第9話 昇華の章 *決戦への序章

*決戦への序章


 政虎は春日山城に戻ると、直ちに国内の主だった国衆を招集した。政虎がつい先日まで腹痛で苦しんでいたことなど、まるで嘘のような回復ぶりである。城の本丸広間には所狭しと、国衆や古参旗本衆が顔を並べている。

 主な顔ぶれは、直江実綱や長尾政景、柿崎景家らを筆頭として、栃尾城の本庄実乃・赤尾城の斎藤朝信・三条城の山吉豊守・安田城の安田長秀・枇杷島城の宇佐美定満・北条城の北条高広・桝形城の甘粕景持・不動山城の山本寺定長、揚北衆からは大葉沢城の鮎川盛長・平林城の色部勝長・本庄城の本庄繁長・中条城の中条藤資、それに高梨政頼・村上義清・須田満親らの北信濃衆であった。

 召集の狙いは言うまでもない。宿敵・武田信玄との決戦に向けての諸準備と進発日程の確認、加えて課する軍役と役割を明確に示し、それを徹底する必要があった。また、この一戦に賭ける覚悟と意気込みをあらためて示し、意識の統一を図るつもりだった。

 もちろん、大広間に集まった者たちも、関東管領となった政虎が、宿敵である武田信玄に対して、乾坤一擲けんこんいってきの大勝負に挑むであろうことを、薄々感じている。その場は、独特の緊張感と異様なほどの高揚感に包まれていた。

 先ず政虎は、春日山城の留守居役と越中の一向一揆を封じ込める役回りに、長尾政景と斎藤朝信を充てることを発表した。

 小荷駄隊とその守備隊は、直江実綱に任せることにした。兵站の確保と補填は地味な役回りながら、戦を支える要のひとつである。総力戦を決意している政虎にとって、最も信頼出来て老練な実綱を置いて、他に任せることは出来なかった。

 各国衆には馬、鉄炮、槍、弓、徒士かちや足軽、大小旗持の数まで、細かく軍役を指示した。

 この軍役は、庄田定賢、荒川長実、吉江忠景ら中堅旗本衆に予め命じて、入念な下調べを経て作らせたもので、不平が出ないように配分している。

 最後に、政虎は信濃への進発を、稲の刈り入れ直後である八月十四日と定め、軍用金を補填するとともに、参集した国衆に酒宴を催した。

 この前日に、政虎は上田庄から出てきた長尾政景を、自身の居室に招いている。

「義兄上、実は此度の戦においても、留守居役をお願いしなければなりません。義兄上が戦場における働き場を求めていることは、重々承知のうえで申し上げております」

 今回はてっきり、戦場での相談事と思ってやってきた政景にとって、政虎の第一声は驚きの内容でしかなかった。

「正直申し上げましょう。関東遠征時の留守居役は致し方なしと、諦めておりましたが、此度は武田との大戦と聞いております。その戦に向かえないとは如何なることか、その理由をお伺いしたい」

 気持ちを考えれば当然だが、政景の声は自ずと大きくなっていた。

「我が本音を言えば、義兄上にもご出馬を願いたいのですが、此度だけはそうは参りません。既にご推察の通り、北信濃における此度の戦は、これまでにない大戦になると思います。敵の方でも、どちらが真の東国の覇者であるかを、決する気持ちで向かってくるでしょう。敵も必死なら、我が方も必死、もちろん負けるつもりはありません。しかし、いつ何が起きるか分らないのも、戦でございます。特に、相手が武田信玄入道であるだけに、紙一重の判断が、勝敗を分けるものと思われます。それに、昨年の駿河の今川義元殿のこともございます。万が一、この身に何かがあった場合は、誰かに後を継いで貰い、事態を収拾して頂かなければなりません。その資格があるのは、義兄上を置いて他にいないのです」

「まさか、死ぬ気ではないでしょうね」

「そんな気はさらさらありません。ただ、此度の戦は死ぬ位の覚悟でなければ、生きて勝利を掴むことなど、到底叶いそうもありません。あまくまでも、最悪のことを想定したうえでのお願いなのです。後方の地味な役回りばかりをお願いし、心苦しい限りです。しかし、義兄上と二人で共倒れになることだけは、絶対に避けなければなりませぬ。それに、越中の一向宗徒の抑え込みもあります。留守居役の件、どうかご了解いただけませんか」

「そこまで深いお考えとは知らず、恥じ入るばかりです。殿の真意、しかと承りました。この春日山の備えが盤石であればこそ、後顧の憂いなく、戦に臨めるというもの。留守居役の件、この新五郎にお任せください」

「有難うございます。留守居役には蔵田五郎左衛門尉の他にもう一人、斎藤下野守朝信殿を充てて、越中の一向宗徒を抑え込んで貰うつもりです」

「他の人選も殿にお任せします。しかし、沈着冷静で、且つ勇猛果敢な斎藤殿ならば心強い。殿が留守の間、ともに手を携えて、お役目果たしてご覧に入れましょう」

「そのお言葉を伺い、安堵いたしました。義兄上の分も含めて戦い、必ずや吉報をお届けするつもりです。それまでのお役目、どうかお願いいたします」

「承知しました。では、その吉報を楽しみにお待ちするといたしましょう」

 政虎の居室を出た政景が、何気なく外の景色に目をやると、一羽の赤とんぼが我が物顔で悠々と飛ぶ姿が映った。

「山はもう秋か」

 意図せずに呟いた独り言だった。あの赤とんぼのように、何も考えずに悠々と空を飛んでいけたら、どんなに気が楽だろう。

呑気なことを考えている自分に気づき、思わず苦笑する政景だった。


 国衆を解散させた後に、政虎が向かったのは与板だった。もちろん、直江実綱を従えてである。

 蒼衣の墓参りに赴く旨は、前日の酒宴時に、実綱に伝えていた。

 前回の墓参りからは、早や三年の歳月が経過していた。前回は確か、二度目の上洛を決めた時だった。

 政虎は蒼衣の墓前に手を合わせ、その魂に向かって自然に語りかけていた。


 遠征先で二度の大病に罹りながらも、こうして無事戻れたのは、きっとそなたが守ってくれたお陰だな。

 京では新しい天子様と公方様にも会うことが出来た。そして、とうとう関東管領を継いでしまった。名も景虎ではないぞ、政虎だ。

 儂は関東管領として、攻め寄せる外敵を討たねばならぬ。

 もうすぐ、親父殿と共に信濃に出陣する。武田信玄との決戦だ。これまでにない大勝負となる。これも国と越後の民の安寧を守るためじゃ。

 また、多くの血が流れるのは心が痛む。しかし、この乱世にあっては、将兵の血と引き換えに、越後の民を守らねばならぬ。他国の敵に越後の地を踏みにじられてはならぬ。儂は争いのない泰平の世を迎えるまで、戦い続けなければならない宿命にある。

 どうか、わかってくれ。そして、儂に力を貸してくれ。


 この時、またもや、心地よい乾いた風が、政虎の身体を撫でるようにして、通り過ぎて行った。少しだけ秋の訪れを感じさせる清々しい一瞬だった。

 今の風が蒼衣の返事だったのだろうか。

 政虎は立ち上がり、後ろで控える実綱に譲った。

 その晩は、与板城に一泊する手筈になっている。

「殿、お身体の具合は、本当に宜しいのですか」

 城に向かう馬上から、実綱が政虎に語りかけた。

「無論じゃ。お主にはまたもや心配を掛けてしまった。慣れない土地での気疲れと身体の疲れが災いして、腹の臓腑を痛めつけたのであろう。もう心配ない、大丈夫じゃ」

「何度でも申し上げますが、決してご無理をなさってはいけません。殿のお身体は、殿お一人のものではないのですぞ。今や関東管領・山内上杉殿」

「わかった、わかった。左様に儂を責めるな」

「分かって頂ければ、それで宜しいのです」

 毎度のことながら、二人は同時に噴き出してしまった。

 その晩は、差し向かいで久しぶりに、二人での宴となった。

「坂戸の新五郎殿には納得頂けたのですか」

 実綱はやはり、長尾政景に留守居役を打診した時の様子と結果が気になるらしい。

「最初から本音をぶつけたので、快諾してくれた。ただ、理屈のうえでは分かっていても、腹の底では武士もののふの血が騒ぎ、抑えがたい気持ちもあると思う」

 政虎は、その時の政景の表情を思い出しながら、盃を口に運んだ。

「されど、さすがは新五郎殿ですなあ。国衆の前でも不満そうな顔ひとつせずに、留守居役は自分が当然担うもの、というたたずまいでおられた」

「まことに頭が下がる思いじゃ。此度の戦は壮絶を極めた死闘になるかもしれぬ。そのような戦に義兄上を引き摺り出すわけには参らぬ。儂にもしものことがあれば、後継ぎは甥の卯松になろうが未だ幼過ぎる。父である新五郎殿は、後見役として欠かせぬ存在じゃ」

 実綱は注がれた盃を一息で飲み干した。

「さよう、次の戦で無事勝利を収められた暁には、殿が一度坂戸の城を訪れるというのは如何でしょう」

「それは妙案じゃ。坂戸には姉上もおられるし、卯松もいる。さぞかし大きくなったであろう」

「是非、そうなさいませ。ところで、殿」

「何じゃ」

「今度こそ、武田信玄との決着をつけよう、という殿の意気込みは理解しておりますが、如何なる策をもって臨むおつもりか。そろそろ、それをお聞かせ願いたい」

「それは言えぬ。いや、正確に言えば、未だ分らぬ」

「えっ、それではまたもや、これまでと同様に痛み分けか、小競り合いで終わるのではございませんか。したたかな信玄のことです、また殿との決戦を避けて、いたずらに時間だけを無駄にすることが懸念されますが」

「いや、少なくとも次だけは違う」

「何故そのように言い切れるので」

「厩橋の城に於いて、そなたと弥次郎に言った儂の予測は真実であった。信玄は儂が関東管領職を継いだことに、相当嫉妬しているらしい。自身は甲斐と信濃の守護を自認しているが、信濃については将軍家から取り消されている。一方の儂は関東公方の藤氏様を補佐する立場の管領とあっては、さぞかし居心地が悪いに違いない」

「自らの立場を優位にするには実力行使しかない、ということですな」

「その通りじゃ。東国一の弓取りとして名を馳せるには、儂を討ち破るしかないところまで、奴は追い詰められている。それにもう一つ、奴には儂との決着をつけたい理由がある」

「はて、それは何でしょう」

「昨年、今川の太守殿が討ち死にされてからというもの、奴は駿河への侵攻を密かに企てているとみた」

「しかし、甲斐と駿河は、相模を含めた同盟関係にある間柄ですぞ。まさか、そのようなことをやるでしょうか」

「そのまさかを平気でやるのが信玄という男ではないか。今川義元殿亡き後、後を継いだ氏真殿には、今川の身代が重すぎるようじゃ。数年のうちには、同盟関係を反故にして、奴は必ず駿河に侵攻する。そのためにも、背後の大いなる憂いである儂を、一度徹底的に叩きのめす必要があるというわけよ」

「なるほど、いつものことながら、殿のご明察には驚くばかり。しかしながら、それでも信玄は極めて慎重に事を進める性質たちであることは、殿が一番お分かりのはず。如何にして、信玄を決戦の場に引き摺り出すおつもりですか」

「それは敵の動きをみてから考えるしかない、ただ、決めていることはある」

「決めていることとは」

「信玄には、確実に勝てると思わせる動きをするか、あるいは、何もせずに相手の動きをぎりぎりのところまで知らぬふりをして欺くか、そのどちらかじゃ」

「それでも、これまでの信玄は、殿が隙をみせても罠と思い一切動かず、信玄が仕掛けてきた時でも殿に気づかれたと知るや、動こうとしなかったではありませんか」

「だから、今度は儂を確実に負かすことが出来ると、奴に信じ込ませることが必要じゃ。そのために動き出しは限界まで我慢して遅くし、動くときはこれまでよりも、速さを追求しなければならぬ。皆には一時辛い思いをさせるが、その調練を荒川や吉江、そして庄田を中心に課している。まさに『死中に生あり』の境地を叩き込んでいるところよ」

 政虎は言い終わると、盃を美味そうに口元に運んだ。

「実に面白くなりそうですな。この与兵衛尉、生きるも死ぬも、殿とは一蓮托生の身。行くと言えば地獄の底までお付き合いしますぞ」

「出来れば極楽のほうが良いな」

 二人は、また声を揃えて笑っていた。


 永禄四年(一五六一年)八月、越後は秋を迎えている。春日山から見下ろす田園風景は、垂れた稲穂が黄金色一色に染まり、至るところで刈り取りを始める民の姿が、豆粒よりも小さく見えた。

 二年にわたり続いた飢饉からようやく解放され、今年は実りの秋となりそうだ。民にも少しずつ活気が戻ってきているらしい。

 政虎はひとり、毘沙門堂に籠る日が続いていた。このところ、毘沙門天像の前で、一心不乱に教を唱え、禅を組むだけの日々を送っている。この間、政虎は何人なりとも御堂に近づくことを許していない。

 むろん、この間に敵が放った刺客に襲われないとも限らない。遠巻きに幻の者が目を光らせていることは、その微かな気配から察せられる。恐らく、心配性の戸倉与八郎あたりが手配したのに違いないが、政虎は気づかぬふりを決め込んでいた。

 幼い頃にみた毘沙門天からのお告げは、久しく絶えてしまっていた。それが何を意味するかは考えないようにしている。しかし、考えないようにするということは、意識の片隅にあるということの裏返しでもあった。

 酒も断ち、食事も摂らず、僅かに水だけを飲むことの繰り返しである。自ずと邪念が消え去り、神経だけが研ぎ澄まされていくのが分かる。

 籠って幾日経ったのだろうか。政虎は毘沙門堂の階に歩を進め、秋の木漏れ日の下に身を晒した。無精髭が顔全体を覆っており、頬はすっかり削げ落ち、眼光だけが鋭さを増している 。

 城では主の戻りを待ちわび、出迎えた近臣が、政虎の身体全体から発せられる気のすごみに、一瞬たじろぐ程で、一様に身震いするほどだった。

「白湯を持ってこい。それから湯屋の用意じゃ。粥と香の物も忘れるな」

 我に返った近臣衆が、慌てて方々に指示している。

「お待たせしました」

 耳慣れた声の主だ。そこには静かに白湯を差し出す、庄田惣左衛門尉定賢の人懐っこい笑顔があった。目で合図を送った政虎は、受け取った白湯をゆっくりと流し込んだ。白湯がじんわりと身体に浸み込んでいく。徐々に生気が戻る感覚を政虎は楽しんでいた。

 永禄四年八月十四日、政虎は総勢一万三千の軍勢を率いて、春日山城下を出立した。向かうは北信濃・善光寺平である。軍の進発に当たり、政虎は自ら筆を取り、五か条の戦陣訓を著した。


一、 何年在陣に及べども、主君のために命ぜられるままに働くべきこと

二、 陣中における喧嘩や無道の振舞ある時は、直ちに容赦なく成敗されること

三、 備えについて意見があれば、申し出ること勝手たるべきこと

四、 出陣の命があれば、いずこなりとも従うべきこと

五、 再度出陣する時は、たとえ一騎たりとも馳せ参ずべきこと


 この中に必勝を期する政虎の強い決意が垣間見ることが出来る一方で、備えについての積極的意見具申は認める等、政虎の合理的な考えの一端が見て取れる。

 進発に際し、政虎の出で立ちは、表に金箔を施した烏帽子形の兜をかぶり、左手には平たく角を削った水晶玉を連ねた数珠を手にした、まさに関東管領に相応しい堂々たる風貌と装いだった。またがる馬は毛氈鞍覆で飾った、放生月毛の愛馬である。

 傍らには「毘」の旗と紺地日の丸軍旗が立ち並び、続く全軍が関東管領山内上杉家の家紋である「竹に雀」の旗を、意気揚々と掲げて進軍する。

 政虎率いる越後勢は、北國街道をひたすら南進し、北信濃へと軍を進めた。政虎が陣を構えたのは旭山城である。この城は前回の対戦時に、政虎が再興した北信濃最前線の城だった。城では先発隊として既に入城していた村上義清と高梨政頼、それに須田満親を加えた北信濃兵二千が、越後からの全軍を迎え入れた。総勢一万五千の大軍が頂上の旭山城本丸を中心に埋め尽くし、山全体が異様なまでの闘気に包まれている。

 方々の陣営では、馬具を外して水を飲ませ、馬の脚や爪に異常がないかの確認や、体の汗拭き等の手入れが始まっていた。最も早く到着した隊などは既に秣も与え始めている。火縄銃隊や徒士、足軽は、それぞれの武具の確認と丁寧な手入れに余念がない。

 政虎は旭山城の本丸から、南東方向に位置する海津城を見下ろした。今頃は、海津城代の高坂虎綱も我らを気にして、旭山を見上げているに違いなかった。

 政虎の後方に控えていた村上義清が、少し前に進み出た。

「未だ信玄は甲府を出立していないようです」

「そうか」

 政虎は一言だけ返し、旗本近臣衆を呼んだ。

「皆はこれから各陣営を回って、儂の言葉として伝えてくれ。これから明朝までに限っては、具足を解くことを許す。なお、二杯を限度として酒を振る舞うことも許す。むろん、これを破った者は問答無用で処断する。以上だ」

 既に幻蔵が率いる幻の者一党が、善光寺平の各方面に散り、敵の夜襲もないことを確かめたうえでの、政虎の粋な計らいだった。


 政虎が旭山城に着陣したとの報せは、山から山に伝わる狼煙によって、甲斐国・躑躅ケ崎館にいる武田信玄のもとに届けられた。

「越後勢が我らの先を越して、信濃に入ったとは些か驚きました。長尾殿は一時、厩橋で病に臥せてしまい、帰国すら危ぶまれる容体だったとのことでしたが、噂とはまこと当てにならないものですね」

 信玄の弟・典厩信繁が報せを聞きつけ、駆けつけていた。

「いいや、噂は真実じゃ。良き薬師の診立てと薬のお陰で、急速に快方へ向かったらしい。何とも、悪運の強い奴よ」

「そうであるならば、その悪運は我らが何としても断ち切らねばなりませぬ。今、海津城の守兵はわずかに二千足らず。我らの到着前に大軍で攻められれば、落城も覚悟しなければなりません。明日には我らも全軍が揃いますので、急ぎ進発しましょう」

「典厩、そう焦らずともよい。奴が欲しいのは城ではない。儂のこの首じゃ。奴は儂が来るのを必ず待っているはず」

「兄上の言う通りでした。それでも進発は一日でも早い方が良いと思うのですが」

「うむ、全軍が揃ったところで、主だった将をこの場に集めよ」

「では、早速」

 総勢一万の軍勢が揃った段階で、主だった将が躑躅ケ崎館・本丸御殿に集められた。

 甲斐の主だった将は以下の通りである。穴山信君(梅雪)、山県昌景、内藤昌豊、諸角虎定、馬場信房、飯富虎昌、甘利昌忠、小山田虎満、跡部勝資等、他は弟の典厩信繁と嫡男の太郎義信だった。

なお、真田幸隆ら信濃衆八千は途中から合流する手筈となっている。海津城の守兵二千と併せると、総勢二万余という大軍になる予定だ。

一同を前にして、床几に重々しく腰かけた信玄は、一度全員の顔をゆっくりと見回してから口を開いた。

「此度の長尾との戦は、これまでの小競り合いとはわけが違う。今までに経験のない大戦おおいくさになることを、皆に覚悟して貰わねばならぬ。越後勢とはこれまで三度にわたり、干戈を交えてきたが、決着をつけるには至っておらぬ。しかし、かような膠着がこれからも続くようでは、我らの新たなる途は閉ざされたまま、いつまで経っても開くことはない。此度こそ、何としてでも雌雄を決せねばならぬ。敵は長尾弾正、相手にとって不足はない。我ら清和源氏の武威を天下に示す時と心得よ」

「おう」

 力強い諸将の掛け声が、館の主殿に力強く響き渡った。

 信玄は振り返りざまに、床几から腰を下ろし大音声で発し。その後を追うように、全員が唱和した。

御旗楯無みはたたてなしご照覧あれ」

 武田家に代々受け継がれてきた「御旗、つまり日の丸の旗と楯無の鎧」に向かって、戦勝を誓う言葉である。

 信玄の進発に先立っては、源義家の弟であり、武田家の始祖である新羅三郎義光が着用したと伝わる「源氏の象徴・家宝」に対して誓約することを常としていた。

この時も、全員の士気を鼓舞する効果としては十分だったが、信玄のこれまでにない並々ならぬ決意を目の前で聞いたからには、諸将も大いに発奮せざるを得ない。

独特の緊張感がその場の空気を包み込んでいる。信玄は八月十八日を甲府出立の日と定めた。


 八月二十日払暁、海津城代の高坂虎綱は、物見の声に叩き起こされた。

 千曲川の対岸に、大軍が押し寄せているとの報だ。「竹に雀」の旗が乱立しており、遠くには毘の旗も確認出来るという。

 越後勢が旭山に着陣したことは狼煙で伝えてある。一両日のうちに信玄の本軍も着到するに違いない。しかし、まさかこの間隙に、越後勢が攻めてくるなど、予想もしていないことだった。虎綱は端から、政虎が信玄との決戦しか眼中にないと思っている。

 敵はこの城を先ず血祭に挙げようという魂胆なのだろうか。もしもそうであるならば、断じて敵の思うようにさせるつもりはない。こういう時こそ、城の主たる自分が、冷静に指揮しなければならない。

 動転した気を落ち着けようと小袖を通し、具足を整えながら、意識的に声を低くして、守兵の配置を指示した。

 物見からの報せでは、城全体を取り囲んでいる様子はない。あくまで城の西側に千曲川を挟んで、全軍を集中させているらしい。

 虎綱は不可解でならなかった。敵は一万余の大軍である。本気で落城させるつもりであれば、先ず渡渉して城全体を囲むのが定石であろう。ましてや敵は、戦で負け知らずの越後の虎である。果たして、何を考えているのか。

 釈然としないまま櫓に駆け上り、虎綱は対岸の大軍に目をやった。不思議だった。これまでのような身震いする程の、大地を覆いつくすような闘気はなりを潜めている。

 突然、敵の法螺貝の音が、辺り一面に鳴り響いた。矢楯を前面に押し出したかと思うと、城めがけて無数の矢を射かけてきた。しかし、殆どの矢は千曲川や外堀の中に吸い込まれてしまい、ようやく外壁にたどり着いた矢も数えるほどしかない。

 虎綱は城内の火縄銃隊に対して、一斉に発砲するよう命じた。わずか二十丁であり、遙か遠くの敵に対する命中率が低いのは、分かりきっている。味方が活気づき、敵が少しでも怖じ気づけば、それで効果は十分というものだ。

 すると今度は、鉦と太鼓の音と共に、敵の軍勢の中から数十人ほどであろうか、強弓を抱えた剛の者が、素早く前線に進み出てきたかと思うと、再度一斉に矢を射かけてきた。矢羽根が不気味な轟音を立てて、今度は城の方々に突き刺さっていく。断末魔の叫び声の方に顔を向けると、数人の兵が胸板や頭を貫通され、次々に倒れる姿が目に入った。

 頭に血が上った虎綱は、再度鉄砲隊に発砲を命じた。敵に目を向けると、強弓を放った敵の弓手たちの姿は既にない。一矢のみ放つと速やかに引き下がり、軍勢の中に紛れ込んだのに違いなかった。

「高坂殿」

 櫓の下から大きな声がした。共に守将として城内に詰めていた信濃衆のひとり、室賀信俊が叫んでいる。

「我らは騎馬隊を引き連れて、城の南側から回り込み、敵の横合いを突き崩そうと存ずるが如何かな」

「お待ちくだされ、室賀殿」

 櫓から急ぎ降り立った虎綱は、今にも軍勢を引き連れて飛び出しそうな、室賀信俊を慌てて静止させた。

「殿からは、甲斐の本隊が到着するまで、一切城を出て交戦に及ぶこと罷りならず、との厳命を受けております。そのうえ櫓から敵情を視察しますに、左翼右翼の備えは万全とお見受けいたしました。もし、我らが不意を突いたつもりで攻め入れば、逆に素早く取り囲まれて殲滅は免れませぬ。敵のこれまでの動きからは、本気の城攻めとは思えないのです。如何なる罠が待ち構えているか分らぬ以上は、不用意な突出をどうか思い止まりください」

 意に反した虎綱の反対に、気を悪くした室賀信俊は、かしこまった、と一言だけ発し、踵を返して足早に立ち去ってしまった。

 この時、虎綱は信俊に対して、敢えて一つの嘘を口にしていた。確かに敵の右翼はいつ伏兵が現れても対処出来るような迎撃態勢を敷いているが、左翼は千曲川を横にみて、備え万全とは言い難い。

しかし、それこそが敵の罠ではないかと、直感するものがあり、咄嗟についた嘘だった。

 虎綱は嘆息していた。

 信玄に気に入られようと、功を焦る信濃衆の気持ちも分らぬではない。しかし、極めて凡庸な策が、戦上手の越後の虎に到底通用するわけがない。それも分らず機嫌を損ねるとは、全く困った御仁じゃ。

 その後、再び櫓上の人となった虎綱だったが、敵の動きは全く感じられない。城に向かって仕掛ける素振りすら見せないまま、時間だけが経過していった。

 辰の刻(午前八時)を回った頃、ようやく敵の遥か後方からの動きが確認出来た。間違いなく退却だった。毘の一文字を記した政虎の旗も、徐々に小さくなっていく。やがて、最後に残っていた矢楯も、兵が後ずさりしながら持ち去っていった。敵は篠ノ井の辺りから善光寺街道を北上して、旭山城に戻っているに違いない。

 結局、払暁から始まった越後勢の動きは何だったのか、目的が判然としないまま終わってしまった。

 やがて、城の南北東方を見張っていた物見からも、それぞれ報せを受けた。忍びと徒士らしき数人が城の周りを動き回っては、何やら探っている様子とのことだった。既にその怪しい輩も、追っ手からも逃れ、いずことなく立ち去ってしまっている。

 虎綱は櫓からの監視と警戒を怠らぬよう命じて、自らは城内に向かった。途中、傍らに突き刺さっている矢を見つけて抜き取り、力任せに膝でへし折った。


「守将の高坂虎綱とやら、なかなかの器とお見受けしました。殿の誘い水に乗る気配すら、見せませんでしたね」

 旭山城に戻り具足を解いた政虎に、直江実綱は話しかけていた。

「信玄が城代として任せたくらいだ。恐らく武田家中でも余程の智将として認められているのであろう。仕方あるまい。わざと右翼に隙ありとみせかけ、その誘い水に乗って来たならば、直ちに包み込んで殲滅せんめつしようと思った迄のこと。そんな些細ささいなことはどうでもよい。第一の目的が達成出来たことを喜ぶとしよう」

「左様でした。此度は敵が『飛んで火に入る夏の虫』とはならなかった、というだけのことでしたね」

 二人が床几に腰掛けると、ほぼ同時に主だった諸将も、続々と本丸に駆けつけてきた。政虎の背後には八人の旗本衆が控えている。

 全員が揃ったとの耳打ちを受けて、政虎は語り始めた。

「今日の城攻めは、大方の兵に詰まらぬ思いをさせてしまった。また中には、折角、海津城に近づいていながら、ろくに攻撃もせず、そそくさと包囲を解いて帰城したことに、不満を口にした者も多かろう。皆が拍子抜けしたことは、十分に分かっておる。唯一仕掛けた罠にも、敵が乗ってくることはなかった。しかし、皆には安心して欲しい。儂の目的は十分に果たせたことを、この場で報せておく。済まないとは思うが、今、仔細については触れることが出来ぬ。この城のどこかにも、敵の間者が入り込んでいると踏んでいるからじゃ。その代わり、今日だけ儂から全将兵に酒を振る舞おうと思う。今は未だ申の刻(午後四時)にもなっておらぬから、明日には差し支えあるまい。これから、各陣営に酒が届く手筈になっておるので、今の儂の話を添えて、将兵をねぎらって欲しい。但し、今日もひとり二杯までとする。酔って乱暴狼藉を働いた者は厳罰に処する。何か聞きたいことはあるか」

 政虎がここまで自信満々に言うのであれば、誰も否と言うはずがない。

「では、今日のところはこれで解散とする。交替での監視警戒はくれぐれも怠らぬよう。では大儀であった」

 政虎の合図で集まった諸将が、それぞれの陣屋に足早に戻っていく。

 残ったのは、旗本衆の要である八人だった。小島彌太郎、金津新兵衛、秋山源蔵、黒金孫左衛門、戸倉与八郎、庄田定賢、吉江忠景、それに荒川長実である。荒川は庄田の幼馴染みであり、武芸に秀でていることから、数年前から近臣として取り立てていた。

「幻蔵出でよ」

 何処からともなく、その場に幻蔵が姿を現した。

「幻蔵は話さなくていい。ただ、これからのことはお前の手足となって動く者には、必ず報せておいてくれ。彌太郎、海津城の各方面の様子は如何であった」

 政虎は本日の本隊の動きに合わせて、変装した幻蔵他幻の者九人と旗本八人に、書き取り役十二名を加えて、海津城の南・北・東側をそれぞれ探らせていた。一方向十人の編成だった。

「殿がにらんだ通りでした。千曲川に流れ込む天然の支流を活かして外堀となし、内堀も予想以上に広く、外壁も高くつくりこんでおります。四方のどこをとっても攻めるに難い城のようです」

 彌太郎が先ず大まかな感想を述べた。

「そうか。これまでも幻の者より、少しは聞いていたが、皆の見立てが一致したとなれば、城を攻めるとすれば大弓による火矢しかない」

「では火矢攻めにするということですか」

 吉江忠景は政虎の意が汲めない。

「そう慌てるな。守るに易く攻めるに難い城であることが、分かったということじゃ。いつか火矢攻めにする機会がないとも限らぬが、此度の目的はそうではない。信玄が今日の我らの動きを知ったらどう考えるか」

「同じように考えるとすると、火矢での攻撃、特に夜襲に備えます」

 即答したのは庄田定賢だった。

「その通りだ。敵はいつまた来るか、と不安にさらされる毎日になる。そして、その不安に耐えられなくなる前に、敵が攻め入る手段を考え始める。これが今日の出陣の目的じゃ」

「なるほど、殿は相手が必ず仕掛けてくるように、仕向けたというわけですな。しかし、敵の仕掛けに対して、如何なる策をもって臨むおつもりですか」

 その声の主は、古参のひとり金津新兵衛だった。

「これから言うことは一切他言を禁ずる。良いな」

 政虎は善光寺平を中心とする図面を広げた。

「信玄入道は先ず、これまで通り塩崎城に入るが、そこで軍編成を終えた後に、必ず海津城に入るとみた」

「それは如何なる理由でしょうか」

 政虎の自信はどこから来るのか、皆が不思議に思っていることを秋山源蔵が代弁した。

「儂ならば、そうするからじゃ。よいか、敵は一万六千から八千という大軍で北上してくる。塩崎と海津の城の守兵を合わせれば総勢二万を超える大軍となろう。此度は奴が本気だという証拠だ。奴は痺れを切らして、必ず一度は仕掛けてくる。儂が信玄ならば、どこかで越後勢を挟み撃ちにすることを狙う。一万二千の兵で緒戦を戦い、とどめは信玄率いる本隊八千が横合いからの攻撃じゃ。どうだ。儂はその策にまんまと乗ってやろうと思う」

 全員から、おおっ、という感嘆が漏れた。

「殿、その時期はいつ、どうやって掴むので」

 庄田定賢らしい問いかけだ。

「惣左衛門尉、この辺り一帯の秋の晴れた日の朝と言えば、すぐに何を思い浮かべる」

「濃い霧ですか」

「そうじゃ。奴はその濃い霧の日を利用して、必ず仕掛けてくるはず。その時が勝負じゃ。今はそれしか言えぬ。しかし儂を信じろ。此度こそ決着をつけてやる」

 政虎の並々ならぬ自信と闘志を、目の当たりにした一同は、それだけで充分だった。あとは政虎の下知に従って動くだけだと思った。


 武田信玄が塩崎城に入ったのは、八月二十三日未の刻(午後二時)のことである。

 その着到を、首を長くして待っていたのは、海津城代の高坂虎綱だった。虎綱は一日も早く、信玄に戦況を報せようと、わずかな手勢を引き連れて海津城を発ち、塩崎城まで駆けつけていた。この間、海津城の備えは、室賀信俊に任せてきている。

「源五郎、来ていたのか。先ずは三日前の越後勢の動きが知りたい」

 珍しく急いた信玄に、虎綱は実際に見て聞いたままの状況を、事細かく説明した。

「確かにそれでは、敵の動きの意味するところが全く判然としない」

 信玄のつぶやきを聞きながら、次に口を開いたのは弟の典厩信繁だった。

「室賀殿の進言を取り入れて、千曲川の南側から攻めていれば、確かに味方の損害は計り知れないものとなったでしょう。狙いは我らの消耗、緒戦で勝利し我らの出鼻をくじくことにあったのではないでしょうか」

「さもあらぬ。しかし、それはあくまでついでのことだろう。長尾弾正は、左様な小手先の戦に拘るような器でないことは、典厩もよく存じておろう。一番の目的は他にあるはずじゃ」

 信玄は謙信について触れる場合、生涯、上杉の姓を使用せず、旧姓の長尾で通したという。

「兄上は如何お考えですか」

 そう言う信玄も意図がわからない。鎧を解き直垂姿になった信玄は、腕を組んで黙り込んでしまった。

「分らぬ。しかし、引っかかるのは、強弓で矢を放ったことじゃ。それも、数十人が一斉に放ったのが一度きり。そのことにどれほどの意味があるのか」

 信玄は顎髭を撫でながら、再び黙り込んでしまった。

再び口を開いたのは典厩信繁である。

「ひょっとすると、敵は強弓で矢が城まで届くかを、測ったのではありませんか。そして、届くと分かった。もし、我らが着陣後に、火矢で攻めてきたなら」

 その話を聞いていた信玄は鳥肌が立った。

「典厩、恐らく狙いはそれだ。我らが城内にいる時を見計らい、火攻めにしようという魂胆に相違ない」

「であれば、敵は夜襲を目論むはず。源五郎、今日からは海津城の篝火を増やし、櫓からの見張りや見回り人数も増やせ。敵の夜襲に警戒するのだ」

 すぐさま、信繁は信玄の意を体し、傍に控える海津城代の高坂虎綱に命じた。

「委細承知、では直ちに戻り、全将兵に伝えます」

 虎綱が海津城に駆け戻っていく。その姿を信玄は顎髭を撫でながら、満足そうに見送っていた。その中に何本か白いものが混じっているのを、隣にいた信繁は見逃さなかった。


「ご注進、ご注進」

 物見からの報せだ。

 武田の大軍が、東に向かって進軍中だという。甲斐勢の本隊が塩崎城を発ち、海津城を目指しているとみて、先ず間違いない。

 八月二十六日、刻限は巳の刻(午前十時)を少し回ったところか。塩崎城での三日間は軍編成に時間を費やしたのであろう。追って、その軍勢の中に「南無諏方南宮法性上下大明神」の旗と「孫子四如」の旗も目視で確認したと、幻蔵から報せを受けている。

「やはりな」

 政虎はそう一言だけ呟いた。

 敵の総数二万余に対して、味方は一万五千人だが、戦は数ではない。

「主だった将を集めよ」

 近臣旗本衆が諸将のもとに駆けていく。旭山城本丸である政虎本陣に全員が揃うまでに、四半時もかからなかった。

「未だ我が軍勢の中に、間者が入り込んでいることは疑いない。だから、これから話すことは他言無用とする。今日から敵は塩崎と海津に軍勢を分けて、我ら旭山を二方向からにらんでいる。特に海津城の本隊は、これから毎晩我らの夜襲を警戒して、神経を擦り減らすことになる。そして、必ず攻めて来るが、問題はそれがいつであるかだ。これからは朝晩の冷えが厳しくなってくる。ましてや、ここは山頂だ。越後を発つ前に、寒さに耐えうる衣を、用意するよう命じているとは言え、それまでの間、兵には我慢を強いることになる。しかし、ここを耐えなければ、我らが勝機を掴むことはない。我らは敵を迎撃して必ず勝つ。それまで、どうか儂を信じて欲しい」

「信じろ、と言っても、いつまで続くのか、分からないのでは兵も納得しません。もう少し詳しく教えて頂きたい」

 異を唱えたのは、勇猛果敢で有名な柿崎和泉守景家である。それは周囲の目からみても、諸将の腹の内を代表しての発言であることは間違いなかった。

「和泉守殿の申すこと、もっともである」

 政虎はこの一言を予想いていたかのように即答した。

「しかしながら、これまでの三度にわたる武田勢との戦いを振り返って欲しい。我らがこれまでに勝負を仕掛けたのは、一度や二度ではない。その度に、敵は正面切っての決戦を避け、結局は冬が来る前に、やむなく帰国するしかなかった。しかし、此度は違う。昨年、駿河の今川義元殿が討ち死になされ、甲駿相の三国同盟の結束も些か危ういとみている。むろん、その結束を真っ先に壊すのは、他ならぬ信玄であろう。それに加えて儂の関東管領職継承じゃ。信玄の焦り妬む顔が目に浮かぶ。だから、此度は奴も儂との決着を急いでいるはずじゃ。それが証拠に、奴は総勢二万余という最大兵力での布陣で臨んでいる。これが今、動員出来る奴の限界に違いない。この機を逃す手はないのだ。皆には今ここで、耐え忍んで欲しい。頼む」

「敵も決戦を望んでいることは、確かかもしれませぬ。であれば尚更、いつ頃までどうやって勝機を掴むのかを訊かぬことには、我らも収まりがつきませぬ」

 こう述べたのは、揚北衆のひとり、平林城の色部修理進勝長だった。

「ではひとつだけ言っておく。朝晩の冷え込みが激しく晴れた日の翌日、濃い霧が出る日が決戦の時だ。よいか、絶対に他言してはならぬ。全て極秘のうちに進めるしかないのだ」

「承知いたした」

 その声の主は安田治部少輔長秀その人だった。景虎の初陣からの支援者のひとりである。

「全員が知っての通り、我が殿は初陣の時より戦では負け知らずじゃ。その殿がここまで我らに言うからには、余程、勝算があると見込んでおるはず。昔から『敵をあざむくには先ず味方から』と言うではないか。これ以上、殿を困らして何とするおつもりか。将兵に上手く言うのは我らの役割と心得るが如何か。のう、皆の衆」

「左様、我ら信濃衆は殿に大恩ある身にて、もとより殿と命運を共にいたす所存」

 そう続けたのは村上義清であり、高梨政頼や須田満親も同時に頷いていた。

「承知」

「我らも承知した」

 次から次に応ずる声が本陣に広がった。これで全員の腹は決まった。

「兵糧の備えは如何じゃ、与兵衛尉」

 政虎は敢えて、荷駄隊を率いる直江実綱に話の先を向けた。

「ご安心ください。向こうひと月以上の蓄えがございます。皆にひもじい思いをさせることはございません。全軍が存分な働きが出来るものと存じます」

「いま、皆が聞いた通りじゃ。飯で困らせることはない。来るべき日に備えて、存分に調練を積むよう頼む」

 政虎はあらためて集まった全員の真剣な眼差しを確認した。一人ひとりの覚悟が見て取れた。もう中に迷っている者はいない。政虎は解散を命じた。

 各将が自陣へと急ぎ戻っていく。

「ひと山を越えましたな」

 声の主は直江実綱だった。

「これからが真の正念場だ」

 政虎は自らに言い聞かせるように呟いた。


 

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