背後の骨が落下し、砂の中へとぼっしていく。


 気がつけば、周りにも巨大な鯨の骨。

 そのほとんどが原型を留めておらず、半ば砂の中へと埋もれていた。


「――上になにかある!呼吸はできてるけど私たち海の中にいるの?」


 見ると、そこは揺れる水面――バラバラになった木片もいくぶんか見え、時折人のようなものが水中へと落ちていく様子も見えた。


(…そうだ。【エビス】は人の遺体も同じように呼ばれるはずだ。陸地に着くのは鯨ばかりでは無い)


 海に流れ着いたものを分け隔てなく祀る、エビス信仰。


 ――海上へと続く巨大な骨の道。

 そこを、私たちはまるで蜘蛛の糸をたぐるように先へ先へと進んでいった。

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