第10話 昇華の章 *八幡原の血戦

 *八幡原の血戦


「ここから見下ろす海津の城は、やはりなかなかの構えでございますなあ。平城ながら千曲川と支流を上手く取り込み外堀とするあたりは、実によく考えている」 

 直江実綱は思わず感嘆していた。

「うむ、千曲川は流れが速い。西側からのまともな攻撃は通用しない。敵ながら見事な城を築いたものよ」

 永禄四年(一五六一年)八月二十七日、政虎は直江実綱と近臣旗本衆を連れ立って、茶臼山中腹から、海津城を見下ろしていた。茶臼山は南に塩崎城、東に海津城を見下ろすには絶好の位置にある。

「惣左衛門尉、ここに見張りを数名手配してくれ。足が速い奴だ。しかも長く走れる方がいい。幻の者には周りを監視させて、危険が及ばぬようにする。それから、同じように足の速い者を、旭山との間に何か所かに分けて配置して欲しい。馬は使えぬ、目立って敵の間者に気づかれる恐れがある」

「なるほど、動きをいち早く報せる役割ですな。直ちに戻って人選します」

 さすがに、庄田定賢は吞み込みが早い。

「うむ、そしてその者にはしっかり伝えてくれ。どんな些細な動きであっても、直ちに報せるようにと」

「承知しました。そして、勝手な判断はするな、とも付け加えます」

「よし、行け」

 庄田定賢が山を駆け下りてゆく姿を目で追いながら、直江実綱は感心していた。

「うん、ここであれば、敵の二つの城の動きが、手に取るように分かる」

「敵が動く時には、必ず二つの城に何かの兆しが表れるはず。それを同時に掴むとすればこの場所しかない」

 政虎も自分の判断に自信を深めている。

「さあ、あとはどうでる、信玄入道」

 視線の先には海津城があった。

 旭山城の周辺では、兵たちの調練が毎日一定時間課されており、士気は衰えていない。一日一杯迄ならば、と決めて酒も許している。それが今となっては、良い息抜きになっているようだ。これまでにただ一人だけ、酒を五杯飲んだ荒くれ者が、軍規違反として処断された。それ以降、違反者は出ていない。

 どこの陣でも、馬も足が衰えないよう、山の麓を交替で走らせている。秣も水も十分にあり、馬の手入れも行き届いている。いつ戦になっても差支えなさそうだ。

 このところ、政虎は各陣営を廻って、調練を視察することを日課としている。気が向けば、武具の手入れに抜かりがないかも、抜き打ちで点検している。一度、本庄繁長の陣所において、数本汚れが残ったままの長槍をみつけた。気拙そうに持ち主が現れ、慌てて手入れがなされたが、政虎自らきつく𠮟かりつけた。命のやり取りをする道具だけに、粗末な扱いは許したくない、精魂込めて手入れをして欲しい、それだけだった。 

 その一件以来、どの陣を訪ねても手抜きは見当たらない。きっと、自分が見回ったついでに、武具の点検もやっていることが、噂として方々に流布しているに違いない。動機は何であれ、武具の手入れが行き届いていることが、今は何よりも大事だった。

 夜になると決まって、政虎は酒を口にしながら琵琶を奏でて、将兵の心を和ませていた。「朝嵐」という愛用の琵琶を、わざわざ春日山から持参してきた。琵琶の名の由来は、朝嵐に乗って佐渡島まで届くほどの美しい音色を奏でる、と称されたことから命名されていた。琵琶の音色は、秋の夜長に溶け込むように染み渡る。琵琶の音色が聞こえると、作業中の将兵は手を止め、雑談中の兵は話を止め、皆が聞き耳を立てるほどだった。

 琵琶だけではない。ある時は一節(ひとよぎり)笛を陣中披露して、皆を驚かしている。政虎が多芸に秀でて、風流人であることを知らない兵などは、てっきり何処かに女人が紛れ込んでおり、優しい笛の音を聴かせてくれていると思い込むほどであった。それがまさか、総大将である政虎が奏でる笛の音、などとは想像すらしていない。

 やがて笛の音が止むと、それまで一緒に聞き惚れていた秋の虫たちが、周りの様子を探りながらも、今度は自分の番だと言わんばかりに鳴き始める。その虫の音すらも、吸い込んでしまう秋の濃く深い闇は、自らの燃え上がる闘志すら、同化してしまう気がした。政虎はその漆黒の闇をただ静かに見つめていた。


「毎夜の酒盛りに加えて、琵琶と笛に興じておるだと」

 信玄は敵陣に潜り込んでいる間者から間者へと、口伝えでもたらされた、政虎の動向を耳にして、驚きを隠せなかった。

 暦は九月に入り、早や数日が過ぎている。日中の穏やかな温かさとは裏腹に、朝晩の冷え込みが日を追うごとに厳しさを増すばかりの昨今だが、一向に敵は動こうとしない。

 一方の味方はというと、夜襲を警戒して毎晩緊張の日々が続き、徐々に神経を擦り減らしてきている。毎晩、いつ襲ってくるか分らない幻の越後勢と、戦い続けているのだ。

 当初は、張り詰めていた緊張も、徐々に薄れてきており、それを何とか維持するのに必死の日々が続いている。

「はい、日中はひたすら戦の調練に励み、準備は万端のようですが、一向に出陣命令が出る様子はないということです」 

 直接の注進は、海津城代・高坂虎綱の口からもたらされている。

「奴のことだ。味方すらも欺いて、突如牙をいてくることもあり得るな」

「御意」

「兵糧に不安はないのか」

 弟の典厩信繁から、虎綱に向けられた疑問だった。

「十分に運び上げているようです。幾つかの場所に山積みされているようで、少なくともひと月分は優にまかなえるとの報せです。小荷駄隊は、重臣筆頭格の直江実綱殿が指揮されておる様子。用意周到と申し上げる他ございません」

「荷駄の山のひとつや二つ、燃やすことが出来ぬものか」

「それは敵が最も恐れていることのようです。ひと山毎に昼夜を問わず、交代で番をしておる様子がみられるとのこと。数十人単位で幾重にも輪を成して厳重に見張りを付けており、鼠一匹すら付け入る隙がございませぬ」

「やはりな。左様な隙をみせる敵ではないと分かっていたつもりだが、つい余計なことを口にしてしまったわい」

 些か自嘲気味の表情を浮かべた信玄は、そのまま黙り込んでしまった。傍に控える弟の信繁と高坂虎綱は、信玄から発せられる次の言葉を待った。

「太郎と民部を呼べ」

 暫くの間、腕を組み、顔を伏せて考え込んでいた信玄から発せられた言葉だった。

 嫡男の太郎義信と馬場民部信房にも、聞かせることがあるらしい。

 二人が急ぎ海津城本丸に入ると、既に信玄と信繁、それに高坂虎綱の三人が、善光寺平一帯を表記した図面に目を落としていた。

 二人の到着を気配で気づいた信玄が、図面から目をそらすことなく、馬場信房に問いかけた。

「民部、百姓から話は聞けたか」

「はい、足軽大将の山本勘助に命じて、辺り一帯の百姓に聞いて回らせましたが、殿のご推察に間違いございません。これから先、雲一つない晴れた日の夜には、冷え込みが一段と厳しさを増し、犀川と千曲川から発生する大量の川霧が原因で、朝方は二間(四メートル弱)先すら見えなくなる日もあるとのことです」

「やはりそうか。上野原での合戦では、敵の探索の目にはまってしまったが、最も霧が濃いその日を選べばよいのか」

 独り言のように呟いた信玄に、義信が不思議そうに訊ねた。

「父上、その霧が何か此度の戦と関りがあるのですか」

「太郎なら何とする」

 軽い気持ちで訊いた義信に、自らの策など端から持ち合わせていない。

「申し訳ございません。何も考えつきませぬ」

「嫡男のお主がそれで何とする。もしも、この儂が命を落とすようなことになれば、そなたが直ちに総大将として全軍を預かり、指揮を取らねばならぬ。将たるもの、何の考えもなく、軽々に物事を口にするではない」

 信玄の叱責に遭い、すっかり意気消沈してしまった義信をみて、弟の典厩信繁が庇うように話の矛先を変えた。

「民部、それは我らも薄々感じていたことだが、そのように大量の霧が必ず発生する日を、予め百姓は知っているというのか」

「聞いたのは、一人や二人の百姓ではございません。聞いた百姓全員が口々に同じことを話しておりましたので、万が一にも誤りはないかと」

 馬場民部の返答に、満足そうな表情の信玄は更に掘り下げる。

「深い霧が出る兆しとして、他に何か言ってはいなかったか」

「はい、陽が沈む西の空、ちょうど飯縄・黒姫・妙高の高い山々の空が、夕焼けで真っ赤に染まるそうですが、その翌朝は間違いなく濃い霧に一面が覆われるということでした」

「うむ、よくぞ聞き出してくれた。山本勘助とやらには、褒美を取らせるがよい」

「ありがとうございます。さぞかし、勘助も喜ぶことでしょう」

「それでは、これから儂の策を伝える。正式には明日軍議を招集し、その席上で申し渡す故に、それまでの間は、この場限りとする。良いな」

 信玄の言葉に全員が頷くと同時に緊張が走った。もちろん、これから信玄が話そうとしていることは、此度の戦の行方を決定づける内容に違いない。四人はその瞬間を、固唾を呑んで待った。

「これまで我らは、敵の夜襲ばかりを恐れ、毎晩備えてきた。その恐れは忌々しいことに、今も続いている。しかし、待つということが、これほど辛いこととは思ってもみなかったことだ。将兵は我らよりも、もっと厳しい状況に追い込まれているのかもしれぬ。しかし考えてみろ。我らは此度こそ越後との決着をつけようと、総勢二万余の大軍を擁して、今こうして信濃に布陣している。それにも拘らず、気持ちのうえでは完全に負けているではないか。この気持ちを払拭するには、我らが先に討って出る他あるまい。しかし、ただ単純に討って出るような愚策は決して取らぬ。霧を利用した塩崎勢と我が本隊である海津勢の二段攻撃で、敵を粉砕しようと思う」

「霧を利用した二段攻撃」

 典厩信が思わず呟いた。

「そうだ。朝霧でこの一帯が霧で覆われ、全く見通しが効かない日に、我らはこの作戦を決行する。それは数日のうちに必ず訪れる。先ず、夜陰に乗じて塩崎城の軍勢が動き、払暁の敵陣を襲う。敵の不意を突くから、当初は確実に我が方が優勢となろう。そこで長尾弾正の首を取れれば良いが、そう簡単にはいくまい。山中でもあり、乱戦になることも考えられる。そこを我が軍が上手く後退し、敵を平地まで誘い込む。敵は逆落としとなるから、勢いづいて必ず下りて来る。少なくとも、裾花川すそはながわ辺りまでは追い討ちをかけて来よう。そこを待ち構えていた我ら海津城の新手と、塩崎勢の後方に待機していた新手が、同時に三方から包み込んで殲滅する」

「なるほど、巳の刻(午前十時)でも霧は残っていますから、我らの取り巻きに気づいた時には、もう袋の鼠というわけですね」

 こう口を挟んだのは太郎義信だった。もう先ほど叱責を受けたことなど、全く気にも留めていない様子だ。

「そうだ。その奇襲別働隊である塩崎勢には、この辺りの地形に明るい高坂と馬場が兵二千を率いて加わってくれ。塩崎城には真田幸隆もいる。総勢一万二千で向かうのだ。真田には明日、儂の口から話す。それまでは、この策は伏せておいて構わぬ」

 真田幸隆は武田家への臣従以降、得意の調略で次々に信濃の地侍を、武田方に鞍替えさせてきた功績がある。その貢献度の高さから、信玄は決して粗略な扱いはしていない。個別の軍令も人に任せず、あくまで直々に申し渡すことにしていた。

「我ら本隊は如何動きましょう、父上」

「それはこれから話す。我らとて呑気に構えているわけにはいかぬ。慣れぬ濃霧の中の行軍を余儀なくされるのだ。決して道を違えることは許されぬ。先ず、城を出たら千曲川沿いに西に進む。やがて、篠ノ井を通る北國街道に突き当たるであろう。そこからはひたすら北進する。犀川のここ、市村の渡しを通り、そのまま直進すれば善光寺だ。我らは裾花川を前に渡河せずに、手前で分れて配置につく。太郎が率いる二千の兵は裾花川を背にして北側、典厩率いる四千が中央、儂が率いる残り二千が南東に、それぞれが陣取る。これで攻囲は完成するという筋書きだ。どうじゃ、源五郎」

 信玄は図面上を手持ちの扇子で差しながら説明した。

「これなら、万が一にも負けようがございません。まるで啄木鳥きつつきが獲物を狙うような戦法でございますね」

「啄木鳥か、なかなか上手いことを言う」

 啄木鳥は、狙った樹木の表面を嘴で叩き、中に潜む虫を誘き出して食べる。今回の作戦は、まさに啄木鳥の虫捕獲術そのものだ。高坂虎綱の気が利いた例えに、信玄は満足そうな表情を浮かべながら付け加えた。

「奇襲別働隊を率いるお主たちには、些か辛い行軍と戦を強いるが頼むぞ。この戦、絶対に勝たねばならぬ」

「無論にございます。もとより我らは決死の覚悟にて、ご心配には及びませぬ」

 こう返答したのは馬場民部信房だった。この時、齢四十七歳の信任篤き家臣の一人である。上野原での武功が認められて、今は一軍を率いるまでに取り立てられている。

 皆が自信を深めているなかで、唯一浮かない顔をしている者が一人いた。弟の典厩信繁である。その顔に気づいた信玄が声をかけた。

「典厩、この策に何か不安でもあるのか」

「策は申し分ないと存じます。あとは敵に気づかれないか、もし気づいた時にどう出てくるかを考えておりました」

「何かあれば、儂が放っている間者から、必ず報せが入るはずじゃ。その時に考えれば対処出来よう。心配には及ばぬ」

 信玄からそこまで言われては、もう何も言うことはなかった。

「わかりました。心配性なのは我が悪しき習性でございます。ご容赦ください」

「うむ、では明日の軍議で、各隊の細かい配置を含めて、儂から全員に言い渡すこととする。それまでは一切、この策を口にすることは罷りならぬ。よいな」

 信玄のこの一言を最後に解散となった。

 自陣に戻ってからも、信繁は気持ちが晴れなかった。その原因が何なのか。これが果たして、何を意味するのか。信玄が考えた戦術は申し分がない。完璧だった。恐らく、万に一つの失敗もないだろう。それでも、胸騒ぎとも区別がつかない不安が纏わりついて、どうしても頭から離れない。こんな経験は、今までにないものだ。

 あの場では自分の習性と言って誤魔化すしかなかったが、決してそのような呑気なものではない。しかし、こんなことを誰かに言っても仕方ないことだった。言っても臆病者の誹りを受けるのがせいぜいだ。ましてや、自分は総大将の弟であり副将という立場にある。

 散々に悩んだ挙句に、信繁が出した結論は「諦め」だった。この予感めいたものが何を暗示しているのかが、全く分からない。ただ、あるとすれば大敗であり、兄の死、または自分の死であろう。兄を死に追いやっては断じてならない。兄の死はすなわち、武田家の滅亡であり、甲斐が越後の属国になることを意味する。しかし、もしも、自分が死ぬことで、兄が助かるのであれば、それでよいと思うことにした。自分は喜んで兄の身代わりになろう。そう決めた途端に、気が楽になった。

 いつの間にか、辺りは陽が暮れて、すっかり夜のとばりが下りている。信繁は陣幕から出ると、自然と目は旭山の方向に向いていた。今日は霧が出そうもなかった。


「殿、茶臼山の物見からご注進でございます」

「申せ」

 その日も、政虎は金色の刺繍ししゅうを施した布袋から、丁寧に愛用の笛を取り出していた。笛も日頃の丁寧な手入れが必要だ。政虎はその声の主である近臣・秋山源蔵に目を向けることなく、耳だけを傾けた。

「茶臼山から見下ろしていると、海津と塩崎の両城から、いつもの倍に相当する飯炊きの煙が上がっているとのことでございます」

 その報せを聞いた政虎の手が、ぴたりと止まった。

「そうか、いよいよだな」

 そう一言放ち、再び笛を布袋の中に収めた。本丸の櫓から海津城の方向をみても、少し靄がかかっており、煙との区別はつかない。

「殿、今日は九月九日、長陽の節句でございます。縁起物ということで、将兵に御酒と飯を振る舞っているのではございませんか」

 話を聞いて集まってきた近臣旗本衆のひとり、戸倉与八郎の口から出た一言だった。

「惣左衛門尉はどう思う」

 政虎はその隣にいた庄田定賢に意見を求めた。

「確かに重陽の節句を祝う飯の支度と捉えることも出来るでしょうが、いつもの倍の煙となると、それは如何かと存じます。遠国である甲斐から運んできた兵糧だけに、我らの兵糧よりもはるかに貴重であるはずです。それを節句だからといって、未だ戦が始まる前の緊張下にあって、果たして、信玄が大盤振舞するでしょうか。敵は節句を利用して、我らをあざむこうとしているのかもしれませぬ」

「伊豆守は如何じゃ」

 政虎が次に訊ねたのは、荒川長実に対してであった。

「我らの後ろにそびえ立つ西の山々の方をご覧くだされ。夕焼けで空が真っ赤に燃えております。こんな日の翌日は秋晴れに間違いありませんが、今晩から明朝にかけて、大量の川霧が発生すると思うのです。夜の冷え込みも日々厳しさを増しており、恐らく、これまでにない霧の量になるでしょう。それがしが敵であれば、これを利用しない手はありません」

「なるほど、敵は大量の霧と夜陰に紛れて、この旭山を急襲するということか。煙が晩飯と携行用の飯も、併せて炊いていると考えれば、合点がいくぞ」

 小島彌太郎が感心したように腕を組んで呟いた。

「敵は今晩必ず動く。間違いない」

 政虎は断言した。

「すると、殿は敵を待ち伏せして、この山から逆落としにするおつもりですか」

「いや、いくら逆落としとはいえども、暗がりと濃い霧の中とあっては危険を伴う。それにその奇襲隊の中に、信玄の姿はあるまい。信玄が来ない以上は、この山での緒戦を勝っても意味がない」

 黒金孫左衛門の戦術はある意味定石だった。しかし、政虎の狙いは信玄の首のみである。

「では殿、信玄はどこにいるというのですか。まさか海津城に留まり、高みの見物を決め込むわけでもないでしょうし」

 金津新兵衛の疑問は尤もだった。

「恐らく信玄は、旭山の麓に陣取るつもりとみている」

「では善光寺周辺ということでしょうか」

 普段は口数の少ない吉井忠景の言葉だった。

「そうだ、恐らく裾花川から西側に陣取るはずだ。儂が信玄であれば、こう考える。奇襲隊の攻撃に遭った我が軍は、勝敗はともかく、必ず旭山から下りてくるとみている。場合によっては、上手く負けた振りをして、平地に誘い込むかもしれぬ。そこを本隊である信玄が、下りてきたところを包み込むように攻撃すれば、我が軍は壊滅となろう」

「殿は如何なる戦術をお考えか。もう教えて頂かなければ、我らも国衆も動きようがありませぬぞ」

 そう業を煮やすように言ったのは彌太郎だった。

「彌太郎、待たせたな。国衆全員を本丸に呼び出してくれ。儂の口から皆に伝えよう」

 いよいよ戦と聞いて、瞬く間に全ての国衆が旭山城本丸に集まってきた。政虎は濃霧に乗じて武田勢が攻めて来ること、そしてその根拠を説明した後に、いよいよ自らの策を口にした。

「我らは、敵の奇襲別働隊が攻めてくる前に全軍で山を下り、市村の渡しに向かう。敵は間違いなく善光寺街道から小市の渡しを使うので、かち合うことは万が一にもない。市村の渡しを越えたら、そのまま進路を変えずに北國街道を南下する。その途中で信玄率いる本隊が我らと遭遇するはずじゃ。場所は恐らく八幡原の辺り。我ら一万三千の兵に対し、敵の本隊はせいぜい九千か八千であろう。何よりも、敵は戦がまだ先のことと油断しているはずだ。そこに我らが襲い掛かったらどうなる。我らの大勝利は疑いあるまい」

 言い終えた政虎は全員の顔を見渡した。もう誰も異議を挟む者はいない。

「出立は子の刻(午前零時)とする。これから全員に飯を取らせ、交替で休憩させよ。兵糧は明朝分のみ持たせ、残りは捨て置いて出立する。出立に当たっては、篝火が朝方まで持つよう薪と油を惜しむな。陣幕や旗指物も立てたまま置いて参る。遠目からは軍勢が留まっているかのように偽装し、敵の目を欺く。明日の戦で使用する旗指物は、荷駄隊に予め預けてある。出立迄には全軍に行き渡るよう手配を頼む。以上、確と伝えよ。解散」

 政虎の下知で、全員が自陣に駆け戻っていく。一人だけ残った将がいる。枡形城主・甘粕近江守景持だった。政虎が予め居残るよう伝えていた。

「近江守、頼みがある」

殿軍しんがりでございますね。覚悟しておりました」

「そうだ。お主にしか務まらぬ役目じゃ」

「左様なことはありますまい。で、どうすれば良いので」

「市村の渡しから北國街道までは共に進軍するが、お主は市村の渡しに留まり、敵の本体に合流しようとする奇襲別働隊を兵二千で食い止めて欲しい。時間稼ぎを頼みたいのだ。中に火縄銃隊百と強弓隊百も組み込むつもりじゃ」

「殿、ご無理なさらないでください。火縄銃隊は三十で結構です」

「しかし、そなたの時間稼ぎ如何が、此度の戦を左右する。せめて、それくらいの補強をしておきたい」

「殿が信玄の首級をあげてしまえば、それで済むことです。本隊の戦力を削っては、元も子もありません。この際、遠慮は無用に願います」

「済まぬ、礼を言う」

「なんの。殿軍をお引き受けしたからには、犀川から南には一歩も敵を戻らせぬ覚悟で挑む所存。その代わりに、是非とも勝ってくだされ」

「お主の心意気、嬉しく思う。しかし、出来る限り時間を稼いでくれれば、それでよい。敵はおそらく六倍もの兵力で、必死に向かってくる。破られた時は、致し方あるまい。無理を絶対にしてはならぬ。それまでに信玄の首が取れていなければ、儂に運が向かなかっただけのこと。これだけは約束じゃ。よいな」

「ははっ、それではこれにて。諸準備に取り掛かりますので。御免」

「幻蔵はおるか」

 甘粕近江守が立ち去ったのを確認して、政虎は直ちに幻蔵を呼びだした。

「我が軍の中に紛れ込んでいる間者の数は如何ほどであった」

「我が手の者が掴んでいる人数は五人でございます」

「うむ、ではこれから直ぐ、全員を出来る限り静かに処断せよ。逃すこと、決して罷りならぬ」

「承知仕った」

「それから、その処断を察知して、こっそりと逃げ出そうとする奴がいるはずじゃ。それも間者に相違あるまい。先回りして道を塞ぎ、確実に全員を仕留めよ」

 言葉の代わりに目礼をして去ろうとする幻蔵を、政虎は引き止めた。

「待て。お前との付き合いも長くなったな。あれは儂が栃尾に向かう道中だった。その時に助けられたのが最初だった」

「左様、殿が元服なさる三年ほど前のことと記憶しております」

 最初の邂逅から数えて、早や二十一年余の時が流れていた。幻蔵の髪や眉には、すっかり白いものが目立ち始めている。

「そうであった。それから元服後、与兵衛尉に無理を言って、儂が一党を引き取った」

 政虎はその時のことを懐かしく思い出すように、遥か遠くを見つめていた。

「お前には、これまで幾度となく助けて貰ってきた。いくら礼を言っても足りぬくらいだ」

「礼などには及びませぬ。我らは皆、殿から銭で雇われた身であり、当然の務めを全うしたのみでございます」

「いや、儂は知っているぞ。お前たちが銭以上の気持ちで、我がために働いてくれていることを。これから明日にかけて、陰の闘争が激しくなろう。敵の間者や忍びが、不測の事態を報せようと躍起になるはずじゃ。それをお前たちが阻止するために動いてくれる。お前のことだ、既にそれくらい覚悟しているだろう。だから、今日は敢えて言う。幻蔵、死ぬな。決して死んではならぬ。必ず生きて戻ってこい。お前にはまだまだ儂の下で働いて貰わねばならぬ。よいか、これは命令じゃ」

「勿体なきお言葉」

 片膝を立てて、顔を伏せていた幻蔵だったが、声を震わせ小声で応えるのがやっとだった。

「これにて御免仕る」

「これからは、一刻の猶予もままならぬ。頼んだぞ」

 幻蔵が立ち去ったその場に、政虎は暫く立ち尽くしていた。そして、もう一度心の中で叫んでいた。

 幻蔵、生きて戻ってこい、必ず。


 高坂虎綱は総勢一万二千の大軍を率いて、敵陣である旭山を目指していた。

 信玄は馬場民部ではなく、虎綱を奇襲別働隊の総大将に命じていた。この辺りの地の利に詳しいということが、その一番の理由らしい。これまでの武功や年功から考えても、馬場民部が相応しいと思ったが、素直に従うことにした。

 予想した通り、時が進むにつれて、霧は濃く深くなっているように感じる。塩崎城の兵を引き連れて、一刻が過ぎている。九月十日の丑の刻(午前二時)を回った頃だろう。善光寺街道を北に向かって歩いている。犀川に架かる小市の渡しまで、もう少しの所まで来ていた。

 間者や忍びからの報せもなく、敵に気づかれた様子もない。先に放った斥候が途中途中で、行く手の安全を報せてくれている。先頭の兵にも松明は足元だけを照らすよう指示している。念のため、敵の斥候に気づかれないよう、との配慮からだ。ここまでは予定通りだ、何も心配ない。

 敵は今頃、一部の見張りや物見を除けば、深い眠りに落ちているに違いない。夜が明ける頃には少なく見積もっても、山の中腹までが霧に覆われているはずだ。物見が気づく前に、我らが攻め上がっているだろう。敵の大混乱が今から目に浮かぶ。

 旗指物は山の麓に置いておくことにしている。山中では木にぶつかり、行軍や戦の邪魔になるだけだ。その代わり、敵味方の区別がつくように、武田菱を誂えた赤地の布を二本全員に配っている。一本は腕に巻き、もう一本は予備用として、傷の手当にも使ってよいことにしている。

 虎綱は犀川に架かる小市の渡しを通り過ぎた地点で、全軍に休息を命じた。これから尾根伝いの道を辿ってゆけば、善光寺の手前を流れる裾花川にぶつかるはずだ。川の手前まで着いたら、もう一度だけ小休止した後に、三手に分かれて旭山城を包囲するように登ることになっている。

 虎綱は馬から降りて、手綱を供の口取りに渡した。慎重にもう一度、城を出発してからの行軍を振り返ってみる。どう考えても、これまでの過程に誤りや見過ごしはなかった。全てが計画通りに進んでいる。

 それでも、心の奥底に引っかかった何か、靄がかかったまま晴れない何かに、虎綱は苛まれていた。

 もちろん、虎綱が上杉政虎という、敵の総大将に対して感じているのは、今も増幅し続けている畏怖と怯懦であり、今にも押し潰されそうな気分だ。しかし、今、心の奥底に引っかかっているものは、それらとは全く異質の、そう、不安や焦燥に似た何かであり、敵陣が近づくごとに大きくなっているのだ。

「高坂殿」

 背後からかけられたその声の主は、意外にも馬場民部信房だった。

「馬場殿、何故ここに」

「いや、お主の心の内を聞きたくなって来てしまった」

 馬場民部の顔は暗くてよく見えないが、いつもの屈託ない笑顔を、自分に向けてくれているに違いなかった。

 平時の信房は、自分が信玄の小姓であった時から、よく知っている家来衆の一人だ。これまでも、一回りも年下の虎綱に対して対等に接し、またよく世話を焼いてくれていた。甲斐国にいた頃は、気軽に話かけてくれる、家中でも心許せる同志の一人でもあった。信玄もそのことを知っていて、此度の大役を二人に委ねたはずだった。

「馬場殿、正直申し上げます。ここまで作戦通りに進んでおります。何ら異変も見落としもないはずです。どう転んでも、我が軍の大勝利は間違いなし。それでも、何かが引っかかって、それが私の頭と気持ちから離れようとしないのです」

 その話を聴いた信房は声を上げて笑った。

「いや、済まぬ。実は儂も似たようなものじゃ。政虎殿は、我が殿よりも九つも歳下のはず。しかし、過去三度にわたり、この善光寺平で合間見えるものの、対等に渡り合っておる。いや、実のところは、我らがいつも劣勢じゃ。先手を打ったつもりでも、いつの間にか後手に回っている。此度も我らに考えつかないことを、既に思いついて、我らを見透かしているのではないかと、ついとり越し苦労をしてしまっている」

「馬場殿も左様にお考えでしたか」

「しかし、此度こそ杞憂に終わるのではないかな。その証拠に、これまで敵の動きが全く感じられない。放った間者からも何も報せが入っていない。きっと今頃は、明朝の大敗など、少しも知らずに、全員夢の中といったところだろう」

「ひょっとしたら、馬場殿はそれがしを落ち着かせようと、わざわざお越し下されたのではござりませぬか」

 すると、馬場民部は声の様子から少し照れながらであろう、虎綱の問いかけに応えてくれた。

「いや、一番は儂自身を落ち着かせるためじゃ。戦の前に貴殿と本音の話を、少ししたかっただけじゃよ」

 馬場信房はくるりと振り返り、再び自軍の方向に足を向けて、霧の中に姿を消した。

 虎綱は信房の心根の優しさと細やかな気遣いに、深く感謝し黙礼した。と同時に、冷静さと落ち着きを取り戻していた。

 この別動隊の指揮官である自分が、しっかりしないでどうする。今更どうこう考えても仕方あるまい。抱えているのは根拠のない不安でしかない。あとは計画通り、任務を遂行するだけだ。

 次の裾花川の手前が最後の休憩となる。兵糧を取らせるにはちょうど良い刻限になるだろう、虎綱はそう考えていた。


 紛れ込んでいた敵の間者は合わせて八人だった。

 予め掴んでいた五人は、一人ずつ人目につかない場所に連れ出して仕留めた。その動きを察して身の危険を感じた別の三人が、出立前に不自然な行動を取っていることがわかった。三人が密かに下山しようとしているところを先回りして、これも処断することが出来た。

 政虎はこれらの報せを、幻蔵の若い手下から受け取っていた。その者も敵の間者の返り血を浴びて、顔の一部が黒くなっており、掃討の激しさが伺えた。

 幻蔵率いる幻の者一党も、関東に留まる一部を除けば総力戦だった。幻蔵が手下を引き連れて下山しているらしい。先行して四方に散り、何かあれば直ぐに報せが入る手筈になっている。

 政虎率いる上杉勢全軍は、永禄四年(一五六一年)九月十日子の刻(午前零時)に旭山城を離れ、密かに下山を開始した。

 陣幕と旗指物は、そのまま放置してきた。篝火も十分に朝まで燃え続けるように施してきている。敵は城に近づくまで、もぬけの殻とは気づくまい。その頃には八幡原辺りで戦が始まっていよう。旭山城が燃やされることは、既に覚悟のうえだ。信玄の首さえ取れれば、この城に拘る意味はない。

 馬にはばいくわえさせた。声を発する武者は誰もいない。闘志をひた隠しにして、黙々と進軍するだけだった。裾花川を左にして道を進んだ。霧は一層濃さを増しているようだ。明朝の霧は更に濃くなるだろう。

やがて市村の渡しから犀川を渡渉し、丹波島で休憩とした。馬には水と秣を与え、将兵には兵糧を取るよう指令した。敵の本隊はようやく、海津城を進発した頃か。

「進発」

 号令とともに更に南下を開始した。

ここから先は、何が起きてもおかしくはない。あらゆる方向からの危険を察知するために、三列縦隊で移動を開始した。

 既に刻限は寅の刻(午前四時)を回った頃だろう。幻の者から報せが入った。

 敵の斥候が多く出てきており、交戦中とのことだった。五人一組で前方を進み、探索しているのは予め聞いて分かっている。敵の斥候は多くても三人一組であろうから、幻の者の敵ではあるまい。あまり心配する必要はないだろう。

 敵の斥候と交戦しているということは、信玄の本隊も出てきた証でもあった。更に幻の者から新しい報せが入った。敵の斥候は一人残らず始末したので、信玄に我が軍の動きを悟られることはない、とのことだ。

 吉報だった。これで勝てる。いや待て、このような報せはいつも、幻蔵が頭として儂に報せるはずだ。嫌な予感がした。

 やがて、その予感は的中してしまった。幻蔵が瀕死の重傷を負ってしまったという。幻蔵は敵の斥候と交戦中に、南に駆け去ろうとした者を、一人で深追いしてしまったのだ。肩口から袈裟懸けに切られているらしい。

 政虎はすぐさま、幻蔵を手明てあきの馬に乗せて、善光寺の横山城に急行し、傷の手当を行うよう命じた。既に兵糧を積んでいない相当数の馬がいたはずだ。それは替え馬として使う予定であることが、政虎の頭の片隅に残っていたから出来た指令だった。

 やがて、幻蔵が切られた時の、詳しい状況が分かって来た。敵の逃げた斥候が駆け寄った場所が、敵の斥候の親玉のところだったのだ。一人で四人を相手にするという、大立ち回りの末に、全てを討ち果たしたものの、自らも敵の刃を受けてしまっていた。親玉らしき最後の一人が、なかなかの手練てだれで、相打ちだったらしい。

しかし、今は悲しんでいる時ではない。今こそ臨戦態勢に入る時だ。全軍に報せなければならない。

「直ちに伝令」

 政虎は大声で叫んでいた。


 信玄は北國街道を北に向かって進軍している。旭山の麓を目指すに当たって、信玄は海津城を出て薬師堂から東福寺を抜け、そのまま西に向かう道を選択した。この道はやがて、篠ノ井より半里北側の北國街道にぶつかる。あとはその道をただひたすら北に向かえばよかった。もっと近い道はあるが、これだけの濃霧の中では、目印となるものがないと方向を見失う恐れがあった。

 信玄は馬上にあって、諏訪法性の兜を被り、赤糸毛引威之大鎧あかいとけびきおどしのおおよろいのうえに、緋色の衣と袈裟を纏っている。その武威を誇るに足る堂々とした総大将の姿だった。

 その周りには「南無諏方南宮法性上下大明神」の旗と、藤色に金文字で刺繍された「孫子四如」の馬印、通称「風林火山」の旗が翻っている。

 奇襲別働隊は慎重に山を登っている頃だろう。今はただ砲声と鬨の声を待ちながら、軍を進めればよかった。裾花川を背に北側に太郎義信、中央に典厩信繁、そして南東側に本陣を敷き、下山する越後勢を包囲殲滅することになっている。

 それにしても、この濃霧は予想を遥かに超えている。奇襲別働隊の攻撃に支障が出ないかが唯一気になることだ。山頂付近の本丸攻略は、先ず問題ないはずだが、中腹以下は霧の影響が懸念された。同士討ちまではなくとも、攻撃対象を確認する隙が生まれてしまう。ただ、それも大勢に変わりはないだろう。平地に降りてきたところを一網打尽にすればよいだけの話だ。

 前方を進む嫡男の太郎義信が単騎で戻り、馬を寄せてきた。

「いよいよ決戦ですね、父上。これまでの遺恨を晴らす時が、ようやく近づいて参りました」

「太郎、今から逸ってどうする。一軍の将たる者、堂々と構えていることが肝要じゃ。時が満ちれば、自ずと我らに勝ちが転がり込んでこよう。今は自軍に綻びがないかだけを注視するのじゃ。少しは叔父の典厩を見習うがよい」

 戦を前にして、波風を立てるのは、周りの将兵の手前好ましくない。信玄は言葉を選んで、婉曲に注意したつもりだった。

「申し訳ございませぬ」

 太郎義信は、言葉の持つ意味とは裏腹な態度で、吐き捨てるように言うと、頬を膨らませて不満な顔を隠そうともせずに、立ち去ってしまった。

 困った嫡男だ。決して愚鈍ではないが、甘やかされて育ったせいか、直情で思ったことを直ぐに口にして、自分の思い通りにならないと気が済まないところがある。自分が亡き後のことを考えると、些か憂鬱な気持ちになってしまう。

 しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。目前に迫る戦だけに集中しよう、信玄はそう切り替えた。

 少しだけ周囲が明るくなり始めていた。


 政虎の伝令で全軍が戦闘態勢に入った。霧の中で全く前方は見えないが、ここは大塚の辺りか。その先左側には八幡原が広がっているはずだ。敵には全く知られていない。ましてや、戦力は我らが有利。味方の一万三千に対し、敵の本隊はせいぜい八千程度だろう。必ず勝てる。しかし、旭山に向かった奇襲別働隊が戻る前に、決着をつける必要がある。殿軍の甘粕隊にも限度があろう。やがて敵の別動隊は、死に物狂いで向かってくる。いわば、時間との戦いだった。

 北國街道を中心に、三列縦隊から大きく軍を横に展開し始めた。そろそろ軍勢の動きの音に、敵も気づく頃だろう。ここからは攻めの早さで緒戦をものにする。

「先鋒に伝令」

 伝令役の武者が数騎控えている。先鋒は柿崎和泉守景家隊である。

「敵に陣形を組む猶予を与えてはならぬ。敵は北國街道を縦隊で進んでいるはず。慌てて陣形を組もうとするだろうが、その前に騎馬隊でかち割り攪乱させよ。そこに直ぐさま長槍隊を投入して敵を討ち取れ、そう伝えろ」

 一人の武者が景家に向かって駆けていく。

「次鋒に伝令」

 村上義清と高梨政頼、須田満親の信濃衆に命じるためだ。

「この一戦がこれまでの遺恨と無念を晴らす時、先鋒に続いて縦横無尽に暴れまわり、敵を思う存分に討ち取られるがよい、そう伝えよ」

「次、直江の荷駄隊は後方待機。揚北の諸隊は先鋒の柿崎隊と入れ替わりで突っ込んで貰う。他の諸隊と本隊は戦況を見て総攻撃に備えること、以上じゃ」

 馬蹄の音とときの声が辺り一面に轟いた。遥か前方は全く見えないが、柿崎隊が敵に突っ込んだのに違いない。

 政虎は放生月毛の愛馬に跨り、前方に凝らしながら目を向けるが、激しい戦闘の気配だけが伝わってくる。卯の刻(午前六時)前後になるのか。それでも霧の合間から覗く微かな陽光のせいか、少しだけ見易くなっていた。


 信玄の身体に戦慄が走った。全身から血の気が引いてゆくのが分かる。

 物々しい騒ぎと馬蹄の音、そして鬨の声、何が起きたのか。百足隊からの注進でようやく分かった。越後勢の大軍が、霧の中から忽然と姿を現したという。

「何故、ここに越後勢が」

 裏を掻いたつもりが、掻かれたのは自分だったのか。急に憤怒の気持ちがこみ上げてくる。思わず手にしていた軍配を振りかぶり、地面に投げ捨てるところを、寸前に思い止まった。

 必死に冷静を取り戻そうと信玄は、直ぐさま百足隊に伝令を命じた。

「銃隊は全員、北西の方角、旭山に向けて一斉に発砲せよ」

 旭山城に向かった奇襲別働隊に、本隊の異変を報せるためである。

「全軍に伝令、直ちに鶴翼を敷け。攻めずに、それぞれは防御に徹するのだ。やがては奇襲に向かった別動隊が戻ってくる。そこからが反撃じゃ。必ず勝てる。それまで、何としても持ちこたえよ」

 信玄の悲痛な叫びでもあった。百足隊が方々に駆け去ってゆく。

 鶴翼の陣を敷けと言ったものの、果たしてどこまで上手くいくのか。もう前線の義信勢は散り散りではないのか。勇猛果敢な諸角豊後守虎定がどこまで踏ん張れるか。頼みの綱は典厩信繁だった。

「彦五郎、飯富兵部と初鹿野源五郎に、諸角隊を至急援護に向かうよう伝えて参れ」

 彦五郎とは穴山信君、後の梅雪である。この時、二十一歳にして信玄の馬廻衆の一人として本陣を守っていた。すぐさま手綱を引いて、走り去ろうとする穴山信君を、信玄が呼び止めた。

「彦五郎、待て。敵は旭山に向かった別動隊が、やがて戻ることを知っているはずじゃ。我らへの攻撃は熾烈を極めたものになる。守備と救援に徹するよう再度念を押してこい。敵に隙が見えたとしても、それは罠じゃ。突出は決して罷りならぬ、とな」

「お館様、しかと承りました。必ずやお伝えして参ります」

 こう言うと、信君は飯富隊と初鹿野隊めがけて、全速力で駆けて行った。見事な手綱さばきだった。信玄は信君の雄姿を呑気に目で追う暇などない。本隊の守備固めが先だった。


 高坂虎綱は、いよいよいぶかしんでいた。

 敵陣はもう目と鼻の先だった。そろそろ敵の斥候や夜襲を警戒しての巡邏じゅんら兵と、遭遇してもよさそうなものだが、一向にその気配すら感じられない。

 何故だ、まさか。

 不吉な予感が再び虎綱を襲う。直ぐに先遣隊として供回りの兵を前方に走らせた。

 その兵が大慌てで駆け戻ってくるのに、多くの時間は必要なかった。

「大変です。敵の陣内及び城内どこを見ても、もぬけの殻です。人っこ一人として残っていません。我らはまんまと騙された模様です」

 陣幕はそのまま。ご丁寧に篝火まで焚いてある。偽装工作もここまで徹底されていれば、見抜けるわけがない。

 ちょうどその時だ。南東の方角であろう。一斉に放った銃声音が微かに届いてきた。

 全身に鳥肌が立った。

「しまった、まんまとはかられた。我が軍の策が見破られたに違いない。あの音は恐らく、八幡原辺りでの戦闘の合図。拙い、お館様が危ない。全軍下山じゃ、急げ」

「殿、城は如何しましょうか。火をかけましょうか」

 尤もな具申だった。先遣隊の一人だが、冷静を欠いており、名が思い出せない。

「火をかけよ。それから馬場殿と真田殿はまだ途中のようじゃ。お主は馬場殿と真田殿に報せに向かってくれ。そのまま山を下りて、麓で合流しよう」

 馬場隊と真田隊が遅いのではない。三手に分かれて山を登ったが、高坂隊が一番手前から登り始めた、その違いだった。

 山から下の様子を見下ろそうにも、中腹から下は未だに霧が深く立ち込めている。掴もうにも皆目見当がつかない。今は、麓まで降りて、馬を繋いだ所まで、駆け戻るしかなさそうだ。

 やがて、馬場隊と真田隊も後から追いついてくるだろう。とにかく、一刻も早く八幡原に着くことが先決だ。それまでは、ひたすらお館様の無事を祈るしかなかった。間に合えば、我らの手に勝利は自ずと転がり込むはずだ。

 やはり越後の虎は、只者ではなかった。何故、我らの策を見破ることが出来たのか。軍の中に間者らしき者は見当たらなかった。今更考えても詮無きこととは申せ、やはり政虎は当代一の傑物に違いなかった。

 急ぎ下山を始めながら、虎綱は敵の総大将を賞賛している自分に半ば呆れながらも、冷静さを取り戻していることに気づいた。

 同時に、山の上で声をかけた先遣隊の一人の姓は思い出していた。確か、山路という姓の若者だった。名は思い出せなかった。


 敵の先鋒を微かに視界に捉えた。

 柿崎和泉守景家率いる先鋒の騎馬隊は、敢えて横に広がらずに、三列縦隊のまま敵の先頭に突っ込んだ。敵は何が起こったのか判らない様子で、道を開けていく。向かってきた兵の二人を、馬上から槍で頭を叩き割った。そのまま圧力が強まるところまで進み反転し、更に攪乱した。敵の混乱は思ったよりも激しく、突撃の効果は思った以上のようだ。既に長槍隊が敵の歩兵の掃討を始めている。敵は鶴翼の陣形を組もうとしているが、少なくとも前方では組める状態ではなかった。反転しながら、向かってきた騎馬兵を槍で横から薙いだ。少しの間があり、大きな音がした。敵の身体が地面に叩きつけられた音だった。

 次鋒の村上義清隊と擦れ違った。更に敵陣の奥深く切り崩すに違いない。敵の目には波状攻撃として映っているはずだ。車懸かりという表現が合う気がした。

 政虎は敵の様子を馬上から俯瞰していた。未だ霧は濃いが、陽の光で戦いの様相が徐々に明らかになってきている。

 敵の先頭をこちらに向かって進んでいたほぼ三千の兵は、一部を除いて散り散りとなっており味方の槍隊の餌食となっている。それでも何とか軍としての呈を成している隊がある。諸角豊後守虎定が指揮している隊だ。その諸角隊に対し、再度攻撃を仕掛けた柿崎隊を、横から襲い掛かった敵がいた。飯富兵部昌景の隊だ。

 拙い、と判断した政虎は直ぐさま、揚北の雄である色部修理進勝長に救援を求めた。

「弥三郎殿(色部殿)、和泉守殿の援護を。今こそ、揚北の武威を思う存分にお示しくだされ」

「おう、お任せあれ」

 一言大音声で叫ぶなり、片手に大槍を抱え込み、先頭を切って駆けて行った。齢六十六歳とは思えぬ勢いだ。主に遅れを取ってはならぬと、色部隊全体が飯富隊めがけて突っ込んでいった。色部隊の勢いは凄まじい。敵の初鹿野源五郎隊をも追い込んでいく。

 この色部隊の加勢で息を吹き返した柿崎勢は、再び諸角隊に向かって突進する。

 少しずつ、状況が見え始めている。敵は混乱の中、残りの約五千の兵で、鶴翼の陣形を組んでいた。後方で事態の収拾を図ろうと躍起だったに違いない。さすがは武田信玄だった。

 正面には信玄の弟である典厩信繁がいる。その後方が信玄の本陣であろう。左翼には山県昌景と内藤昌豊の部隊、右翼が太郎義信の部隊とみえた。

 次鋒を任された村上・高梨・須田の信濃勢は既に、正面の典厩信繁に勢いそのまま襲い掛かっている。村上義清五十四歳、高梨政頼六十一歳と二人も決して若くない。むしろ当時としては老年の域に達している。しかし、北信濃勢にとっては長年の遺恨がある。それを晴らすのは今この時、とばかりに勇んで攻め立てているに違いなかった。 

「中条殿と鮎川殿は、左翼の山県昌景隊と内藤昌豊隊を攻めて下され。孫次郎は右翼の太郎義信を攻めろ。そして負けて、一度後退しろ」

 孫次郎とは三条城主・山吉豊守の通称である。この時二十一歳の若武者ながら、一軍を率いて参陣していた。

「負けるのですか」

「そうだ。負けたふりだ。引いて後退し、村上・高梨・須田隊の後ろまで引きつけてくれ。太郎義信は若い故に血気盛んだ。信玄は鶴翼を維持して守りに徹し、別動隊の到着まで時間を稼ぐつもりだろう。他の部隊はともかく、太郎は勝ちに乗じて必ず突出してくる。そこを我ら残りの全軍で叩く。鶴翼が崩れれば、あとは総崩れも時間の問題だ。行け」

 さすがに左翼の山県・内藤隊は固い。守りに徹しているので迂闊に手は出せそうもない。

 一方の右翼は山吉孫次郎豊守が、絶妙な動きをしている。一旦は攻め込みながら、徐々に後退して、太郎義信の軍一千五百を引き出してきていた。鶴翼の一角が突出してきているのが遠目でも分かる。

政虎はこの機を狙っていた。

「馬引け」

 一旦は胡床に腰かけ、戦況を窺っていた政虎だったが、速やかに馬上の人になると、残りの全軍に向けて大音声で叫んだ。

「皆の者聞くがよい。運は天にあり、いま、鎧は胸にあり、手柄は足にある。ここ戦場にあっては、死中に生あり、生中に死あるのみ。怯懦こそ最大の敵、無心こそが最大の味方じゃ。よいか、狙うは敵の総大将、武田信玄が首ただひとつ」

「おう」

 地鳴りのような本隊の将兵の声が、周囲一帯に地鳴りとなって響きわたった。

「これより総攻撃に移る。乱れ懸かり龍の旗を我が傍らに掲げよ。者ども続け」

 政虎は頭上から軍采を振り下ろした。

 毘旗と、竹に飛雀を描いた関東管領山内上杉の象徴である軍規を掲げた越後勢が、一挙に戦場へと駆け込んでいった。


「太郎の大うつけが」

 信玄は思わず胡床から腰を上げて叫んだ。

 越後勢の猛攻に対抗する術はない。気がつけば東に押され、徐々に後退を余儀なくされていた。それでも、後方から立て直して、ようやく鶴翼の陣を敷いた矢先の出来事である。今はただひたすら損害を少なくして、耐え忍ぶしかない。旭山城に向かった奇襲別働隊を待つことだけが唯一無二の策なのだ。

 あれほど厳しく突出を禁じたにも関わらず、敵の罠にまんまと引っ掛かってしまうとは、何と愚かなことか。太郎の独断専行によって、陣形の維持どころか、早晩の総崩れは火を見るよりも明らかだった。

 敵がこの機を逃すはずはない。案の定、総攻撃を仕掛けてきた。山県・内藤隊は何とか踏みとどまっているが、敵の波状攻撃に押され、このままでは本陣すら危うくなってきた。

「お館様、後方にご移動を」

「ならぬ。ここで儂が引けば全軍が雪崩を打って総崩れとなる。何としてもここで踏みとどまり、味方の到着を待つ」

 百足隊の一人が駆け寄ってきた。

「申し上げます。諸角豊後守虎定殿、お討ち死に」

 最前線の猛攻に耐えてきた猛者も、遂に力尽きたか。

 更に武将の討ち死には続く。

「初鹿野源五郎忠次殿、お討ち死に」

 源五郎はこの時、未だ二十八歳。ゆくゆくは家老の一人としての活躍を期待していたが、今となってはそれも叶わない。それどころか、自分が危ないのだ。将兵の死を悼み悲しんでいる時ではなかった。

 清和源氏の末裔であり、甲斐源氏の棟梁にして総大将の自分が、生き延びることを、今は最優先に考えなければならなかった。命が惜しいのではない。自分の死はすなわち、武田家の滅亡を意味するのだ。

「跡部、今福、室賀の隊は回り込んで、敵を背後から攻めさせろ」

 伝令が各隊に飛んでいく。

 各隊が敵の背後に回り込むが、それを予め読んでいたかのように、敵の部隊からはじき返されている。指揮しているのは、敵の副将とも言える直江実綱らしい。

「足軽大将・山本勘助殿、お討ち死に」

 敵の長槍隊に兜頭をかち割られての最期だという。

 未だに味方到着の報せはない。心の中で急かしても、どうにもならないことは分かっている。気がつけば、霧が晴れ秋の日差しが八幡原に降り注いでいる。

 巳の刻(午前十時)を迎えた頃だろうか。

 一人の負傷した若武者が、右肩を支えられて近づいてきた。嫡男の太郎義信だった。左腕と左脇腹に傷を負っている。脇腹の傷は浅く、命に別状はなさそうだ。

 山吉豊守軍にまんまと戦場に引き出された義信の軍勢千五百は、左横からの痛撃に遭い、もろくも敗走していた。更に直江実綱と安田長秀軍に追走されて、自軍の被害を大きくしている。

 戦場離脱は罷りならぬ、と自らの側近に諫められた義信は、大きく迂回して信玄の本陣に辿り着いていた。

「太郎、何故儂の下知に従わなかった。何故の独断専行か」

 信玄は珍しく感情を剝き出しにして、怒りをぶちまけていた。

「敵が我が軍の勢いに押されておりましたので、勝機を掴んだと思いました」

「それが敵の罠では、と思わなかったのか」

 義信は頭を垂れたままだ。

「そなたの勝手な振る舞いが、多くの将兵の命を奪っている。そなたは一軍の将として犯してはならない過ちを犯してしまったのじゃ」

 義信が何を言っても言い訳でしかなかった。

「もう良い。下がって傷の手当をするがよい」

 唇を噛みしめて悔しそうに引き下がる我が子を、信玄は黙ってみているしかなかった。

 既にどれくらいの命が奪われているか検討がつかない。そこに追い討ちをかける悲報が、信玄のもとにもたらされた。


 気づけば、身体中が傷だらけだった。不思議と然程痛みは感じない。

 至るところから血が滲み出ており、胴まで赤く染まっている。果たして自分の血なのか、敵の返り血なのかさえも区別がつかない。

 典厩信繁は、まさに満身創痍の状態だった。

 どれだけ敵の刃を受け、どれだけ斬撃を浴びせたのか、今となってはどうでもよかった。信繁は既に死を覚悟している。しかし、簡単にこの御首みしるしを渡すわけにはいかない。一人でも多くの敵を、黄泉への道連れにするつもりでいた。

 悪い予感は的中してしまった。兄は大丈夫であろうか。信玄さえ生きていれば、武田家は安泰だ。そのために、自分は今にも消えそうな命を燃やし続けている。既に掌の感覚はない。敵の返り血で滑る籠手も外した。刀は手にある。

 周りを固めていた家来衆も、今は僅か三人しかいない。何よりも、敵に包囲されている。気づかぬうちに遠巻きから、じわじわと慎重に詰め寄ってきていた。

 信繁は残った家来に告げた。

「敵の興味は儂の首にしかない。お前たちはこの包囲を掻い潜り、何としてもお館様の下に参じて、お命をお守りせよ」

「嫌でございます。ここで殿のお供を仕ります」

 その声の主は徒士として参陣した作兵衛だった。槍の遣い手としては、なかなか良いものを持っていた。普段は母親の梅と伴に、信繁の屋敷で働いている若者だ。

「拙者も」

「拙者も、でございます」

 残った二人も作兵衛に従う覚悟のようだ。

「この期に及んで、左様に聞き分けのないことを言うものではない。お前たちの忠義は、もう充分じゃ。今、お前たちに求められているのは、我が兄であるお館様のお命をお救いすることの一点のみ。何故それが分らぬ」

「しかし、我らがお仕えするのは左馬助様お一人です。最後までお供することこそが、我らの本望。左馬助様こそ、何故に我らの気持ちを汲んでは下さらないのですか」

たわけが。お前たちはそれで良かろう。しかし、お館様にもしものことがあれば、甲斐国はもう終わりじゃ。甲斐に残されたお前たちの家族はどうなると思う。皆の家族を守るためにも、お前たちは、ここを離脱してお館様の下に向かってくれ。頼む」

 ここまで言われては、信繁の願いを聞き入れるしかない。

「左馬助様、おさらば、でございます」

 目にいっぱいの涙を溜めたまま、作兵衛は信繁に一礼し別れを言った。

 三人が槍を小脇に抱えて、後方の一点めがけて、突っ走っていく。敵も徒士に用はないとみて、道を開けるのが見えた。

 包囲網を離脱した三人を見届けた典厩信繁は、包囲を狭めて近づいてくる敵方に向かって駆け出した。

 正面にいる、いかにも名のある武将と見受けた一人に向かって叫んでいた。

「武田信玄が弟、武田左馬助信繁ここにあり。いざ、尋常に勝負」

 一太刀浴びせたかに見えたが、敵の武者も抜いた大刀で、しっかり受け止めている。その瞬間に、数本の長槍が信繁の身体を貫いていた。

 信繁の目は、未だ微かに残る霧の遥か向こうの、青空を捉えていた。口からは生暖かい液体が噴き出るのを微かに感じていた。

「典厩信繁様、無念にもお討ち死にでございます」

 信玄は自分の耳を疑った。

 まさか、あの典厩が。嘘だ、いや、嘘ではなかった。暫くして、武者の御首が運ばれてきた。それは紛れもなく、数刻前まで共に過ごしていた、実弟の変わり果てた姿だった。

 最期を見届けた徒士三人が、一旦は敵の手にわたった御首を、必死の思いで奪い返してくれたらしい。一人は典厩の家に仕える者で、泣きじゃくりながら御首を差し出したという。

 涙は出なかった。ただ、虚無感だけがあった。

「首桶に納めよ」

 信玄は力なく一言だけ伝えた。


 高坂虎綱は焦る気持ちを抑えられないでいた。

 旭山を下りて犀川の手前までは何事も起きなかった。市村の渡しを通り抜ければ、八幡原まで一気に駆け出せる。形勢逆転は目の前なのだ。

 しかし、敵による対岸からの攻撃で、渡渉が妨害されていた。このままでは間に合わない。ただ徒に時間だけが過ぎていく。

 兵力では圧倒的に味方が勝っている。対岸の敵はせいぜい二千といったところだろう。 

 しかしながら、火縄銃と強弓による間断ない攻撃が、味方の渡渉を遮っていた。山中での戦いを想定しており、矢楯はもちろん、弓矢すら数が限られている。

 指揮している将は、馬印から甘粕近江守景持らしい。なかなか手強い相手だ。殿軍を任されているということは、総大将・政虎が一目置いている証でもある。

 感心している場合ではなかった。もう一刻の猶予も許されないのだ。

 渡渉の手段は三つ考えられた。

 その一つ目は、多少の犠牲をも厭わず、数に任せて押し渡るという方法だ。しかし、これはあまりにも犠牲の数が多く、とても採用出来ない。

 二つ目は離れた浅瀬まで移動して渡渉するという方法。しかし、これも敵に後を追われては意味がない。しかも、八幡原から離れてしまうので、その分時間を要するため、これも採用出来なかった。

 そこで考えついたのが最後の手段だった。馬場信房と真田幸隆にも、虎綱自ら馬を走らせて報せてある。

 その方法は敵の対岸、つまり市村の渡しを中心として、東西に広く一列に遠ざかり、浅瀬から一斉渡渉を開始するという手段だった。ここで全く犠牲を出さず渡渉することは不可能だが、これなら最小限の犠牲で済むはずだった。敵の殿軍が如何に精鋭と言え、自軍の六分の一程度とあっては、攻撃も限定的となる。

 全軍に号令をかけた。それぞれ西に東に軍を展開し始めた。案の定、敵は何が始まったかが分らず狼狽しているようにも見える。しかし、指揮官の甘粕近江守だけは、見抜いているだろう。さあ、どう出る、近江守。


 甘粕近江守は早くも敵に、渡渉の手段を見抜かれたことが口惜しかった。もう少し、対岸で敵を食い止めることが出来ると踏んでいた。自分の役割は敵を多く討ち取ることではない。時間稼ぎなのだ。

 敵が固まって渡渉しようと固執してくれれば、自軍が寡兵でも渡渉を妨害する自信があった。

 しかし、一万を優に超える軍勢が、あのように東西に大きく広がり、一斉に渡渉してくれば、寡兵の味方では防ぎようがない。自軍にも動揺が出始めている。

 甘粕近江守は腹を決めた。敵がいずれこの策に気づくことは、想定の内にあることだった。それが少し早かっただけ、と切り替えることにした。これからは八幡原への着到を一人でも少なく、そして、少しでも遅らせることに、的を絞るしかない。

 全軍を二隊に分けて指令した。

「既に聞いていると思うが、銃隊と弓隊は市村の渡しを中心に、それぞれ東西に二百間(約三百七十メートル)移動し、縦列展開しろ。そして、その縦列のまま犀川から遠い兵ほど、それぞれ更に東西に離れること。犀川を中心に扇の形になる。その形であれば、近くに来た敵を一人でも多く敵を射落とせるはずだ。騎馬隊は全員直ちに下馬し、長槍を持ち、河畔に展開する。長槍隊も一緒じゃ。我らは寡兵だが、敵は渡渉で人馬共に身体が冷え切っている。狙いは敵の馬の足じゃ。我らの役目は、敵を八幡原に行かせぬことの一点のみ。馬を潰せ。首は要らぬ。よいな」

 甘粕隊の動きは迅速だった。

 遅かれ早かれ、このような展開になることを予想して、騎馬隊、長槍隊、強弓隊、弓隊、火縄銃隊の長を集め、敵が押し寄せて来る前に、この策を話してあった。それが全将兵に伝わる時間は十分にあったはずだ。皆はその時が来るのが予想よりも早くなり、多少動揺しただけだった。

 河畔に着いた。既に渡渉を終えた敵もいるが、未だ少ないはずだ。きっと、味方の矢玉の餌食になるだろう。騎馬が向かってくる。迷わず長槍で馬の足を薙いだ。馬が崩れ落ち、馬上の将兵も川に岸に投げ出された。立ち上がろうとするところを槍で仕留めた。

 味方は善戦している。犀川は人と馬の血で真っ赤に染まっている。それでも寡兵であることは否めない。渡渉し終えて、我らの攻撃を無事掻い潜った敵が、八幡原に向けて走り去っていく。あとは待ち構えている弓隊と銃隊に任せる他ない。

「一騎でも多く倒せ。ここが我らの正念場じゃ」

 甘粕近江守はそう叫び、目前に迫る騎馬武者に向かって駆けていった。


 馬上の政虎は焦れていた。

 味方の大勝利は目前だ。敵の副将たる典厩信繁の他にも、名だたる将を三人討ち取っていた。典厩信繁の御首は取り返されたが仕方ない。肝心なことは、未だに信玄の首に刃が届いていないことだ。既に敵の半数は討ち取っているに違いない。それでも敵の本陣の最後が、こじ開けられていなかった。

 「南無諏方南宮法性上下大明神」と「風林火山」の旗もしっかり肉眼で捉えることが出来るところまで迫っているのだ。それにも関わらず、何故か遥か遠くに感じてしまう。

 傷を負った敵の将兵がいずれも闘気を失っていないのは、政虎の想定を遥かに超えていた。奇襲別働隊の到着に、望みをかけているのは明らかだった。

 空を見上げれば、既に陽も真上に近づきつつある。

もうこれ以上は待てない。政虎の本陣には二百の精鋭が残っている。

政虎は下知した。

「これより、全員で敵の本陣に総攻撃を仕掛ける。槍隊は騎馬を追って援護せよ。その指揮は庄田惣左衛門に任せる。良いか。他の将兵には構うな。もう一度言う。狙うは武田信玄の首ひとつのみ」

 政虎は愛刀の小豆長光を頭上に掲げた。刃先が陽光に照らされて鋭く輝きを放った。

「突っ込むぞ」

 大きな叫び声とともに刀を振り下ろした。精兵が一斉に駆け出していく。政虎も馬腹を蹴った。傍には「毘」と「龍」の旗。次々と敵を蹴散らして進む。

 突然、敵の騎馬武者が一騎正面から駆けてきた。馳せ違えた。瞬間、刃から火花が散る。敵の刀が折れて空中を舞った。奴は後ろを走る槍隊の餌食だろう。

 更に駆けた。敵の本陣が迫る。急に圧力が強まった。信玄を守る旗本が必死に抵抗している。

「臆するな、進め」

 政虎は声を張り上げ、刀を掲げて味方を鼓舞した。やがて、駆けてきた槍隊も加わり、更に乱戦となっている。

 今度は横合いから、物凄い勢いで一人の騎馬武者が襲ってきた。政虎に一太刀浴びせるつもりだろう。すぐさま、政虎は馬首を回して放生月毛の愛馬を疾走させた。

 雄叫びをあげた。敵の斬撃をかわし、思い切り刀を横に薙いだ。重い手応えだった。振り返ると、その騎馬武者が馬から崩れ落ちるのが見えた。

「殿、お怪我はありませんか」

「おう、彌太郎か」

 小島彌太郎もこの時既に、五十の齢を超えていたが、戦場では何ら若い頃の勢いと変わる所がない。「鬼小島」の豪傑ぶりは健在だ。敵の返り血を浴びた鬼の形相で、政虎の身を案じていた。

「総大将である殿が敵に向かってく姿を見た時は、一瞬心の臓が止まりそうでしたぞ。ここから先は、この彌太郎が殿の傍を離れませぬ故に、どうか刀をお収めください」

 政虎は彌太郎に従い、刀を鞘に収めながら、敵の本陣に目を向けた。

 すると、敵味方が交叉する僅かな間隙を縫って、本陣に切り込んでいく一人の武者がいた。旗本・馬廻衆のひとり、荒川伊豆守長実だ。

 荒川伊豆守は槍使いの名手だ。馬上から本陣を守る武者の胴めがけて、思い切り槍を突き差した。血しぶきを上げて倒れる武者を横目に、正面を見据えている。荒川伊豆守の前には、もう敵の総大将・武田信玄しかいなかった。

 荒川伊豆守は、大刀を抜くと信玄めがけて馬を駆けさせ、力の限り一太刀振り下ろした。

 信玄は刀を抜く間がない。とっさに手にしている鉄枠の軍配で受けた。電光一閃いっせん、火花が散った。二太刀、三太刀と振り下ろすも、その度に信玄は軍配で受け止めている。

しかし四太刀目、遂に軍配が割れ、その半分が地面に転がり落ちた。信玄はすぐさま大刀に手をかけたが、わずかに荒川伊豆守の太刀が早かった。振り下ろした五太刀目は信玄の左肩から胸にかけて切り下されていた。思わず腰から崩れ落ちた信玄の緋色の衣には血が滲み出ている。しかし、致命傷には至っていない。

 とどめ、と言わんばかりに、六太刀目を信玄めがけて振り下ろそうとした瞬間である。跨っていた馬がさお立ちとなり、伊豆守は危うく振り落とされそうになった。

 信玄の危機に気づいた中間頭の原大隅守が、駆けつけざまに抱えていた槍を、荒川伊豆守めがけて突き出したのだ。しかし、槍の先が切った箇所は馬の尻だった。長時間の戦いで疲労が蓄積しているところでの疾走であり、手元が狂うのも無理はない。

 しかし、信玄の命は間一髪のところで救われた。馬は二度三度と棹立ちを繰り返すと、狂ったように、そのまま駆け去ってしまっていた。 

しかし、まだ諦める必要はない。敵の掃討を終えた旗本衆が、十人ほど政虎のもとに集まってきている。

 信玄の御首が取るのは今しかない。本陣めがけて突入の号令をかけようとしたその時だった。無情にもその第一報が、赤備えの武者によって、戦場にもたらされる。敵の百足隊の叫びだ。

「別動隊着到、別動隊着到」

 声の限りに叫び回っている。

 この声に周囲の空気は一変する。満身創痍の敵すらも勢いづかせる、風向きの変り目を感じた。

 しまった、一足遅かった。

 政虎は心の中で叫び、臍を噛んだ。もう一歩の詰めが甘かったというしかない。まさに「流星光底長蛇を逸す」である。

 しかしもう迷っている時ではなかった。

「全軍退け、撤収だ。退き鐘を鳴らせ。直ぐさま、善光寺街道を目指して撤収せよ」

 このままでは挟撃に遭うことは免れない。一刻も早い戦場からの離脱が必要だった。敵の本隊のうちで、まともに戦える兵はもう三千も残っていない。しかし、その三千弱が別動隊の到着によって、絶望の淵から這い上がり、息を吹き返すのが戦なのだ。

 遠く北の方角に目を凝らすと、確かに新手の敵らしき武者たちが押し寄せてきている。しかし、想像していた大軍とは、些か様相を異にしていた。軍勢というよりも、まとまりのない個々の兵が方々から押し寄せて来るというのが正しい表現だった。

 甘粕隊が殿軍として、未だに犀川の畔で必死に足止めをしているに違いなかった。しかし、それも時間の問題であろう。一刻の猶予もないことに変わりはない。

「敵に構うな。戦は終わりじゃ。退け、退け」

政虎はもう一度、声の限りに叫んでいた。


 信玄は陣頭指揮に戻った。

 戦場での傷の手当は限られている。時折激痛が襲ってくるが、そんなことを言っている場合ではない。刀傷は左肩から胸にかけてのものだが、幸い、然程深いものではなかった。

 奇襲別働隊着到の報せが、皆を絶望の淵から蘇らせていた。しかし、その着到には期待していた程の勢いがない。その様子は、八幡原という広大な原野に点在している蟻が、甘い蜜に釣られて個々に集まりつつある、としか見えない。騎馬の数も少ない。途中で奪われたのか、それとも倒されたのか。これでは、挟撃で敵を掃討する前に、逃げ切られてしまう。 

 西の方角から戻ってくる兵の一部が、撤退する敵と一部交戦しているのが、遥か遠くに確認出来る程度だった。

 敵は手を打たなければ挟撃に遭うことを、最初から想定していた。だから、犀川辺りで殿軍が待ち伏せし、奇襲別働隊の反転を遅らせているのだろう。その間に決着を図る、つまり儂の首を獲るため、戦を急いたに違いなかった。引き際も悔しいほど鮮やかなものだった。

 なんと恐ろしい奴と儂は戦っているのだ。

「お館様、傷を負われたと伺い、心配して参りました。ご無事でしたか。着到が遅れ面目次第もございません」

 ようやく高坂虎綱が戻って来た。その顔には想像以上の疲労の跡が窺える。

「敵の殿軍およそ二千が、犀川の対岸で待ち伏せしており、我らの渡渉を妨害されてしまいました。仕方なく、市村の渡しから東西に離れて展開し、浅瀬を見つけて渡渉することを、選択するしかありませんでした。渡渉を終えてからも、馬の足を狙われ、銃隊や弓隊の攻撃にも晒され、そこで死傷した兵も数多おります。途中、善光寺街道に向かう敵をみつけ、側面からの攻撃を仕掛けましたが、騎馬兵が固まり立ち塞がって、歩兵を守るため、攻撃の隙を与えては貰えませんでした。犀川を渡り切れば、我らの勝ちという甘い目測が、かかる事態を招いた次第。面目次第もありませぬ」

「もうよい。過ぎたことをあれこれ言っても詮無きこと。それより、戻った兵はどれくらいになる」

「確とは計りかねますが、およそ七千かと。もう少し待てば八千、いや九千にはなるかと存じます」

「よし、その七千で構わぬ。直ちに兵を整えて西の善光寺街道に向かえ。敵の半数は未だに小市の渡しの手前であろう。そこを背後と横から襲うのだ。このまま、負けたままで終わるわけにはいかぬ。一人でも多くの敵を掃討して、この敗戦を挽回しなければならぬ」

「承知しました。馬場殿、真田殿と共に、軍を整えて直ぐに急行します。敵は退却することのみに集中していることでしょう。いくら勇猛果敢な越後勢でも、我らの勢いに、敵うはずもありません。必ずや、一泡吹かして参ります」

「頼んだぞ」

 高坂虎綱には先ほどまでの悲壮感が消えている。颯爽と馬に飛び乗り、新たに与えられた戦場に向かおうとした。

「待て、源五郎」

 信玄の一言に馬上から虎綱は振り返った。

「典厩が死んだ」

 えっ、声にしたつもりだが出ていない。

「まさか、典厩様が」

 幼い頃から信玄以上に目をかけてくれたのが信繁だった。元服し一人の将として認められてからは、共に信玄を支える良き同志のような存在だった。信玄が父ならば、信繁は間違いなく、一番に慕う兄だった。その信繁が死んだのだ。

「今、悲しんでいる時ではない」

 信玄の声が遠くに聞こえた。また声にならない。代わりに僅かの間だが、頭を垂れ、目を閉じて合掌した。

「信繁の無念を少しでも晴らしてこい。行け、源五郎」

 目を開くと同時に、虎綱は駆けていた。


「近江守、よくやってくれた」

 政虎は小市の渡しの対岸にいる。殿軍として敵を足止めにした甘粕近江守景持の功を労った。与えた兵のうち、死傷者も百人程度に止まっていた。旭山より反転した別動隊一万二千の挟撃の危機から、我が軍勢を救った用兵術は、実に見事というしかない。

 まともに挟撃を食らっていれば、今頃は数千の兵が死傷していたかもしれない。紙一重の戦いだった。

「歩兵が渡渉を終えるには、あとどれくらい時を要する」

 騎馬は既に大半が犀川を渡渉し終え、その一部は既に善光寺・横山城に向かっている。槍隊と弓隊の一部である徒士や足軽が渡り終えるまでは、決して安心出来なかった。

 その指揮は庄田惣左衛門尉定賢が対岸で取っている。

「あと四半時ほどは要するものかと」

 応えたのは、側近の吉江忠景である。

 その時だった。

 地鳴りのような叫び声と馬蹄の音が轟いた。敵の大軍が徐々に対岸に近づいてきている。

「拙い。全員駆けろ。具足を解いて川に飛び込め。小市の渡しに拘るな」

 政虎は大声で叫んだ。対岸でも、庄田定賢が同じことを叫んでいるのであろう。

「騎馬は川に入って、徒士や足軽を乗せたら、そのまま善光寺横山城へ向かえ。大弓隊、弓隊、銃隊は前へ。いつでも敵に射かけられるよう用意せよ」

 こうしている間にも、敵の大軍が迫ってきている。少しでも時間稼ぎが必要だった。

 向こう岸から、馬上の庄田定賢が駆けて来た。そのまま、川を渡るのかと思いきや、その逆だった。川の半ばで馬を止め、今生の別れを政虎に告げた。

「殿、殿軍をお命じ下さい」

「ならぬ、こっちへ来い」

「このままでは多くの兵が、敵の餌食になってしまいます。この戦の勝利を最後まで確たるものにするためにも、ここは犠牲を一人でも少なくしなければなりませぬ」

「そのためにも、お主はそのまま戻ってこい」

「いいえ、それがしは我が配下の兵と伴に、敵に突撃します。その間に何百という兵の命を救えるのであれば、それがしは本望でございます」

「ならぬ、これは儂の命令じゃ。お主にとって儂の命令は絶対ではなかったのか」

「そうでした。最後に一度だけ、殿の命に逆らうことをお詫びします。思い返せば、初陣の時より十七年余り、殿の麾下にて思う存分にご奉公出来ましたことは、我が生涯の誇りでございます」

「いかん、戻れ、惣左衛門尉。誰か、奴を連れ戻せ」

 追っても無駄なのは分かっていた。奴は一度決めたら変えないことを知っている。慌てて数騎が川に向かって駆け出したが、その時には川向うの岸に着いてしまっている。

「誠に充実した日々でございました。もう、殿の夢の先を、共に追いかけることが出来ぬことだけが無念です。どうか、お達者で。御免仕る」

 政虎は遠ざかる定賢の後ろ姿を、ただ見送るしか術がなかった。


 敵の大軍は目の前まで来ていた。

 庄田定賢の周りには百人ほどが集まっている。自分の家来の他にも、深手を負った者、逃げ遅れて諦めた者など様々だ。幸い、味方の兵が投げ捨てて行った弓矢も槍もある。先ずは弓を持たせて、斜め上に敵めがけて一斉に射かけた。上手く放てば五十間(約九十メートル)ほど飛ばすことが出来る。

案の定、敵の動きが一瞬たじろいだ。

「休むな、次から次に放て。我々が射る一本の矢が、一人の味方の命を救うと思え」

 矢は密集して向かってくる敵の中に、面白いように吸い込まれていく。

 しかし、有効な矢も八本までが限界だった。強弓であれば、それだけ腕力を消費してしまう。おまけに敵から矢楯が前面に押し出されてきた。

「ゆっくりでも構わぬ。射続けよ、続けている間は敵の動きが鈍る。それこそが我らの狙い。放て、放て」

 定賢は声の限り叫びながら、自らも矢を放った。

 その間に、武田軍が殿軍を包囲し始めた。きっと、敵の後方部隊が横に回り込んできたのだろう。なかなか、隙のない軍の指揮だ。これ以上、時を稼ぐことは難しい。この間にも、敵は徐々に間合いを詰めてきていた。

「これまでじゃ。よくぞ存分に働いてくれた。全員に感状を与えたいが、気持ちだけでも受け取ってくれ。あの世で再会を果たし、酒を酌み交わすといたそう。さらばじゃ」

 庄田定賢は抜刀すると、刀を振り下ろした。

「続け」

 先頭を駆ける。皆が思い思いの武器を手に後から続く。敵も一斉に向かってきた。先頭の敵に大刀を浴びせた。血しぶきが舞う。次の敵、槍を掻い潜り胸元深く、刀を差し込んだ。刀が抜けない。足をかけて刀を抜いた。一瞬、前が見えなくなった。顔は血糊で真っ赤に染まっているだろう。周囲は囲まれている。槍を構えた敵の怯んだ顔が目に入る。もはや、これまでと観念した。

「我こそは関東管領上杉政虎が家臣、庄田惣左衛門尉定賢なり。この首欲しければ尋常に勝負せよ」

 正面の敵に向かって二歩進んだ。既に数本の槍が定賢の身体を深く突き抜けている。後悔はない。意識が薄れていくなかで、そう思っていた。


 戦には勝利したと言えた。甘粕隊の死者と八幡原での死者を合わせても五百人足らずだった。しかし、犀川から小松原にかけての後詰の合戦による死者・溺死者及び川に流されたと思われる行方不明者は八百人近くに上っていた。これで本当に勝利と言えるのか。

 確かに討ち取った敵の首級は、敵の副将・典厩信繁を筆頭に、諸角豊後守他五千にのぼる。負傷者もほぼ同数いるに違いない。

 それでも、政虎は庄田定賢を筆頭とする味方の一千三百近い死者を出してしまったことを、嘆き悲しみ、そして悔やんでいた。信玄の首まで、あと一歩のところまで追い詰めながら、逃してもいる。

 敵は我が軍が八幡原から撤退したことをもって、自軍の勝利を喧伝するであろう。信玄のことだ。我が軍の死者も二倍以上に膨らませ誇張するに違いない。

 しかし、そんなことは政虎にとってはどうでもよいことだった。戦には絶対的な自信があった。このように大量の死者を出した戦は初めてだった。庄田定賢という優れた家来も亡くしてしまった自分が許せないのだ。信玄に太刀打ちした荒川伊豆守も大怪我を負って回復出来るか分からない。槍に尻を切られた馬が暴れたせいで、落馬し地面に叩き落されたせいだ。

 そして、今、目の前に横たわっているのは、息も絶え絶えの幻蔵だった。幻蔵ら一党が敵の斥候や間者を悉く始末していなければ、ここまでの大勝利は有り得なかったであろう。

 死期を悟った幻蔵は横山城の一室で、政虎の帰りをひたすら待ち続けていた。

「喜べ、幻蔵。味方の大勝利じゃ、全てお前のお陰だ」

 政虎は幻蔵の手を握りしめていた。

「殿、約束通り生きて戻って参りました」

「馬鹿者、こんな大怪我をしてまで、戻ってこいとは言っておらぬ」

「少しはお役に立てたのですね。良かった」

 幻蔵の声は掠れ、ようやく聞き取れる程度の大きさだ。最後の力を振り絞っているに違いなかった。

「少しなどではないぞ。今日一番の手柄はお前だ」

「有難き御言葉。もう思い残すことは」

「死ぬな、幻蔵。お前にはまだやって貰うことが山ほどある。死んではならぬ」

「殿」

「何だ、幻蔵」

「この穢れた手を、殿のような高貴なお方が触れてはなりませぬ」

 一縷の涙が幻蔵の目から頬を伝って零れ落ちた。

「何が高貴なものか。この世に生を受けた者全てに、貴賤など存在せぬ。全ては生まれた星の下で、それぞれが宿命に従い、時には抗い生きているだけのことだ。死ぬな、幻蔵」

 政虎の必死の声も、もう幻蔵に届くことはなかった。

幻の者一党を長年にわたり束ねてきた、棟梁・幻蔵の最期だった。

 政虎は幻蔵の亡骸に合掌し立ち上がった。背後に微かな人の気配を感じた。

「お前が幻蔵の後継者か」

「はい」

 政虎は振り返った。

「面を上げよ」

 未だ若い。確か、昨晩から、幾度か幻蔵の使いとして報せにきた若者だった。恐らく、政虎よりも一回りほど年下であろう。しかし、幻蔵が自分の後釜として指名した者だ。余程、信用されているのであろう。むろん、陰の集団のことに、あれこれ言うつもりは毛頭ない。よく見ると、身体の数か所から血が滲んでいる。今朝の争闘で受けた刀傷に違いなかった。

「名は何と申す」

「ございませぬ」

「では、お前は今から幻次だ。儂はお前を幻次と呼ぶ。良いな」

「有難き幸せ。ではこれにて」

「待て、幻次。お前たちに墓はないと聞く。しかし、いくら銭で雇った間柄とは言え、幻蔵はこれまで長年にわたり、儂に尽くしてくれた。命の恩人でもある。その恩人の亡骸の始末を、儂は見て見ぬふりなど出来ぬ。亡骸は丁重に葬ってやって欲しい。これは儂からの頼みだが、命令と取って貰っても構わぬ」

「畏まりました」

「それから、頭となった今から、幻蔵に代わって、儂の陰として傍近くに仕えよ。名を呼んだら直ぐに姿を現せ。全て、お前を通して指示する。よいな」

「仰せのままに」

 その声は、驚くほど幻蔵と瓜二つだった。そういえば、目鼻立ちも、どことなく似ている。そう気づいた瞬間に政虎は合点がいった。

 良い跡継ぎを持ったな。

 政虎は幻蔵の亡骸に向かって、そう心の声で伝えていた。


「我が軍は勝利した。勝鬨をあげよ、えいえいえいおう」

 信玄は八幡原に全軍を集合させ、声高らかに勝利宣言を行った。大声を叫ぶ毎に傷口が痛んだ。その勝利宣言とは裏腹に、勝鬨をあげた将兵は一万余に過ぎない。生き残った他の数千人は既に負傷しており、戦場からの離脱を余儀なくされていた。今頃は塩崎と海津の城に分かれて収容されているに違いない。 

 至る所に首のない死体が転がっており、八幡原の辺り一帯は血の海と化していた。その大半が自軍の兵の骸だった。

 善光寺街道から犀川への追撃隊も、当初の想定より少ない戦果で終わっていた。庄田定賢という政虎の近臣が、自らの命と引き換えに、多くの将兵の命を救っていた。見事な引き際だったと言うしかない。

 小松原から小市の渡しにかけての抵抗が誤算だったという。わずか百人程度の敵に時間稼ぎされた隙に、大半の敵に逃げ切られてしまったらしい。

 小市の渡しから向こうは、銃隊や弓隊が横一列に待ち構えており、追撃は断念せざるを得なかったというのが、高坂虎綱からの報告だった。結果は馬場民部に聴いても同じだった。

 敵の死者は一千二、三百程度といったところだろう。その中には戦闘以外、つまり退却時に犀川で溺死した兵の数も含まれているという。

 それに比べて自軍は五千余に及んでいる。しかも、典厩信繁をはじめ、諸角豊後守、初鹿野源五郎、山本勘助といった名だたる将が討ち死にしていた。おまけに総大将たる自分と嫡男の太郎義信までが負傷という御粗末な有様なのだ。

 全ては、敵を欺いたつもりが、まんまと裏を掻かれてしまった結果だった。正直に言えば、この戦は完敗だった。

 それでも自分はこうして生き長らえている。しかも、犀川以南の地を死守しているのだ。

我らは勝った。

信玄は痛みを堪えながらも、自らにそう言い聞かせていた。もう一方で、その思いとは真逆のことを、信玄は心に誓っていた。

 あんな恐ろしい奴との戦は懲り懲りだ、まともに戦うような過ちは二度と繰り返さない、と。

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