レシピ・3「スマホ禁止とキノコ汁」
「――壁に見える顔ってさ。ぶっちゃけ、近づかなければ何もしないから」
鍋から上がる湯気と味噌の香り。だが、それが天井に届こうとも周囲に浮かぶ顔が消えることはなく、こちらを見下ろす眼窩はひどく暗い。
「…ん、いい感じ。私はマグカップを使うから遠野さんは私のお
おたまで溶いた味噌を持参した小皿に注ぎ、軽く味をみてから千春は椀に注いだ汁をこちらに寄越す。
「いや、別に」
断りを入れるも彼女はそれに構わず椀と箸をグイとこちらに渡し「お残しは、いけません」と一言。
「ここでは食べ物は貴重なんだから、今後のことを考えて食べて」
そこまで言われたら仕方ないと口にすれば、舞茸の味が口いっぱいに広がり、体に染み渡る味噌とともに疲れが取れていくのを感じ、ため息が漏れる。
――そういえばこのところ、まともな食事を摂った記憶がなかった。
福祉の仕事柄。週に一度の食事会でそこそこの栄養は取っていたつもりでも、時間も金もないために、それ以外は割引シールの貼られたパンで誤魔化すことも多く、このような食事は本当に久しぶりのこと。
「…やっぱ遠野さんよか、おじさんの方がしっくりくるなあ」
そんな私を眺めながら、千春はマグカップに注いだ味噌汁を割り箸で掻き回しズズっと飲む。
「うん、いい感じ。でも、ばあちゃんの味にはまだまだかな?」
ついで「あ、そうそう」とティッシュで鼻をかむ私にポケットに入れたスマホを指さす千春。
「おじさん、スマホで誰かに連絡入れた?メールでも電話でもそうなんだけど」
「確かに、入れた方が良いな。忘れていた――」と取り出そうとする私に「あ、違う違う!」と声をあげる。
「かけないほうが良いんだって――じゃないと危ないから」
「へ?」
思わず声をあげる私におかわりの汁をよそい「まあ、食べながらで」と千春。
「さっきも言ったけどさ。私、ここにきた二日目で調査をしていた軍の人たちと会ったの。その人たちと話した時に翻訳アプリを使っていたんだけど――」
聞けば、彼らはアメリカから来た調査員を名のり、肩には軍の人間であることを示す階級バッヂを身に付けていたという。
「最初に会った二人は、私を見るなりだいぶん驚いていたんだけど、親父が勤めているこの缶詰を見せたら味見して、いたく気に入ったみたいでさ」
ついで、彼女が出してきたのはスーパーとかでよく見るサバ缶。
「もっと欲しい感じだったし、ここはついでに営業しておこうと身振り手振りで話そうとしたら、翻訳アプリで会話が始まったわけよ」
「…ちなみに、このサバ缶を紹介しようとした時になんて言ったんだ?」
私の質問に「え、マイファザーズ・ファクトリーじゃダメなわけ?」と千春。
(…なるほど、こりゃ翻訳機がいるわけだ)
さほど私も英語ができるわけではないが、彼女の場合は輪をかけてひどかったらしく(――何しろ、英語の成績は万年2だったそうで)相手があきらめて翻訳アプリを持ち出すのも無理のない話に思えた。
「…まあ、そんな感じで、互いにどこからきたかとか話をしていたんだけどね。そのうちに相手の持っていたスマホの画面が次第に乱れていってね。壁の顔も、それに合わせていくように段々と変化し始めていって――」
ついで千春は壁から覗く顔に目を向け、私もつられてそちらを見る。
「軍の人もそれに気づいたみたいでさ。気を遣ってか私に見えないように画面を自分の方に向けてはいたんだけど…でも、会話はやめないって言うか、やめられない感じになって。翻訳も相手の言葉も内容もわからないほど乱れていって…」
(――ウェイト、ウェイト!)
隣にいた同僚がしきりにそう声を上げていたと証言する千春。
「何だろうな、体重でも変化していたのかしら?」
(――そりゃ『
思わず内心ツッコむ私に「まあ、そんな状態だったからさ」と千春。
「最後は片方がスマホ持った側を引っ張る感じで元来た道を戻って…それから、数時間ほどして、お偉いさんっぽい女性が数人の仲間を引き連れて。日本語で地図とか食べ物の良し悪しとか教えてくれて――今の状態にあるってわけ」
「…なるほど。それでこの場所についても、そこそこ知識があったと言うわけか」
無数に見える顔から視線を背けつつ、私はやや冷たくなった汁をすする。
「うん。でも、あの人たちについていくと二年後の世界に行っちゃうって話だったし。それじゃあ夏休みの終わりまでに帰れないじゃんって、即刻断ったの」
「うーん、まあ。そうか」
(――何にしろ、こんな危険なところ早く帰るべきだろうに)と、私は椀が空になった頃合いでポケットからスマホを出す。
「ちなみに連れて行かれた相手はどうなった。戻ってきたのか?」
千春はそれに「ううん」と首を振り、空になった鍋を片付け始める。
「時々、軍の人とは会うんだけど、あの二人とは会えていない。上の人の話によれば、二人とも離脱したって。それ以降、スマホとかの機器は軍では使わないようにしているって…でもさ」
そう言って、水道の蛇口をひねり鍋を洗い出す千春。
「あの時、周りの顔が今まで見たことないぐらい不気味な表情をしていたんだ…それって関係あるのかな?」
その言葉に何も言わず私はスマホの電源を落とす。
――気が付けば、彼女の使う水の音だけが薄暗いトンネルの中に響いていた。
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