レシピ・9「茶の湯と肉じゃが①」

(…任期は継続だと言ったけれど、市の方針が変わったの。ごめんなさい)


 ――茶碗の中から声がする。


 それは、私が社会人となってまもない頃。

 会計年度職員がまだ非常勤と呼ばれていた頃にかけられた言葉。


(四月に別の部署に異動とできないか、こちらからも声をかけてみるから)


 ――市の施設に勤めはじめ、継続二年目にしての突然の方針転換。

 そこから私の短期間の異動人生が始まった。


 福祉の電話相談窓口に土木課の事務員。

 職種も仕事内容も一貫せず、期間はさらに短くなり給与水準は低くなる。


(…こんな人生が、当たり前なのか?)


 たらい回しに我慢ができず、せめて定職をと就職した地方のデザイン事務所は、ブラックの一言で。一日中印刷機から漏れるシンナーの匂いを嗅ぎながら早朝の四時までパソコンを動かしていた。


(これが、世間の当たり前なのか?)


 先輩から日を追うごとにお前には能力がないと当たり散らされ、辞職願を書かねば帰宅することは許さないと迫られ、辞めた後も短期間の勤めを転々とした。


(今でさえも休みなしのほぼ連勤…私は一体、何をしているんだ?)


 ――目の前に見えるのは深い緑。

 黒い茶碗の中には香を放つ抹茶まっちゃ

 

 底の見えない濃緑のうりょくに目を凝らしつつ、私は和装の人々の群れにいる。


(――どうしてこんなところに。いや。そも何をしている?)


 ちらりと見た彼らの頭部は鹿、猪、熊、猿。

 どれも毛が白く、赤い目を伴っている。


 襖と障子で隔絶された十畳ほどの和室で私は彼らに並び正座をしていた。


 彼らの瞳は、じっと私の手元にある注がれている。


(――そうだ、私はこれを飲まねばならないんだ)


 ぐびりと鳴る、自分の喉。


 なみなみと注がれた抹茶には私の走馬灯が映っていたようにも思えたが、その表面は瞬く間に揺らぎ、一匹の獣を映し出す。


 …それは、私の顔ではなく一介いっかいの狸。


 カンッ、カンッ


 赤い瞳の白猿はくえんが、柄杓ひしゃくで急かすように茶釜ちゃがまを叩く。


『早くしろ、早くおれの淹れた茶を飲まぬか』


 言葉を介さず、命令する白猿。


(…そうだ、飲まなければ)


 なぜか、そんな気持ちの方が先に立つ。

 茶釜には火がかけられ生まれる燐光は釜の湯や私の茶碗へと落ちていく。


 ――これを飲めば、もはや人ではなくなる。


 私の本能がそう告げる。

 だが、恐怖よりも安堵感あんどかんを求める気持ちが勝っていく。


(――そうだ、これを飲めばもう苦しむことはない。人であることになんの未練がある。獣ならしがらみも何もないはずだ)


 そして、緑の茶を飲もうとしたその時…


「うわ、おじさん。なんでこんなところにいるの?」


 開いた障子、千春に声をかけられた私は誰もいない茶室に座り込んでいた。



「…もし、私が狸になってしまったらどうする?」


 ――赤い塗料がところどころ剥げている、巨大で古ぼけた鳥居の下。


 公園にあるような水飲み場と設営されたテントが並ぶひらけた場所。

 携帯コンロにかけられた鍋に糸蒟蒻いとこんにゃくを落としながら、私は千春に尋ねる。


 テントの先には、斜面沿いに生えた木々と離れのような茶室。


 鳥居の先にあるめぼしい建物はそれしかなく、室内に人がいた形跡なのか脱ぎ捨てられたり破れた衣類が縁の下に集められていた。

 

「おじさんが狸になったら――うーん、生姜と酒で三日三晩煮込んで。味噌仕立みそじたてにするかなあ?」


「…やっぱり、食べることが前提なんだな」


「うん、食べてなんぼだと思うし」


 別のコンロにかけた鍋に切った人参を放り込み、下茹でしながら答える千春。


「――何かあったのかい、遠野さん?」


 そう尋ねながら玉ねぎの皮を剥くのは、この広場に数日逗留とうりゅうしていると言う、サオリ・ヘルン女史じょし


 オリーブ色の肌を持ち、日本育ちのクォーターを名乗る彼女は約一年後に米日の政府間で発足される合同研究チームの研究主任補佐官をしているそうで、専攻は物理学だと聞いていた。


「…まあ、この異界で我々の常識が通用しないのは当たり前だ。地上との時間と空間が安定しないのはもちろんのこと。地形も常に変化しているし、そのたびに地図を引き直さなければならないから苦労の連続だよ」


 ため息をつきつつ、まな板で手際よく玉ねぎを切っていく、ヘルン女史。


「あげく、食事が単調なせいでチームの士気しきが下がっていてな。それだけに千春が持って来た弁当は好評で。皆、むせび泣きながら全て食べてしまった」


 ――というわけで、我々は夕食兼用の肉じゃがを作っている。


 材料の大部分は軍の備蓄びちくでまかない、醤油しょうゆなど材料の一部は千春が負担。

 弁当など消費した分も調査隊側で補充してくれるとのことであった。


「弁当が食べられちゃったのは仕方ないけれど。調査隊の人たちはヘルンのせいで毎晩おんなじカレーを食べさせられていたそうだからね。可哀想ではあるよ」


 その言葉に「――なんだと、千春?」とヘルン女史。


「保存に気をつければ、日本のカレーほど日持ちのする美味いものはないじゃないか。具材次第でバリエーションも変わるし。私は毎日カレーでも構わない」


「昼間はカンパンとかの携帯食料。夜はカレー…毎日続いたら私は泣くね」


 大鍋に八等分にした玉ねぎと牛肉を入れ、胡麻油ごまあぶらで炒める千春。


「――まあ、こうしてカレー以外のものを作ることで士気が上がるのならそれに越したことはないのだが…」


 自分の意見を否定されたことでどこかしょんぼりとしながら水で戻した椎茸を削ぎ切りにしていくへルン女史。

 

 そこに、私はためらいつつも「…少し、聞きたいんですけど」と糸蒟蒻の水を切りながら彼女に尋ねる。


「――私の立場は、二年後の軍の人たちの目にはどう映っているのでしょうか」


 その問いかけに「ん?」と人参の湯を切りつつ、こちらを見るヘルン女史。


「調査隊が来ている時間軸は私たちから二年先。それまでの私の扱いについて、少しでも知ることができればと思って…」


 次第に小さくなっていく言葉に「遠野さん。やはり、何かあったんだね?」と人参を大鍋に放り込みつつ、こちらに顔を向けるヘルン女史。


「教えてくれないか。今後の調査の参考になる話でもあるだろうからね」


 へルン女子のその言葉に私も糸蒟蒻を大鍋に移しつつ、これまでの経緯を話すことにした――



「…詳しいことは言えないが。結論から言えば当時出回っていた動画の大部分は削除されている」


 ヘルン女史は皮を剥いたジャガイモを等分しながら、そう答える。


「ダークウェブには残っているかもしれないが、政府の働きかけにより投稿主に協力を求めた結果、大元の映像は政府の管理下にある状態だ」


「…協力?」


 アク抜きのため、切ったジャガイモを水に浸けていく私に「ああ、調査のためにな」と答える女史。


「動画には手紙が見つかった場所…冷蔵庫の中や室内といった、異界とこの世が繋がったと思しきポイントの情報が多くあったからな。それらを調査するため、政府が有償で情報提供と協力を求めたんだ」


「――そうして、詳しく調べた結果」と、女史は言葉を続ける。


「こうして会うはずのない、二年後の我々と遠野さんがこの地であい見えることとなったのさ」


「うーん、何度説明されてもよくわかんないけど…二年後の私やおじさんのことについてはやっぱり教えられないと?」


 大鍋に水を入れ、アクを取り除きながら千春は私を見る。


「――正直、手紙を出したせいでそんなことになるなんて私は考えもしなかったから。動画が拡散されておじさんに罪がなすりつけられて。大変なことを…」


 うなだれる千春に「重ねて話すが未来については教えられない」と、頭を振るヘルン。


「空間の歪みや外部との伝達手段などは伝えられるが、その先の行動についてはなるべく干渉しないようにと上からも言われているからね」


「…うっかり話すと、二年後の時間の流れが変化するから?」


 千春の問いに「そうだ」と答えるヘルン。


「あくまで、異界の中での変化は最小でなければならない。それは、君たちとの接触も同様――未来の話をし、行動を大きく変えることがあれば将来的な時間軸にどのような影響を及ぼすか判ったものではないからな」


 しばしの沈黙。

 辺りには、千春の作っている肉じゃがのゆだる音だけが聞こえる。


「――まあ。干渉云々かんしょううんぬんはともかくとして、起きたことは仕方がないからな」


 ため息をつくと、私は千春に顔を向ける。


「大丈夫だ、そこまで気にすることはない」


 ジャガイモの水を切り、鍋に入れながら「…でも、おじさん」と千春。


「私も、うかつに外部の人間に内部事情を話してしまったところがあるからな」


 ジャガイモの入っていたザルを受け取り、水場で洗う私。


「本来なら仕事の話は身内にでも話さないものなのに、高校生の女の子の同情を誘うような形をとって…職場の人間もそうだが、そちらの家庭にも間接的に迷惑をかける形となってしまったから」


 それに「――そんな、私も悪いから」と千春。


「おじさんみたいに、これから先も福祉の仕事で大変な目にあう人が出たらヤダなと思って、先のことを考えずに素直に手紙に書いちゃったところはあるし」


 砂糖と一升瓶の酒。出汁醤油だしじょうゆを加えながら続ける千春。


「…でも、ここまで騒動になるなんて考えもしなかったから」


 そこに「――まあ、個人的な意見だが」と、へルン女史が口を挟む。


「書かなかったところで、遠野さんと同じ立場の人たちがこの先も苦労することは目に見えていた。当たり障りのないように干渉を控えた結果、よくない慣習だけが残るよりは環境を改善する良いきっかけになったとも取れるよ」


「そうだな…まあ、何とかなるさ」と、私は千春に語りかける。


「――これから先は、自分たちのいた時間軸に帰れるよう専念しよう。将来的にどうなるかは分からないが、出来ることをしていけば結果はついてくるはずだ」


「…おじさん」


 千春はジャガイモに串が通るかを確認しつつ、私を見る。


「――そうだね、何だったらおじさんも【マヨイガ】で一攫千金を目指そうよ。お宝は山分けにしてさ、一生楽しく暮らせるようにしよう!」


「それは、どうだかなあ」


 苦笑する私に「ああ、それと――」と、口を挟むヘルン女史。


「遠野さんが洗い場で接触した男は、おそらく我々が【空間製作委員会くうかんせいさくいいんかい】と呼んでいる集団の一人…かなり厄介な相手だよ」

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